ニーチェ『悲劇の誕生』読書ノート

※僕が理解した範囲・重要に思えた部分のメモなので、全体を網羅したものにはなっていません。参考程度に読んでいただければ幸いです。
※おおよそ書籍の内容に沿った要約ですが、個人的な補足やメモ、考察を含みます。これらは大抵 ※米印 がついてます。

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1. 冒頭、「芸術はアポロとディオニュソス的なものの二重性によって進展する」 →ヘーゲル的
2. 最初は具体的。アポロは造形・彫刻、ディオニュソスは音楽に代表させる。無形か有形か
3. やがて両方の要素を持つアッティカ悲劇へと収斂していく。
4. もう一つの比較。夢と陶酔。アポロ=夢はビジョン的・実は限界がコントロールされてる。
5. アポロ=太陽=明確なもの。ここで夢とは「真実的なもの」 ※フロイトとの関係を考える
6. ディオニュソスは、「恐怖」に根差し、「個体化の原理が破壊」されることで恍惚。同一化。主客喪失
7. ※バタイユ・コジェーヴの「動物」の話、現在なら「トランス」で良い。
8. ※人類学のポトラッチ的なものを思い浮かべても良い。ニーチェも「祭り」と結びつける。
9. バッカス祭、ヨハネ祭…陶酔し乱舞する群衆 → ※スーフィズムはええじゃないか踊りへ
10. 「人間から隔てられてきた自然とも和解の祭典を祝う」 コジェーヴ、あるいはタンバイア融即
11. ベートーヴェンの歓喜で呼びかけられる「合一化」もディオニュソス的

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1. ギリシャ人の芸術について考えていく。
2. 造形美術→彫刻→視覚的なもの=アポロ…ここから「夢」もまたアポロ的、秩序的なものと推測
3. 一方ディオニュソスは祭り・祝祭…ギリシャ以外とは異なるものとされる。まずは乱交・性的放縦
4. ギリシャに野蛮人的なもの、ディオニュソス的なものが入ってきたとき、驚きと恐怖を感じた

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1. オリュンポス神話の話。ポイントは彼らが「勝ち誇った存在」であること→アポロン的
2. 原始的な神々は「恐怖」を象徴するが、オリンポス神は「歓喜」喜びの存在。アポロ的なものの要請
3. シラーは人間と自然の調和に対し「素朴」の語を用いる。素朴は惨めさではなくアポロの勝利の象徴

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1. 夢のビジョンは重要なもの。思考=形而上学が苦悩に向かうため、これを救済するファンタジーが必要
2. 夢はこうしたファンタジー、救済に位置付けられるもの。
3. アポロにとって「節度を守る」ことが重要。「汝自身を知れ」もその節度から解釈できる。
4. 一方でデュオニソスの本質は、そうした境界を踏み越え、慢心する。
5. ただし、アポロンはそれ自身のみだと厳しい。ディオニュソスに耐えるベクトルがアポロを存続させる
6. このせめぎあいが最終段階にきたとき、アッティカ悲劇(=ギリシャ悲劇)の形へと結実

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1. ギリシャ文化の源の二人の詩人。ホメロスはアポロ、アルキロコスはディオニュソス。
2. この二人を、主観(アルキロコス)-客観で分ける論があるがそうした分類は役に立たない。
3. 抒情詩人はディオニュソス型。音楽や一体感と関わる。
4. 「主観」の枠組みの否定 → ディオニュソス的陶酔の中では自他の区別がなくなるため。トランス的。
5. アポロ→彫刻と叙事。形を持っているもの。ディオニュソスは不定形。音楽と感情。
6. ショーペンハウエルが叙情-叙事について語っている。
7. 叙情的なものは不完全な状態。トランスに入り⇔我=意志に引き戻される、の繰り返し。サイクル。
8. 主観-客観が切り替わる状態。ニーチェはこれを否定していく。

