見出し画像

レンゲ

4月30日。
長女のわたしは年上につよいあこがれがあり、大学生のときは部活の先輩とよくつるんだりしていた。誰かに相手をしてもらっている、甘やかしてもらっているという受動的な立場でいられる間は少しだけ「お姉さん」であることから解放される気がして気楽だと思っていた。そういう時のかわいい自分のことが好きだった。
近頃会社の後輩が懐いてくれてよく出かけている。あの頃からしたら思いがけない展開だなと思う。その子はわたしより4つも年下でわたしより身長が高いし、わたしのことを時々「かわいい」と揶揄うし、何でもない話は尽きることがない。なーんだ、年下と遊んだって、わたしが気を張って年上であろうとしなくたっていいじゃないか。それに、目の前でころころ笑うこの子にとって少しでもお姉さんで居られるならそれに越したことはないし、がんらいわたし自身お姉さんと呼ばれていいほど一貫していない。よくよく思い返せば妹と喉が枯れるほど雑談し続けた日もあるし、同い年の友人に救われたことだってある。わたしが一緒に居たいと思うことに年齢なんて本当は関係なくて、先輩のことを慕っていたのはそのひと達がとても素敵だったからだと、最近そういう風に色々なことを思い出せる。
その人懐っこい女の子と神戸の南京町に出かけてきた。小籠包に胡麻団子、いちご飴、全部少しずつだったのにお腹がいっぱいになった。平日だったので雑踏に巻き込まれることなく広場でゆっくり写真を撮るなどできた。お出かけは体力を消耗するけどたくさん話しながらよく笑うとそれまで足りてなかった何かが充填される。
午前中、遠出を楽しみに乗った列車で同じ道を引き返しているところだ。どこまでも長閑すぎる田舎風景を永遠眺めていたけどいまは日が落ちて何も見えない。田舎の夜は暗い。行きは緑の中にそこだけ薄紫の絨毯を敷いてあるようなレンゲ畑が見えた。小さい頃は弟と妹と、母の実家の田んぼに咲いたレンゲを踏みつけながら走り回ったり、花冠を作ったりしていた。お姉さんでもそうじゃなくても、きょうだいとはしゃぐ一瞬一瞬をとても愛していた。蜂蜜の味と一緒に幼少期の淡くて甘い記憶を思い出せる幸福な花なのに、わたしの住む街では見かける機会がない。お出かけのついでに久しぶりに見られてとても満足している。例によってレンゲの花言葉を御紹介。「あなたと一緒にいると苦痛が和らぐ」。声に出して読んだだけで春先のひなたぼっこみたいな温かさが胸に広がるでしょう。わたしが南京町で過ごした時間にぴったりの言葉だ。きっとこの先も誰かと笑うとき、今日のレンゲ畑も一緒に思い出せると思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?