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『ヒトラー、最後の20000年~ほとんど、何もない~』感想

●あらすじ

 客電が点いたまま「主演の入江」と泥棒が登場。こいつが出たからにはもう、「今日の舞台はどうなるか分かりません」という不穏な言葉と共に本編が始まる。
 天国でヒトラーは自分の虐待したユダヤ人たちに反省文を書いているが、全く心がこもっていない。ご都合主義の神様はヒトラーと意気投合し、彼に三重人格の探偵アラータを弁護人として紹介する。オープニング映像が始まり、酔っぱらった神様は探偵と助手アルジャーノンがタイムマシンで戦中に戻り、ヒトラーに虐待をやめさせに出かけたことを語る。
 黒人のガブリエルは妻を失い日本人の義父の世話をして暮らしている。義父から見合い写真をもらった彼は相手が気に入らずに怒りを示す。彼らが住んでいたのはオランダ、そこにはナチスから逃れ屋根裏部屋に潜むアンネ・フランク一家がいた。神様に使わされた探偵の助手アルジャーノンは、アンネに恋をして彼女の家庭教師をする。アンネの死を防ぐために、探偵と助手はナチスの首相官邸へ向かう。腹話術氏に扮した探偵は、ヒトラーを撃って輸血するという自作自演を経て、「もうユダヤ人をいじめない」という血判署名を手にするが、最後に人格が交代して作戦は水泡に帰す。首相官邸からの脱出。ヒトラー研究家によるプレゼンテーション。
 ガブリエルと義父はアンネたちの住む家にやってくる。ガブリエルとアンネは恋仲。探偵が最初は人間便器として、次にシェフとしてやってくる。食料が底を付き、父親のオットーは「自分を食べろ」と言うが、アンネを食べることにすり替わり、彼女は秘密の通路を逃げていく。そこはナチスの首相官邸とつながっている。ヒトラーとアンネに「さあ、仲直りの握手を!」と勧める探偵だが、世界が揺れ始める。「私の目が覚めそうになっている! 子守歌を歌ってくれ!」鳴り響くスキャットマン・ジョン。
 クライマックスはナンセンスの嵐。実は全員が精神病患者で自分をヒトラーだと、アンネだと思い込んでいた? 「実は私はベリベリベリ……」ゲッベルスがアンネでヒトラーが探偵だった? マシンガンで撃ち抜かれる神様。そして全員が裸になって踊り狂う。夢から覚めようとしている探偵に、神様がおみやげを持ってやってくる。今回も難事件だった。何が起きたのかも分からない、と決めポーズ。


●完全に不条理なワンシーン

 ヒトラーのホロコーストの歴史を書き換えるため、探偵と助手はタイムトラベルを試み、首相官邸へ忍び込み、とうとう彼の説得に成功し証書を手に入れる。だがそのクライマックスの瞬間、ベルが鳴り、人格の入れ替わった探偵はとうとう手に入れたその証書を丸めて捨ててしまう。「わー、人形だー^q^」これから書いていくけど、僕はこの舞台を楽しみはしたけど名作とは思わなかった。けれど、この一場面だけは、永遠に心に残るだろうと感じている。シーシュポスの神話。カフカの物語。「不条理」はいま、ここにある。ヒューマニズムの美しさ、祈りと願いと歓び、人間が思い描く全ての物語を、悪意も意味も無い完全な偶然のハンマーが粉々に打ち砕く。「不条理」というのは単なるナンセンスの積み重ねではない。必然的な偶然。あのワンシーンはそれを奇跡的に描き出していた!

 そしてその他の全てはーそれに失敗していたと思う。


●〜わずかに、何かある〜

 劇を見たのは8月8日。暑い夏の日、下北沢に向かう電車の中、スマホで「天皇陛下のお気持ち表明」の動画を見ていた。その動画は、あまりにフラットー現実感が無かった。天皇陛下の「オーラ」はどこか途中のサーバーで消えてしまったような。誰かそっくりさんが演じているようにしか見えなかった。奇妙なクローズアップとズームアウト。

 劇を見終えたときの小さな苛立ちは、ツイッターでのこの劇の感想を探しているうちに形を取っていった。「ほんとうに何にも無かった! ただただ笑いつづけた2時間! 何も残らなかったけど、それが良い!」本当に、コピーペーストしたようなこうした言葉の奔流。そこには絶対に乗れない、そうした気持ちが強まる。けれど、その感想の「ほとんど」は正しい。この劇の奇妙なサインを拾い出して考察をすることもできるだろう。例えばー