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1. 民謡・民族音楽にディオニュソス的なものが存在する。基盤となるもの。旋律や繰り返しのパターン
2. ここではさらに、歌詞=言語との関係についても語られる
3. 音楽という不定形-脱意味的なものに言語を与える行為そのものがアポロ的。例えば「田園」の標題
4. 音楽は本質上「意志」とはならない。「意志」とは非芸術的なもの。(ここでの意志≒意味?)
5. 芸術の解釈・説明は芸術そのものたりえない。芸術はそれ自身で完結し外部的説明を必要としない。
6. 「第一に叙情詩は音楽の精神に依存していること。そして第二に音楽自体はその完全な無制約性のゆえに、形象や概念を必要としないこと。形象や概念が傍らにあることを我慢しているにすぎない」
7. 言語と音楽の大きな違い。音楽は象徴(説明・比喩)の機能を持つ。音楽はそうではない。
8. 音楽は「理解」を必要としない。その先にディオニュソス的なものがあるというのがポイント

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1. ギリシャ悲劇の発生の起源はコーラスである。
2. コーラスの古典的な解釈二つ ①コーラスは「民衆の声」である ②「理想的な観客」 ③境界線・壁
3. アリストテレス等の解釈は「①民衆の声」だがこれは誤り。
4. シュレーゲルは、コーラスは「理想の観客」とするが、そうすると現実-舞台の区別がつかない。
5. 理想の観客=コーラスにすると、視聴者は同様に舞台の出来事=虚構を現実と混同する必要があるため
6. シラーの解釈…「悲劇と観客の間にある城壁」=境界線とみなすもの。これは結構よい。
7. 演劇的-空想的な世界を、現実という外界から遮断する「壁」として見る。
8. サテュロスのコーラスこそがギリシャ悲劇の起源。陶酔し踊りまわるもの。
9. アポロ的ギリシャ人は瞑想的で心が病んでくるので、ギリシャ悲劇で浄化される必要がある、的な話
10. 「癒す」ものとして見る。現実意識は「嘔吐」を催させる、苦痛 (サルトルを思い出すところ)
11. ディオニュソス的人間=ハムレットのように本質を見抜いてしまったが故、正義にも悪にもつけず、行動することそれ自体が苦痛となり何もできなくなってしまう。ここでは「英雄的に行動する」ことそれ自体が恥ずべきことに思われる、という解釈。 メタ的な立場にいる。
12. ここでの芸術(ディオニュソス)は「哲学(アポロ的思考)で疲弊した魂の救済」といった位置づけ

※このハムレット解釈は非常に面白い。一種現実世界にいる人間が、突然舞台に載せられた状態。運命=ハムレットが死ぬことは確定しており、そこから自分が逃げることが出来ない状況にある。ハムレットであることをやめれば観客から責められることが分かっており、一方で復讐という状況のノッてしまうことも耐えられない。自分が愚かしい存在になる=神の奴隷になること。この解釈から見ると、ハムレットはまるで永劫回帰に巻き込まれた存在であり、むしろ百万回繰り返されたハムレットの演劇の中の存在

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1. サテュロスは、アポロ的な視点(牧人パン)、ディオニュソス(混沌・性的な山羊頭)とイメージ変化
2. 解釈によって全く異なる存在となってしまうこと。
3. シラーの防壁はむしろ、混沌的なものから現実の客席を守る壁、とも捉えられる。
4. こうしたコーラス=ディオニュソスという立場からギリシャ悲劇を読み直す主張
5. 結論として、まずギリシャ悲劇の根源、誕生にはコーラス=音楽=ディオニュソスがあるということ。
6. そこから筋、ストーリー、ドラマというところへと移っていった。

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1. ストーリー展開、筋はアポロン的なものとされる。例えばオイディプス王。
2. 混沌=混乱=謎の状況が先立ち、それが次第に解かれていくという過程がアポロ的
3. アイスキュロスとプロメテウス神話。知恵を与え罰せられる点ではエデンの知恵の木の実と同型
4. このプロメテウスの中に、アポロ-ディオニュソスの両方が表現されているということ。

