『ロボット(R.U.R)』カレル・チャペック◆SF100冊ノック#17◆
■1 あらすじ
「ロッサム・ユニバーサル・ロボット」の工場は、絶海の孤島にある。ここでは高性能のロボットを製造し、世界中へと販売している。注文は途切れることなく、一日1万5000体ものロボットが生産される。「ロボットの人権」を守ろうと、世間知らずのヘレナは島を訪れたが、工場の従業員たちは彼女をひと目みて恋に落ちる。結局社長のハリーと結婚するヘレナ。
それから10年の月日が流れた。増えすぎたロボットは、工場の思惑とは異なり、戦争の用途に使われたり、労働者との軋轢を産み、とうとうロボット対人間の戦いが始まっていた。とうとう工場にもロボットたちが押し寄せたとき、工場の人々は決断を迫られる……
1920年に執筆されたこの作品は、「ロボット」の語を最初に生み出した。語源はチェコ語の「ロボタ」すなわち「労働」と言われている。読み進めていくと、このロボットは人間の労働を肩代わりする存在として誕生したことが分かる。
■2 ロボット小説のパイオニア
はじめてのロボット、機械人形を描いた作品、と紹介されるけれど、チャペックが何もないところからそのアイディアを魔法のように取り出した……ということは感じない。人形、彫刻が命を持つ、という設定はギリシャ神話のピグマリオンまでさかのぼれるし、デカルトなんかは『方法序説』で動物が機械のようなものである、と考えている。あるいは先日読んだフランケンシュタインのようなバイオ的人造人間も既に存在している。本作の中で、ロボットの生みの親、ロッサムの伯父は、まさに生物学的な人間―ホムンクルスのような―を作成し失敗している。フランケンシュタインへの言及のようにも見える。
機械人形、というアイディアは過去にもあっただろうけれど、それが産業革命や大量生産と結びつき、人工知能を手にし、人間に対し反乱する……という現在まで続くイメージが生み出されるには、チャペックを待たなければならなかったのだろう。おりしも時代は1920年、例えばアメリカは「狂騒の20年代」と呼ばれる技術発展と消費社会の時代に入っていた。
■3 人間礼賛、生命礼賛
ロマン主義は、主として18世紀末から19世紀前半にヨーロッパで、その後にヨーロッパの影響を受けた諸地域で起こった精神運動の一つである。それまでの理性偏重、合理主義などに対し感受性や主観に重きをおいた一連の運動であり、古典主義と対をなす。(wikipedia:ロマン主義)
「大量のロボットの反乱」というアイディアは確かに新しいが、その背景に流れているテーマは、未だ古典小説のそれから抜け出していない、ということも感じる。理性、科学、技術の発展の影で、人間の人間性が失われていく。だから我々はこれに抵抗しなければならないのだ――
現在に至るまで、この戦いは続けられているように思う。人文学の反抗と技術の非人間性―原発問題はどうか。
「なに、神さまがかわいそうってことがか? 化学だよ、いいか、化学なんだ! どうしようもないのさ、司祭さま、ちょっとお詰めください、化学さまのお通りですから!」(『カラマーゾフの兄弟』)
「これは科学に責任がある! 技術にも責任がある!……なにかとてつもないすごいことを自分たちがしていると誤解し、見返りを期待し、進歩のためだなどと考えて……」(本書)
その結末が、人間礼賛、生命礼賛である。だが、興味深いのは、物語のラストで、あるひとりがこのロボットたちを見て、その中に人間を、生命を、魂を発見したことがある。
「自然よ、自然。生命は滅びない! 仲間たちよ、ヘレナよ、生命は滅びはしない! 生命はふたたび愛からはじまる。裸でちっぽけなものからはじまり、砂漠に根を下ろすのだ。……だが愛という名のおまえだけは、がれきの山の上で花を咲かせ、命の種を風にゆだねるのだ」
僕は以前、SFとファンタジーの違いは、「世界における本質的・絶対的な価値」を認めるか、それとも「すべては相対的な価値に過ぎない」と考えるか、という区分を論じたことがある。その意味では、生命・人間・魂を礼賛し肯定する本作はファンタジーに思えるのだ。そして、その点は、次に紹介するアシモフ『われはロボット』でおそらく飛び越えられた境界だと感じる。
■4 労働・プロレタリアート
もう一つちょっとしたお話し。この小説、ラスト近くで、それぞれの登場人物たちが様々な理想を語る。主人公であるドミンにとってロボットとは、人間を「労働」から解放する存在だった。
「それまで人間は屈辱的で、おそろしい労働に耐えなければならなかったのだからね。不潔で殺人的な過酷な労働だった。労働があまりにもつらすぎたからね。生きることそのものがあまりにもつらくなりすぎていた。それをなんとかするには……」
この背景には、共産主義やプロレタリアートの存在があると思う。おりしも1917年にはソヴィエト連邦が誕生していた。ここでのロボットの存在は面白い。片方でプロレタリアートの存在を象徴しているようでもあり、一方でプロレタリアートを解放/からのさらなう犠牲となる存在としても見える。ロボットの語源が「労働」であることも思い出される。「技術・大衆社会+資本主義」への危惧は表明されているけど、社会・共産主義に対しても決して楽観的にも見えない。微妙で複雑な立場が、しかし分かりやすくシンプルな物語の中で描かれている。
■キーワード
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?