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半分現実、半分電波


前置き


この記事気分を悪くするかもしれないから、気をつけてね。カリギュラ効果とかではなく。
言いたいことは一貫してるつもりだけど、上から下に読めば結論に至るわけでは無いことも注意して。

目的

ネットに自我預けるの、何かやばくね?って話をしたい

対話と肉体


対話とは、何であろう?

対話すると、他者が目の前に存在する限り、話し手は何らかの生のフィードバックを受け取ることになる。同調したり、たまには反論されたり、ともすれば殴られるという状況になるかもしれない。とにかく自分が他者に認識されている以上、目の前の相手と相互的に様々な、肉体的なリアクションを取ることになる。

では、インターネットにおけるコミュニケーションでは、どうだろう?

テキストないし動画を送る。投稿にいいねを受ける。次のテキストを送る。返信がある。返信し返す。それを繰り返す。たまに変な返信が来る。ブロックする。ブロックしない。たまにビデオ通話する。などなど。

全てにおいて言えることは、肉体の欠如、誰もそこに居ないという事実である。現実での対話との決定的な違いである。


そして、インターネット上では他者がより観念的な意味合いを増すだろう。iphone上の木村。FullHDの田中。Discord上のウンパスアイコン。どこかに居る彼女。削除された彼氏。twitter上の△○✕。

あまりにも多義的な


そしてインターネット上では、現実世界での対話との差異を埋め合わせるために、様々なプロセスで「対話」の代替行為が実装され、それぞれのアプリにおけるイデオロギーが形成される。
ストーリ、いいね、リプライ、ポスト、ディスライク、などなどの機能が代替行為にあたると思われる。しかしこれらの行為は、受け取り手にとってあまりにも恣意的な要素が強すぎるように思う。

例えば「いいね」は、自分の空想でいくらでも解釈可能な、フレキシブルなリアクションであると言える。例えばtwitterにおいて、ユーザーが「い」・「い」・「ね」という3文字を送付するために💗を押したり押されたりしてる訳じゃ無い事は明らかだと思う。
でも、その本当の内容は説明されない。「良い」のか、「悪いけど良い」のか、「かわいい」のか「エロ(以下略)。
思ってる事は言わないけどマークは付ける。でも、これは本来的なコミュニケーションではないであろう。目の前に人がいる状況で、「メッセージを受け取った事実」だけを相手に差し出して黙るなんて、現実の対話においてはしない。

この複数人の無言かつ多義的なリアクションは未定のまま❤に集約されて、受け手次第でいかようにも歪曲できる、0か1かのシグナルと化す。

問題は、この一連の流れが対話の代替行為として成り立ってしまっている(と思いこんでしまっている)という事実である。

言葉の無い対話の成立


なにか言いたいことがあったときに、送り手はもや~っとした不特定多数の他者を想起して文字を書く。投稿するとインプレッションがある。送り手は空想で見立てた他者(特定の友達とか、社会全体とか、誰でもない人とか)からのフィードバックを受けたと考えて、満足する。受け手も、相手の言葉を受け取ったまま、具体的な生のフィードバックを与えない。

結果、インターネット上において、言葉のない、空間を欠いた、想像上の対話が完成されてしまう。


母性的なインターネットと、鏡の「自分」


基本的にインターネットは母性的側面がめちゃめちゃ強いと思う。つまり、空想的で、包容的な、対峙する他者が眼前に存在しない世界。

インターネット上の自分とは、鏡に映った自分でも、ディスプレイに反射した自分の顔を見た自分でも、ましてや友達や家族と一緒にいる自分でもなく、他者からデータでリアクションを受けているアイコンとハンドル名だ。それも、自ら設定した名前と画像である。他者の介在を蛇口をひねるみたいに調整できて、感じたことを臆すことなく言える。発言する前にコピーして、ググって、ペーストして、たまには一度送ったことを消したり編集したりできる。そんな恣意的で空想的な自分と、現実世界の自分は、正しく対称関係になりえるだろうか?

話さない、ということ



ネット上の自分を現実世界に持ち込むことを許容している社会(オフ会とか)であればある程度自分自身を維持できるかもしれない。対称性を保ったまま、主体を危機に晒すことなく対話を図れるであろう。アイコン上での世界をある程度共有しているから。

しかし、そこを離れて異なるイデオロギーに放り込まれれば、沈黙せざるを得ない。なぜなら、発話することは、アイコンとハンドル名の無い、フリック入力やタイピングの手段を持たない自分をダイレクトにさらすことになるから。ネット上の自己が機能不全になった瞬間、危機をもたらす。現実で主体形成を行っている人々が普段発するような、「いいえ」や「違う」「そう」「何?」といった言葉ですら話すことが困難になってしまう。
現実世界とインターネット上では、フィードバックの受け方や発信方法、開示されている情報、場が持つ意味など、そもそも対話のフォーマットがまるきり違うのだ。

そうなってしまえば最後、現実世界のあらゆる場面で、広義的正解である「無言」という方法を取るしか無くなってしまう。

ただの私感



正しい自分など無いにせよ、少なくとも現実世界における自分は、twitter上、instagram上、tiktok上には存在しないであろう。

目の前に、休み明けの友達や、洗い物をする母や、こないだ仲直りした恋人などが現れたとき、何を話そうかと思いを巡らせることが出来る。それが本当の意味で「ここに存在する」ということではないだろうか。そんな事を思ったり。

この記事の構造


ここから先は、別に読まなくても良い。確認というか練習のようなものなので。あわよくば有識者からツッコミがくれば嬉しー!という気持ちである。

ラカンの提唱した主体形成におけるシェーマLをインターネット上の他者、自我、twitterそのものを司る人間と現実世界に対応させた。(勘で。独学だからいっぱい意見ちょーだい)
他者a'(各ツイッターアカウント)
自我a(アカウント使ってる自分という認識)
エスS(携帯を操作しながら電波を送る主体そのもの)
大文字の他者(現実 and twitter開発者)

aとa'は想像的関係の強い、どこまでも母性的な、創造的ファルス(つまり、去勢された母体が想像する理想の)の世界であろう。だって目の前に他者が存在しない以上、テキストとかでお互いが空想するしか方法がないから。
で、その強固な想像的関係を断つはずの、象徴界を形成する大文字の他者Aはtwitterなどのアプリそのもの、もしくは開発者、プログラマー、そして主体Sが立つ現実世界ということになるが、ユーザーが開発者の部分に気づくことは、工学部か技術者でもない限り、まぁ無い。というか工学部だとしてもツイートしているときにtwitterの構造についてわざわざ考えるということは無いだろう。現実世界に関しては認識できることもあると思う。
ここで自身が仮定したのは、他者と鏡像の構築において、twitter開発者という面でのAが欠如しているにも関わらず、主体は現実社会としてのAに存在しているという、中途半端に象徴界に足を踏み込んでいる状態が、現実でコミュニケーションと取っていると錯覚してしまう一因なんじゃないかな、ということ。

※こういう、大文字の主体Aが2つの意味を持つって仮定が成り立つのかどうかはわからないけど、そもそもこのシェーマL自体が広義的だからまぁ、許されると信じてる。というか目的は記事を書くことなので、ある程度自由な使い方も許されるものと思っているが(ゆるして)

参考記事


https://core.ac.uk/download/pdf/70352585.pdf




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