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1. ここまでが中間期だが、エウリピデスの時代になるとアポロが優勢、ディオニュソスは消去されていく
2. そもそも「悲劇」という形式が冗長的、一体化のベクトル。
3. ポイントは、「一体化」することが善であり、個別化することが悪の根本。芸術はその束縛を破り、統合されるものという位置づけであること。アポロ-ディオニュソスはせめぎあっている。

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1. エウリピデスの新喜劇の時代=第三期に入り大きく変化する。まず登場人物が民衆に変化する。
2. 凡庸な人物が登場することで、観客は自分や現実をそこに仮託し、必然的に社会的・教育的になる
3. ここで「公衆」という概念が生まれていく。従来の批評はこれを民主主義的なものと肯定的に見る
4. それ以前の悲劇はよりエンタメ的-エウリピデスのものがより社会・啓蒙的という見方。
5. ニーチェはこの構図を批判する。

6. エウリピデスには二人の特別な「観客」がいて、彼に影響を与えている。
7. 一人は批評家としてのエウリピデス自身。社会的な意味性を演劇に与えたいという欲求。
8. ※カタルシスの世界から、ブレヒト的な異化作用のようなものを考えているように見える。
9. アイスキュロスの時代では、アポローディオニュソスが調和-せめぎあいがあるが、ここでは除かれる

10. もう一人の観客はソクラテスである ※ここでのソクラテスの名前の挙げ方はカッコいい。
11. アポロ的なドラマの理想形とは…劇化された叙事詩。出来事が感情移入なしに語られていく状態
12. ニーチェは、エウリピデスはアポロンでもディオニュソスでもない第三の状態に入ると考える
13. それは「芸術におけるソクラテス主義」ともいえるもの。
14. 「美しくあるためはすべて理知的でならねばならない」が至上命題

15. エウリピデスは、劇の冒頭ですべての物語のストーリーを説明してしまう。
16. それはむしろ、登場人物の感情の動きや会話のみにフォーカスしてほしいという意図。
17. 物語は謎でドライブされるのではなく、キャラクターの感情がリードするのでなくてはならない。
18. 自分が見ているものに対し、より理知的であること。分かること、すべて説明可能な芸術を作る

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1. アリストファネスの登場。ソクラテス自身の劇が描かれている
2. ソクラテス・プラトンは基本的に演劇を低劣に見ていたが、エウリピデスのみは別と考える。
3. ここでの悲劇はエンタメ的なもので、知的でないものが楽しむもの、という位置づけ。
4. デルフォイの神託では、ソクラテスが最も賢く、エウリピデスがそれに続くとされる。
5. ソクラテスはその在り方そのものが、理知的なものの象徴。感情的な動かされ方はしない。死に際した物語が非常にわかりやすく、死に赴くときでさえ理知的であったこと。

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1. 再び悲劇へ。ソクラテスは悲劇芸術をどう考えていたか →イソップ寓話以外のフィクションを批判した
2. 啓蒙的なもの、意味がある=有益なもののみを評価している。弟子にも悲劇をみないよう伝えた
3. プラトンは最初悲劇詩人だったが、ソクラテスについていくために詩を焼き捨てたとされる
4. 一方で、プラトンの対話編とは芸術的なものでなかったか。より「小説」の形式に近いもの。
5. ソクラテス時代では、賢いこと=善、無知=罪と基礎づけられ、これが幸福とも結び付けられる
6. ここにおいて、「悲劇」の価値は失われてしまう。
7. コーラスの役割も変化し、音楽は追い払われる。隠されたものは明るみに出され。悲劇は解体される
8. ソクラテスは音楽芸術から離れているが、獄中ではじめて「ダイモン」の声を聴き作曲を行う。
9. ソクラテスは批判しつつ、実は芸術に何らかの価値を見ていたのでは? というポイント

