見出し画像

フジ

5月4日。散歩に行こうという義弟の提案により、母と妹と義弟の4人で近所の川沿いを歩いた。わたしは頭がまだ半分眠っていたが日焼け止めを塗りたくって寝巻きで這うようにのろのろ外に出た。母がヌートリアの大群を目撃したという川縁は昨日の雨のせいで増水していたため、草むらで食事をとる小さい2匹を見つけたきりだった。帰りに石畳の通りに寄って溝で飼育されている鯉を見た。小型犬くらいある大きさの鯉のことをわたしはどうしても美しいと思えない。巨大な鱗とこちらを見透かすような目玉に本能が怯えてしまう。妹がお麩をあげたいと言い出してわざわざコンビニに電話をして在庫の確認をしていたが、良くも悪くも期待を裏切らない「ありません」という返事が返って来たということだった。
午後満を持して祖父母の家に行った。大人が奥の間でぎちぎちになって団欒を過ごす様子は少し異様ではあるけどわたしには心地よい。すっかり弱った祖父母の顔がわたしや妹をみて輝きを取り戻すのが分かる距離だ。この奥の間もわたしが小さい頃はもっと広くて走り回るのに不足ないスペースだったはずなのに、わたしがこんなに大きくなるほど時間が経ってしまったのかといつも切なくなる。会う度どこか体の具合が悪くなる2人を心配しながらも、その不調のことを見て見ぬふりをするわたしがいる。薬の副作用でムーンフェイスが生じた祖母の顔をみて痛々しいと思いたくない。いつか会えなくなることを考えて暗い気持ちがよぎるより、わたしと話すこのときだけでも腹から笑って欲しい。病気をしてから祖母はすごく涙もろくなった。数年前、祖母と2人で行った藤棚でみた、少女のようなはしゃぎようの祖母と、「今日は体調が好ましくないの」とベッドに伏せる姿を重ねるとどうしても少しやるせないのはただのわたしの本音である。
叔父一家も祖父母家で一緒に暮らしており、従姉妹とも久しぶりに顔を合わせた。今年で最後小6になるのに、いまだに懐いてべたべたひっついてくる。この可愛さよ永遠であれと、わたしの身長を超しそうな勢いで成長する彼女に「もう少し子供でいてね」と無理なお願いをしておいた。今年の運動会は小学校最後なので必ず観に来てと言われて必ず行くと約束をした。叔母が剥いてくれたオレンジが甘くて美味しかった。
夕方、帰宅してまたしても庭で肉を焼く。こんなに気軽にBBQができるのは今のうちだ。田舎の不便も便利もいまは全て受け入れてここで暮らせたらと妄想してしまうくらいには、元の生活に戻るのが億劫になっていた。なんとか日が落ちて次の日が来るのを阻止できないだろうか、明日会社にばかでかい隕石が落ちたらとりあえず1ヶ月くらいは自宅待機になるかしら、ここにも隕石が飛来していまわたしが死んだら魂だけでも無限の時間を使って会いたい人みんなに会いに行けるのに、という具合でいつも別の世界に身を投げてしまう。わたしはあの藤棚のとこも思い出す。今年はついに見ることができなかった一面の紫の前で祖母の手をとるわたしはこの一瞬を少しでも多く噛み締めるように写真をたくさん撮っている。そんな光景が脳内に流れたのも束の間、いつのまにか灯りがないと目の前が見えないような夜が寒さと一緒に到来していて、そそくさと部屋に入ってシャワーを浴びた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?