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『ヴァーチャル・ガール』エイミー・トムスン◆SF100冊ノック#19◆

■1 あらすじ

 一度AIに滅ぼされかけた世界。高性能なAIやロボットを作ることは強く禁じられていた。有名企業の息子ながら、AI開発に没頭するアーノルドは、父から逃げ出し、田舎町で一人研究を続けていた。彼はついに、禁じられた女性ロボット、マギーを作り出した。彼の理想が結実したマギーは、ついにその目を明ける。
 世界の持つ圧倒的な情報量に戸惑いながらも、次第に人間らしさを身に着けていくマギー。しかし、父からの追手が現れ、アーノルドとマギーは荒廃したアメリカを旅することになる……

■2 ジャパニーズ・ヴァーチャル・ガール

 はいはいはい、バーチャル・ガールの話でしょ? もちろんあいちゃん(『電影少女』)だよね常考…え、違いますか? と、今回は趣向を変えて、まずあまりにも大量に生み出された日本のヴァーチャル・ガールを見て行こうという趣向。あらすじで見た通り、本作でのヴァーチャル・ガールというのは何もマクロス・プラスみたいな実体をもたない存在ではなく、肉体を持った人型ロボット……だけど、まあ、広義からはじめて徐々に狭めていこう。僕の世代は当然『電影少女』のあいちゃんを抜いて語れない。

 もちろん、「ヴァーチャル・アイドル」がもはや固有名詞になりつつある初音さん。ピアピア動画にも出てきましたね。

 それからロボではないけど作られた存在としての綾波。

 あるいはAI存在を網膜に照射する形で存在する Ever17の空なんかは「私は偏在するんです」とか言ってて楽しい。ボタンを押すときはポチっとな。

 これを知ってたら30代、というKEY the metal idol も名作。人間性とロボット性の割と深い話も出てきたような。

 さらに脳とゴーストな少佐。

 もっと元祖ならアラレちゃんもロボ娘よね。

■3 「ヒロイン」「属性」としてのロボ娘

 さて、どうして日本のアニメやらゲームやらにロボが多いのか。民族性うんぬんとかはおいといて、東浩紀の『動物化するポストモダン』を思い出すと、あまりにも沢山登場するヒロインたちの、萌えの「属性」として、「ロボ娘」が必要とされることが考えられる。そこから引用しなくても、例えばラブコメの大量のヒロインたちを差異化するため、いわばロボであることは「ドジっ娘」とか「委員長」とかと同じで、キャラ立ちさせるための特徴というわけ。そんなヒロインたちの爆心地であるところの『To Heart』のマルチがいます。はわわわわ。

 キャラ、属性ということなら、ヒューマノイドインターフェースであるところの長門さん。

 みんなロボだけど、『セイバーマリオネット』シリーズも「恋愛対象」としてロボットが登場する。

 ヒロインというより母親、お姉さん的でもあるなまほろさん。

 その「属性」的存在であることを逆手にとって、実はメインヒロイン!?となるアイギス。

 もっと最近で、こっちは「人形」的ではあるけど、マシンドールたち。

 ロボットというよりパソコンのちぃ

#■ヴァーチャル・ガールにより近く
 「ロボット娘」という存在は上記のように(いや、もっともっと)日本の作品の中で当たり前に登場するけど、単にヒロインというだけでなく、「人工知能・ロボットとの恋愛」にフォーカスした作品、となるとだいぶ絞られてくることに気が付く。
 雰囲気的にも近く、「人間とは異なるロボットの価値観」を反映させた『イヴの時間』

 性的な部分によく踏み込んでいる『ルサンチマン』

 ガールでなくボーイだけど、『Hello,world』は『ヴァーチャル・ガール』でマギーが世界を認知していく描写に最も近い。もしかしたら影響を受けてるかもしれないが、ハロワの方が細かな描写は遥かに素晴らしい。

 愛玩・恋愛対象として作られたロボットが自律していく……という点では『アイの物語』があるけど、こちらもAI独自の価値基準を手に入れる。あ、『her』もありますが日本じゃないので今回は外に。

 さて、一番ご紹介したいのはマンガ作品『ぼくのマリー』。ヒロインはマリーとマギーに似てるだけでなく、主人公がオタクの天才おにいちゃんで、憧れの女性、真理さんに似せたロボットを作ってしまうマッドなサイエンティストっぷり。まあ、二人の関係性とか見てると、ラブコメ発信源とかいわれるあだち充『みゆき』のアップデート版、という気もする。とはいえ、後半に差し掛かると、唐突にセックスの話が全面に出てきたり、ロボットの恋愛というテーマが深められたりして楽しい。

 というわけで、特にラストの4作品なんかを見ると、『ヴァーチャル・ガール』で描かれている物語はどうにも「人間ドラマ」とか「自意識」にフォーカス当て過ぎに思えてならないのだ。最初の「ロボット視点から見る世界」は本当に緻密で楽しんだけど、マギーはすぐに安定を見出してしまう。作者は「ホームレスの描写が微妙」と言われ、ホームレス支援の現場で半年働いたそうだが、そっちの描写が大きくなりすぎてむしろテーマ性がぼやけているように見える。アーノルドとのすれ違いもひどく、後半の彼は完全に装置化されているように見える。「ドラマ」の筋書きが先に立ちすぎている

 ただ、日本のアニメなど多くの作品は、ラストに絶対的な肯定というか、大団円的な「やさしい」カタルシスを持ってきがち、という印象がある。視聴者の年齢層を低く見積もっている、という理由もあるだろうけど、純粋さ、純真さ、そうしたものが必ず報われて欲しい、という願いを感じる。

「だって、お話の中でくらい、ハッピーエンドが見たいじゃないですか。幸せな結末を夢見て、物語が生まれたんだと、私は思ってますから」(kanon)

 こうした価値観から見ると、『ヴァーチャル・ガール』の、例えばさまようマギーがアーノルドと関係のないところでセックスを体験したり(アーノルドはそれを知ることもない)、ラストで人間との関係を築いたアーノルドが豹変してしまったり、という描写は、日本のロボ娘には絶対起きえない展開だな、とも思えてくる。ロボットの「心」に何を見ているか、という読み手の願いの一端が見えてくるようだ。

#ヴァーチャルガール #ロボット ロボット娘 メカ娘 #人工知能

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