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1. ソクラテス的影響は現代にいたるまで後世を覆いつくした。(→「わかる」ことの優越)
2. 芸術はソクラテスの影響で「幾度もくりかえし再生をうながされ」「芸術の無限性まで保証されてきた
3. 「後世のいかなる芸術も義理砂塵に依存し、ホメロスからソクラテスにいたるギリシャ人に内的に従属しているという事実」
4. (同性愛のことを「醜怪な悪徳」と呼んでいる…聖書にならってか)
5. ソクラテスは最初の「理論的人間」 → 科学的思考まで敷衍する。
6. レッシング「自分にとって重要なのは、真理そのものよりも心理の探求のほうである」
7. 「死におもむくソクラテス」は死の恐怖から免れた最初の人間像として科学の戸口に掲げられる
8. つまり、存在を理解可能なもの・立証ずみのものとして表現すること
9. ここでのポイントはソクラテスを、「理論的人間」の象徴として見ていること。ここは非常に重要に思える。人間の価値が「論理的」なものが最優越となり、「分かる」ものが優越し、理解不可能なものはのけられる。科学もそうした考えから理念的な科学感のみが独り歩きを始める。

10. フィジー島のような「実践された厭世主義」は少し眉唾で怪しい。
11. アポロ-ディオニュソス対比よりソクラテスの理知性の指摘が興味深く感じる 一種の科学哲学→自己批判で科学に言及
12. 次第にニーチェのレトリック的な語りが多くなる。「闘争に加わらなければならない!」
13. ソクラテスの理知優越性は、芸術を有益なものとしてのみ捉える視点となる。ブルジョワ的。

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1. ディオニュソス=悲劇=音楽。音楽とともに悲劇はあらわれ消える。現代について考察していく。
2. ソクラテス的な楽天主義=アレクサンドリア芸術。明晰で晴朗なもの。⇔悲劇的芸術と二項対立
3. アポロ=ソクラテス=「個体化の原理」 ⇔ディオニュソスは脱個体
4. ※一種のアンフォルム芸術について語ってるようにも思えてくる。 バタイユとニーチェの繋がり
5. まず音楽についてのショーペンハウアーの語り。音楽は形而上に関わるもの。ワーグナーも同意見
6. 音楽に対して造形芸術の理論は役立たないし、入れるべきではない。

7. ショーペンハウアーの長い引用…音楽は現実(の視覚的・具体的側面)を模写すべきでない
8. 音楽は「意志」の模写である → 想像、理念、意識…抽象的なものの表現であるべき。
9. むしろ「世界は具象化された音楽である」と呼ぶべきである。
10. 造形的芸術が現実を模写する者であれば → 音楽は「直接的に意志の言語として理解すべきである」

11. 音楽の二つの作用。①音楽によりディオニュソス的な普遍性を比喩として表現できる
12. ②音楽が比喩的な現象に最高の意義を与える → 「現実に意味を与えるもの」としての音楽
13. 能動と受動の作用、とも言い換えられそう。後者が大事。音楽はまた ③神話を生み出す
14. 「音楽が最高の高揚を見せるとき、最高の象徴化に到達する。永遠の現象に到達する…」
15. かみくだくと→造形芸術が現実に限られてる一方、音楽や無限性が存在する

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1. 「ディオニュソス的芸術は、存在の喜びを確信させる」後のニーチェにつながる部分。
2. ニーチェのテーマとして、「世界は苦悩で満ちており→それをいやすための芸術」という構図、つまり芸術が世界に従属し有益な消費物として扱われることへの嫌悪が貫かれているように思う。それを突破するための、それ自体が意味・幸福・価値であるものとしての芸術の象徴が悲劇であり音楽であるように思える。そこでは「意味」が「利益」に先立っている。ただしニーチェのこの執着はおそらく再度分析にかけられるものであり、限界としても読めそう。
3. ※幸福に生きよ!
4. ギリシャ悲劇は、楽譜として残されていないため「言葉のドラマ」としてしか研究できない
5. 音楽的な部分について知ることが不可能であること。古代の音楽的効果の威力は再構成が必要。
6. 論理的(ソクラテス的)世界観と、悲劇的世界観の果てしない闘争、そこから科学も読み取れる
7. 科学は論理的世界に寄与する→発展するほどに悲劇が遠ざけられる
8. ※理知的なものは陶酔への嫌悪・恐怖心が強いという話でもあるのでは?
9. ※ここでのニーチェの新しさは、「科学が非論理的な宗教を破壊する」のではなく、「ソクラテスベースの理知的な世界観が、悲劇を遠ざける過程で科学が強められ、悲劇の凋落が先導する形で神話・宗教が弱められる」という構造。当然、その後のレヴィ=ストロースやラトゥールの議論を考えるとこの二項対立は素朴過ぎるように感じるものの、科学-宗教を正誤ではなく、相対的に捉えているのが面白い。

