スターウォーズ スカイウォーカーの夜明け
スターウォーズ スカイウォーカーの夜明け
映画から経済を読みとく。もはや息を吸うことに近いほどに身体に染み付いているわたし。どことなく登場人物を現実世界に投影させて見ることは、映画の醍醐味だろう。映画とは何か、を模索し思考しながらいつも鑑賞している。
そもそもこの映画では善と悪を共有するのではなく、気持ちを共有することに主題があるような。ひとつひとつストーリーから読み取れる作品の時系列から見る時代の変化を探ってみたい。そこからわかる、日常で当たり前に起きている出来ないと思っていたことの出来る化。既成概念の焼き直し。科学の信奉する経済が、われわれの気持ちにさえ疑いをかけている。これらを脅威として、みんなが闘っている、そんな見方でこの作品を見直した。
まず始めに、気持ちを持たないものに対する恐怖心が、死の概念すら変えてしまうこと。感情で押しきることが悪に通じる(ダークサイド)という理性的な世界。可能性を信じることの無限の力が、いつか迎えるはずの死への恐怖心すら克服し、変わらないこと、ものへの固執が、自分を含めた周りの些細な気持ちを抑圧する。
一見、悪の特質に見えるこの心の働きは、善とされる側(反乱軍)の行動規範にも実はピッタリ当てはまるのだ。「悪」を「気持ちを持たない」集合体として定めることで恐怖とみなし、蘇生していこうとする思想は、対象こそ違えど両者ともよく似ている。共通するのは感情を越えたものへの信仰であり、明確な差はないが、そこへの配慮の度合いが両者では異なる。
つまり、感情を超越した概念である理力(フォース)に対して配慮するのなら、我々は深い意識の底を目に見えないもの(経済)とやらに預けて死ねるのか、という問題提起にも思える。
次に何かに対して思いを巡らし、想像で感情を掻き立てるメディア=映画という既成概念が変わってきていること。リブート作品の名目は、既に存在するファンの需要に応えること。製作陣にとっては、もはや観客の感情の巡る領域でなくなった過去作品との因果関係を繋ぎ、かつ新しい感情を掻き立てるような新鮮さを想像させることは容易ではないだろう。
不快感を伴うそんな作業が、そのまま登場人物の心情として表現されていた。
伝説の英雄の辿った生きざまを確かめながら、自分の進むべき道を模索し始めた彼ら。しかし、今この瞬間に焦点を絞ってスポットライトを浴びただけの不確かな自分がそこにいる。輪郭のない事実に、孤立した感情をムリヤリ肯定的に投影させようとすれば、すべてが[仕方ない]という気持ちが支配しようとする。
まさに製作側に立った視点がそのまま登場人物に投影された結果、感情ではなく同情を誘うメディアとして映画の創造的価値を新たにした。
第三に、労働の対価としての娯楽の位置付けが変わってきていることについての暗示。作品に登場する人物たちは、皆少なからず階級を持っている。組織的に運営される団体における労働を任されているのだ。脱走兵として反乱軍に寝返る人物フィンからわかることがある。
労働の種類を選ぼうという心理は、資本主義経済の介入と切り離せない関係にある。労働自体に芽生える感情は、経済が生み出す共感と対になっていなければ、仕事を共有すること、つまり気持ちを共有することが[出来ない]ひとりとしてカウントされる。この思想は、思い通りにならないことを支配することを労働だと勘違いすることから始まる。
人は感情で生きているから対価が感じられなければ労働を疑う。疑いの結果として、フィンはマイノリティとして組織から除外された。[出来ない]ひとりとして。反乱軍として生きれば、学ぶことが出来るし、話し合うことだってできる。彼は変化しているものへのつきあい方を、支配から生産に切り替えた。自らの意志で労働し、自ら対価となる娯楽を設定していく生き方にシフトしたのである。
総じて、この作品には資本主義経済への礼賛と、映画産業における再生産的な価値転換に挑戦したことへの、自画自賛的な側面がある。
これまでにない変化の正体(経済)を直視し、迅速に決断を迫られるのは映画の中の登場人物でも同じ現状のようだ。映画にも、ワイドショーやSNS 以上の情報が隠れている。娯楽として甘い認知で脳髄に受け入れていいものか再検討すべき。消化せずして消費だけして楽しむべからず。