 冒頭の泥棒が盗みだしたのは「意味」に他ならない。ヒトラーは現代日本の安倍政権を象徴している。神様が探偵を「まだ来ないのか」と待つ姿は『ゴドーを待ちながら』へのオマージュとなっている。ユダヤ人の被害者は一般的に「600万人」だ、「900万人」とは、東京23区の人口である。「虐殺」ではなく「虐待」という言葉、また「総統官邸」ではなく「首相官邸」という言葉が使われたこともそれを示す。流れるスキャットマン・ジョンは自らも吃音という障害に苦しんだ一人の被差別者だった。裸で踊る姿はマティスの『ダンス』を思わせる。理性のキュビズムに対抗し、感性のフォーヴィズムを示す。

 エトセトラ、エトセトラ。「ナンセンス劇」という構造は、どのような差別も、どのような不謹慎さも舞台上で無化してしまえる力を持つ。劇には様々な差別語が登場する。でっぱのユダヤ人のイメージ、「くろんぼのくせに頭のいいやつで」というガブリエルへの言葉、ステレオタイプな差別はナンセンスの無化の中へと解消される。単に笑っているだけでなく、全てを無化して、フラットにしていく。ヘイトスピーチについて色々読んだりしているうち、僕はそれに完璧に反対する立場だけど、言葉はどこまでもコンテクストに縛られるのだから、(「ヘイトスピーカー」という個別の人間には対抗できても)「スピーチ」自体にはタッチ出来ない、ということを感じていた。ある感想から引用する。

 このお芝居が高潔なんですとかそういう事を言ってるんじゃないんですけれど、私が今夜このお芝居を観て、えも言われぬ贅沢さを感じたのは、あの出来事を、ヒトラーを、完全に踏みにじっちゃってさ、もう深刻でもなんでもなくしちゃってさ、アンネ・フランクを聖女から不思議ちゃんにしちゃってさ、それをみんなでゲラゲラ笑って観ていられる事に、この世の平安と成熟を見たからなんだと思います。少なくとも今夜、あのお芝居を上演した日本には、それがあったんですよ、これから変って行くのかもしれないけれど。
 そういう意味で私は今夜、あのまったくなんにも無いヒトラーのお芝居を観る事によって、お芝居の上演中ずうっと、人の世の最高の平和と成熟の頂点に座ってるみたいな気分になれて、だからとっても贅沢な気持ちになれたんだと思います。

 素晴らしい感想だと思う。「ほとんど」納得できる。けれど、それならば、演劇の中でヘイトスピーチを行うことは可能だろうか。一番引っ掛かったのが、「ユダヤ人はどうしておちんちん好きなの?」という神様のセリフだった。これはステレオタイプな差別語、無化できる範囲を超えているように感じる。後からよくよく考えてみると、全てを性欲、去勢に結びつけるフロイトの研究と、ユダヤ教の割礼なんかが読み込まれているのかもしれないけれど、瞬間的にそうは取れない。では、舞台上で韓国人・朝鮮人・中国人差別を行ったら? ヘイトスピーチがコンテクストに基づくとしたら、そのコンテクストを破壊するナンセンス劇で、「ゲラゲラ笑って何も残らない2時間」と言える? 頭の隅に「お気持ち表明動画」がちらついていた。ヒトラーを昭和天皇に、天国のユダヤ人たちをアジアの従軍慰安婦たちに置き換えても、同様にこの劇は成立するのか。もちろんそうはならないだろう。

 けれど、こんなことを問うこと、それ自体、この劇の前では「ほとんど」意味のないことになってしまう。書いていて不毛さを感じてくる。意味はきっと冒頭の泥棒に盗まれてしまった。タイトルの「ほとんど、何もない」の言葉は、もしかしたら何か読み込みがあるかもしれないが(、やはり「意味」が「ほとんど、何もない」と見える。けれど、「何もなかった!」とリフレインする感想のツイート一つ一つ、その胸ぐらをひっつかんで、「じゃあ、『ほとんど』ってのは何なんだ、『わずかに、何かある』として、あんたはそれが何だと思うんだ!?」と問いただして回りたい。


●佐々木敦の推薦

 劇を見に行きたいと思ったきっかけの1つは、佐々木敦さんのツイート。

まあ、『ヒトラー、最後の20000年』については「とにかく見ろ」という感想だけど、こちらのインタビュー

は「不条理」ということが解説されてて面白い。けれど、それを思う程に、この「ヒトラー」はそれ=不条理劇として失敗しているように感じてしまう。


●コメディの根にある凶暴さ

 僕がケラリーノ・サンドロヴィッチを知ったのは、山田玲司のインタビューマンガ『絶望に効く薬』だった。

 再びこう思う。ツイッターにあふれている「ほんとうに何にも無かった! ただただ笑いつづけた2時間! 何も残らなかったけど、それが良い!」といった感想群は、このインタビューを眺めるほどに違和感を増す。