10. 突き詰めていくと、個-世界の一体化の妄想のようなものが芸術の根源に横たわっている、というようなことに通じる。『わたしは真悟』でのマリンの言葉によって世界が改変されたような、人間の主観側に世界が従属するという逆転現象。
11. 音楽が情景、物語に寄せるもの、随伴するものになることへの批判 →※リズと青い鳥。写実性への批判
12. ※フルトヴェングラーのバイロイトの第九、感情・激情ベースのものが肯定される?(あるいはその語りが)
13. ※こうした陶酔世界の芸術の話は聞くほどに→ナチスとの親和性を感じる部分でもある
14. ※あるいはベネディクトのような「振り子」のイメージでとらえた方が良いのではないか? ある一つの状況がエクストリームになっていくことで、逆方向へのベクトルが働くということ。逆張り、バックラッシュ。二項対立にスペクトルとモーメントを導入するという話。
15. エウリピデス以前の悲劇では、悲劇の結末で「形而上的な慰め」音楽によって解決されるという効果があった
16. これが失われ、デウスエクスマキナが代わった。形式的な意味で解決する必要が生まれてしまった。
17. ※一種の「装置 マキナ」としての神、というような意味を感じる。
18. 「デウスエクスマキナ。この神は、機械とるつぼとの神であり、つまりは、高級な利己主義に役立つために、認識されたり利用されたりする自然の精霊の力である。こうして理論的人間の晴朗さは、知識による世界の修正を信じ、科学によって導かれる人生を信じ、一人一人の人間を、解決可能な課題からなるごくごく狭い枠の中に封じ込めてしまうことも実際にできるのだ。封じ込められた人間は、この枠の中で、人生に向かって晴れやかにこう語るであろう。『人生よ、私はお前を欲する。お前は認識されるに値するから』」
19. ※現代の科学的あるいはデータ的人間観とに通じそう。つまりは認識して理論的に分析できるものだけが価値あるものと捉えることができる。科学化-合理性

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1. 前提として、芸術が生きることへの苦痛を忘れさせるために作られている、として見る。
2. ①ソクラテス的文化 ②芸術敵文化 ③悲劇的文化 に三分する。
3. ①ソクラテス的文化は、論理的・理知的をベースにしたもの ※「わかる」「有益」なもの、と言い換えられるか
4. このソクラテス的文化をアレクサンドリア文化と呼ぶ。基本的に奴隷階級が必要で、ある時点で破滅する。
5. ゲーテはナポレオンをそれとは異なる存在として語っている。
6. カント、ショーペンハウエル、二人の「ドイツ的知」はソクラテス的楽天主義に勝利した二人と位置付ける。
7. もっとかみ砕くと、ソクラテス的文化は一種の基礎づけ主義…理知性という「絶対的」な価値の基準を持っている(アリストテレスの方が当てはまりそう。「善」の基礎づけ)これに対し、カントの持ち込んだ人間主観-相対主義が出て、「世界は最終的には完全に認識可能になる」という考え方を壊したという位置づけか。
8. この辺りからレトリックが多様されるようになる。一種悲劇性を出すためのクライマックスに向けての召喚ととれるような気がする。
9. ここではゲーテの「世界文学」は批判されている。
10. というよりは、ソクラテス的文化の近代人=批評家は、作品の客観的分析を芸術を味わう上で至上に置いてしまうため、「永遠に飢えたるもの・図書館員」となる。点数化すること自体が主目的になっていることへの批判。世界文学概念というよりは、「世界文学」として世界を捉えなおそうとするベクトルが、ソクラテス的文化的なものということを批判してるみたいな。