「人を安易に感動させない徹底したアナーキズムがマルクス・ブラザーズにはあるんです」
「『楽しいと思っていること』を疑ってみるっていうのは大切なことなんじゃないかな」
「カフカの小説って、『絶対正しいと思っていたことがゆらぐ』ってものじゃないですか」
「(今はおもいっきりメインにいると思いますけど?)あんまり居心地良くないですね。すっごいちっちゃうものが、大きなものに吠えてるっていう構図が気持ちいいわけですから」

 あるいは、今回の劇に際してのインタビュー 

KERA「笑いの芝居だけれども、根にあるものは凶暴なんですよね。僕はナゴムの頃から、大槻ケンヂや石野卓球と一緒にくだらない音楽をやってきた。でも、表層がくだらなくても、根っこにある凶暴さは璃子がよく聞いているラフィンノーズとか奇形児とやっても負けないぞって気持ちだったんです。コメディって、強い力を持ったものだから」

 コメディが持っている凶暴さ、ということに頷きながら、でもそれが何を指しているのかを疑問に思い始める。それは『リア王』で、道化が客席に向かって、 「おいらの冗談にあんまり笑ってると、あんたの大事なもの、失くしちまうよ」と語るような。虚構を笑っているうちに、実は自分の現実、足元でさえも笑ってしまっていることに気付いた瞬間の恐ろしさ、そのようなものなのだろうか。だとするなら、それはこの劇の中にもあったと思う。だがその力は既に弱められ、古くなってしまったようにも感じる。佐々木さんの「こんなものは見たことがない」という言葉に、僕は「嘘だろう!」と声を挙げていた。僕にとってこの劇は既視感に溢れていた。高校の演劇部の部長が立ち上げた劇団の(20年前の!)シュールな劇にそっくりだったし、ラーメンズ、『おしゃれ手帖』、ネットに溢れるネタ動画、素人動画、それよりも大学のキャンパスで盛んに行われていた学生演劇を思い出していた。そして、それはどん詰まりに来ている。「ナンセンス」な演劇は、どこまでいってもナンセンスで、アップデートが無くて、既視感ばかりだ。これだけ書いといてなんだけど、僕はこの劇を最も楽しんだ一人だったと思う。一番笑い転げて、窒息寸前になるような。けれど、劇全体を見終えたとき、何かしらけた気分だけが残っていた。


●観客を信頼/軽蔑する

 ゾッとしたシーンがある。義理の父から渡されたお見合い写真を開くガブリエル。しかしそれは中心が繰り抜かれていて、彼は客席の私達を指さしながら、「Fuck you, Hate you, Son of a bitch」と怒りをぶつける。次の見合いのシーンでも、相手の女性のいるべき方向=客席に向かい、彼は罵詈雑言を送る。メタ的な「2匹目の魔物」は、演劇の意味ではなく、役者の美しさだけを見に来た客だった(彼女たちにとっては、あらゆる演劇が不条理劇だろう!!)観客は声を奪われ、ときにイジられる。ラストシーン、役者全員が客席に向かって中指を突き立てる。その矛先は、例えば僕みたいな意味を過剰に求める評論に対して、しかし同時に「面白かったクラブ」を形成している観客たちにも向けられているようにも思う。この劇は、軽蔑と、その意味の剥ぎ取りを同時に行っている。それを単に「信頼」と呼ぶことには違和感がある。僕がこの劇が嫌いだと思うのはこのポイント、そして、こんなふうに長々と書いてきた文章が、全てナンセンスに絡め取られてしまうように思えるその構造だった。

 ラストで、変装をベリベリとはがしながら、「実はわたしは…」とどんどん役割が入れ替わるシーンが好きだ。差別者と被差別者が既にいつでも交代可能で、アンネ=作家はゲッベルス=プロパガンダに、さらにはアンネ=被差別者がヒトラー=差別者にもなり得る。幻となった押井守のルパン三世が思い出されるーベリベリ、変装を剥がせば誰もがルパン=虚構となってしまう。でも、それもまた、古い。いや、別に古く立って、力のあるものはいいんだ。冒頭に書いた通り、あの、血判書が投げ捨てられるそのワンシーンは残り続けるし、そのために舞台を見に行ったとしても全然後悔は無い。僕が苛立ってるのは、結局この劇の「意味の剥ぎ取り」に抵抗しないで、「面白かった!」と叫んでいるツイート群なんだと思う。

 佐々木敦さんとケラリーノ・サンドロヴィッチのトークイベントが16日に行われる。佐々木さんが感銘を受けたその理由を聞いて、この僕の、ほとんど愚痴しかないブツブツをぶっ飛ばしてくれたらな、と願っている。


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