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1. オペラ文化への批判。オペラは基本ソクラテス文化の延長とされる→音楽の物語への従属。
2. ギリシャ悲劇のコーラスの音楽性とは異なるものと。音楽の抽象性を弱めてしまうという話。
3. レシターティーヴ等の語でオペラの形式についての批判。
4. そもそもオペラの出どころが人文主義者によるもの。ざっくり言えば啓蒙的な部分がある。言語主導
5. 「牧歌的」「おめでたい」という語でルネサンス・オペラを表現→ ディオニュソス的な危険がないイメージ
6. 音楽が現実の模倣の道具にしかなっていない→把握可能世界に限定→音楽の危険性が奪われる
7. 一方で、バッハ-ベートーヴェン-ワーグナーのドイツ音楽を、オペラ文化と対比して位置付ける。
8. 同様にドイツ哲学…カントとショーペンハウエルがソクラテスの限界を論証する存在。
9. 「ディオニュソス的叡智」と呼ぶ…※が、この辺りは二項対立に頼ってる感じがして厳しく見えてくる。ニーチェ自身の言葉でニーチェを批判するとしたらこの辺りか。例えばカントが行ったことはバージョンが違うカント主義、少なくとも理知性の新しいフェーズでしかないのでは? ディオニュソス的とは到底言えない気がする。あるいは、可知-不可知の話を陶酔と無理に接続しているような。

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1. ドイツ文化がギリシャから受けた影響。ゲーテ、シラー、ヴィンケルマン
2. この書も一種の現代の超克-西洋の没落論の一つのように見えてくる。
3. 西洋合理主義=ソクラテス的なものに対し、ドイツ-ロマン的-ディオニュソス的なもので対抗する。
4. あるいは「意味・価値ベース・合理主義」のものに対し、主観的意味で抵抗すること。
5. 「わが友たちよ」というレトリックがさらに増加

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1. 「悲劇に帰れ」という強い主張。
2. 再度文化の三分割。①世俗的ローマ ②非-世俗的インド仏教 ③両方の性質を持つギリシャ
3. ギリシャはディオニュソス的衝動(非-社会)と、政治的衝動の両方が強烈な稀有な文化。それを支えたのが悲劇
4. 原題の具体例…ワーグナー『トリスタンとイゾルデ』第三=最終幕。
5. 物語の語りに音楽が随伴するのではなく、その物語に限定されないような音楽をメインとして考える。現代において考えるなら、むしろ演劇や映画における批評に置き換えられる? 物語と非-物語的なもの、例えば演技、カメラ割り、人物の身振りなど。そうした非-言語的メッセージと物語を対立させるような在り方。しあわせ学級崩壊の方法もそう捉えられる?
6. ここでの批評もニーチェ的=レトリカルなもの、主観的な体験からしか語れない部分があり難しい。
7. アポロに対する評価を再確認すること。ニーチェはディオニュソス的なものを評価しているが、アポロをのけているのではなく、「悲劇」を完成させるためには両方の役割が必要であると考えている。アポロ的な秩序はディオニュソスを表面的に蔽っているが、この隠蔽がなければ悲劇を効果的にすることは出来ない。物語が限界地点、クライマックスにおいてデュオニュソスが露出し、自ら語り始めるために、その効果を最大にするためにアポロは必要不可欠なものとして考えられている。

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1. 観客は悲劇を見るとき、英雄の凋落を予感し、待ち望み、そこに喜びを感じる。
2. ※「有名人が没落するのを見て喜ぶ残酷性」の由来はどこにあるのか? 「残酷性が強ければ強いほど週刊誌は飛ぶように売れる」「F1の観客はクラッシュの予感に対してもお金を払っている」ネットのいじめの構図、あるいは「さくらの唄」のラストで先生が狂乱するような状況…芸能人・有名人のバッシング、問題行為に対して、悲劇のクライマックス、デュオニュソス的なものから捉えることが出来るのではないか? カタルシス。欲求として。「人が苦しむのを見る」ことはどのようにして我々の喜びたりえるのか? なぜ人の苦しみを喜ぶことは罪として、醜いものと考えられるのか? ソンタグの『他者の苦痛へのまなざし』あるいはルソーの「憐れみ」と正反対に思えるようなこの感覚はむしろ世界の主流として存在する。ただ、これを再度異なるものとして眺めることは出来ないか?
3. アリストテレスのカタルシスについての議論、ニーチェはこれを限定的なものとして考えている。
4. アリストテレスは悲劇を「機能」として限定的に見るが、ニーチェはそれこそ本質・芸術として捉える。
5. 悲劇は浄化の機能を持つのではなく、個別化からの解放を与え結果浄化が行われるというプロセス。
6. 批評・レビューといったものが作り上げた芸術の解釈が、教育・ジャーナリズムのせいでソクラテスベースのものに統一されてしまっている。受け取り方の予備訓練が施されていると考えている。芸術文化の再生産。
7. ※つまり、芸術の価値評価のシステムが構造化され、再生産されることによって、娯楽(エンターテインメント)の対象になってしまうということ。社交界の接着剤、コミュニケーション目的の手段。目的性を持ったものになるということへの批判。芸術はそれ自体が目的であるべきという考え。芸術は生きる目的そのものに開いているものであるべきと考える。ここでの「教養」とはそうした知識を利益に従属させる意味限定的なもの。

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1. 「神話」について。神話とは圧縮された世界像現象の縮図であり、奇跡を必要とする。還元不可能性。
2. ※俯瞰的に見ると、ニーチェの限界は神話/エンタメの二分法でしかとらえられていないところでは。
3. 150年近く前にこれが書かれたことが重要だが → ポストモダン世界でそれをどう語ることが出来るか。
4. 悲劇の没落が宗教の没落に先立っているということの面白さ。意味の没落。

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1. 再度アポロの重要さを語る。アポロの錯覚がディオニュソスの顕現に重要であること。助け合ってること。
2. 悲劇と人生について
3. 「ドイツ精神はみごとな健康さ・深さ・ディオニュソス的な力をそこなうことなく…」
4. ドイツ精神の話。ブリュンヒルデ→ワーグナーの示唆 ナショナリスティックな宣言
5. ドイツ精神が「侏儒どもに使役」されてきた日々 →ウィーン体制下のブルジョワ支配のこと? 普仏戦争の時代

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1. アポロとディオニュソスは「厳密なつりあい」を保つ必要があること。

自己批判の試み (16年後)

1. 「強さの厭世主義」(ペシミズム)は存在しなのか? →ツァラトゥストラにつながる話。
2. この「悲劇」の価値への着目からこの辺りにつながっていく、というのは重要なところ
3. ※とはいえ、後からそう位置づけなおしてる、という見方も同時にできる。
4. 科学主義とはニヒリズムからの逃避に過ぎないのではないのか?
5. ※これはむしろ、人間は近代において必然的にニヒリズムに陥る → 根本的な対処法は存在しない →科学における価値が真理であるかのように装って目をくらます、という話か。
6. 「ソクラテスよ、これがそなたの秘密であったのか?」という呼びかけは面白い。ソクラテスはそのニヒリズムの蔓延さえも予期しており、あえて理知的なもので世界を満たした、という推測。
7. 16年後の今日、「いかに不愉快に思われるか」
8. 悲劇の誕生はキリスト教については言明していない。
9. 生への嫌悪―キリスト教への反逆をこの書で位置付ける。「だれがアンチクリストの正しい名前を知っていよう?…私はこれをディオニュソス的と呼んだのであった」
10. ショーペンハウエルの解釈が誤謬であったことの指摘 → ニーチェはペシミズムの捉え方が異なる。
11. 「ドイツ的本質」についての語りへの自己批判。その後ドイツは民主主義・近代理念へと移行していった。
12. 「だが、ニーチェよ、もし君の本がロマン主義でないのなら、何がいったいロマン主義なのだ?」

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