ニーチェ『ツァラトゥストラ』読書ノート

※僕が理解した範囲・重要に思えた部分のメモなので、全体を網羅したものにはなっていません。参考程度に読んでいただければ幸いです。
※おおよそ書籍の内容に沿った要約ですが、個人的な補足やメモ、考察を含みます。これらは大抵 ※米印 がついてます。

第一部 1 ツァラトゥストラの序説

1. 30で山に入り40歳まで孤独を愉しんだが → 太陽に向かって語る。「知恵の過剰に飽きた」そして「低いところに降りなくてはならぬ」→太陽が沈んでいくように。「無知を与えよう」という施しの感情。ここで彼の行為は「没落」としてるが、太陽が沈むことと比喩になってる。
- 「見よ、この杯はふたたび空になろうとしている。ツァラトゥストラはふたたび人間になろうとしているのだ」―こうしてツァラトゥストラの没落は始まった。

2. 厭世主義者のツァラトゥストラは変化し「嫌悪」は消え「舞踏者」「幼子」になった。ここでは超越の人=超俗的な老翁との対話が展開される。ショーペンハウアー的な厭世主義者のようでもあり、人々とのかかわりを諦念とともに遠ざけた哲学者のようでもあり、キリスト―それも「大審問官」で語られるような人間をメタ的に見るキリストのようでもある。特に「人間への愛はわたしを滅ぼすであろう」という語の注釈→十字架にかかる危険がある、という解釈は大事。
- 「この老いた超俗の人が森にいて、まだあのことをなにも聞いていないとは。神は死んだということと」

3. 民衆と綱渡り。「超人を教える」…超人にとって人間とは、人間にとって哄笑の対象である「猿」であるべきだという。『悪霊』でキリーロフ=超人を目指す存在に対し、スタヴローギンが「ゴリラまでですか?」と反論するシーンを思い浮かべると非常に皮肉的。
- おおよそ後の哲学書で述べてること。宗教が毒・自虐的であること。大地=生の本能に従うべきであること。凡庸さ・平俗さを軽蔑すべきであること。同情心を捨てること。
- ポイントとして、ツァラトゥストラは狂人として哄笑される
- ※その哄笑と孤独こそが必要である、という考えも逆にできそう。

4. 「わたしは愛する」という語の繰り返しによる、ニーチェ=ツァラトゥストラによる徳の類型。山上の垂訓的なものと考えればよいかもしれない。当然実際のそれの正反対の話。

5. 群衆によって哄笑されるツァラトゥストラ。そこで「彼らの誇りに向けて」軽蔑するものについて語る。
- 「末人」道徳的な人々、これ以上進歩することがないのでそう呼ばれている。麻酔にかけられた家畜。
- 「世界に起こったいっさいのことについて知識を持っている」ため、「たえず嘲笑の種を見つける」ことが可能
- 「しかし健康をなによりも重んずる」

- ※ポイント① ニーチェの批判の目的部分として「これ以上進歩しない」人間、というビジョンがあること。道徳的な世界は平衡状態になり、ある状況の繰り返しのパターンに押し込められるということ。どこかしら宇宙の熱的死を思わせる議論でもある。とはいえ「進歩」の方向がどこにあるのか、という疑問には答えられない。また世界全体から見るとむしろ現代の状況こそ平安を偽装しつつ様々なテクノロジーの進歩によって絶えず人間側に技術による変化がフィードバックされてくるので、むしろ最善の進歩形式では、と考えることもできる。
- ポイント②ここで「健康」を重視しているのは、もちろん精神の健康も含まれているが、『ハーモニー』や現在の感染症的世界を考えるのにも示唆的。また「肉体を重視している」とするニーチェ思想だが、ここにはズレが存在する。
- 「われわれを末人にしてくれ、超人はおまえにゆだねよう」これが人々の反応

6. 道化師が綱を渡り始め、綱渡りの男を追い越し、綱わたり人は落下する。
- 「おまえはおまえより優れた者の自由な進路をふさいでいるのだ」
- 「悪魔も地獄も存在しない。それゆえ何も恐れることはない」「それでは動物では」「危険を犯すことを職としたことは卑しむべきことではない」

7. 「よい漁獲をきょうツァラトゥストラはした。人間を捕えはしなかった。しかし一つの屍を獲た」→マルコ書
-「人間たちにかれらの存在の意味を教えよう。意味とはすなわち超人である」

8. 屍を背負って歩きだしたツァラトゥストラを道化師が警告する。出ていかなければ―君は落ちて使者となるだろう
- 飢えを覚えて沼の老人にパンと葡萄酒をもらう。善意の押しつけ。眠り。

9. 「民衆と畜群を怒らせよう」→「伴侶」を得よう →「同志」的な意味化。
- 「民衆を相手にけっしてふたたび語るまい。死者に語ったのはこれが最後だ」

10. このとき「正午の太陽がかれの頭上にかかった」
- 鷲と蛇、誇りと賢さの象徴。
- 行く手は危険が待ち受けている。 ―こうしてツァラトゥストラの没落ははじまった。

第一部 2 ツァラトゥストラの言説 (まだら牛)

1 三様の変化
1. 精神の三様の変化。ラクダ(苦悩を背負う)→獅子(自由と勝利、否定)→小児(無垢・忘却・遊戯・想像)
2. 重荷を背負うラクダの精神。苦行によって真実を獲ようとする態度
3. 獅子の精神。「われは欲す」という自由の精神が、「汝為すべし」と服従を命令する龍と闘う。
4. 「いっさいの価値はすでに創られた。そして創られたこのいっさいの価値―それはわたしである。まことにもはや『われ欲す』はあってはならない」
5. 幼児の精神。「然り」という発語。つまり小児はまだ道特異にとらわれていない。

2 徳の講談
1. 「眠り」の徳を説く講演者。かんたんにいえば、眠り=平穏=麻薬的な生であり、妥協を求め、争いを避け(徳を眠らせ)幸福=価値を眠り=平穏と結びつけるもの。服従と足るを知る精神。ツァラトゥストラは哄笑する

3 背面世界論者
1. 背面世界論者≒ショーペンハウアー。厭世主義者。苦しむ神。
2. 「人とびで、決死の跳躍で、究極的なものに到達しようと望む疲労感」
3. 肉体(あるいは実存)が強調される → 精神=天上世界を批判するため。
4. 「人間は万物の尺度である」プロタゴラス的な立ち位置。自己からのみ評価・価値は現れる
5. 宗教者は病めるものに対して「幸いである」と語る。「そのままで良い」という姿勢。ツァラトゥストラはかれらが快癒し、打ち克つものとなることを願う。
6. 肉体への賛美だが、ここでの「肉体」は当然、頭=精神、すなわちキリスト教や形而上学的な「精神世界」を現実に優越させることへの批判として語られている。

4 肉体の軽侮者
1. 「魂とは肉体に属するあるもの」「肉体はひとつの大きい理性」「一つの意味をもった多様体、戦争であり、平和であり、畜群であり、牧人である」
2. 「本来のおのれ das Selbst」→「実存」と考えたくなるのは分かる。つまり象徴的な「本質」形而上学が語っていた精神的な(=つまり肉体のように消えてしまったりしない)ものとは異なる「存在」
3. ※肉体における感覚(快楽や苦痛)が思想に先立っている。単純に快楽のために行動しているという話ではなく、日々の快楽-苦悩のプロセスが時間的にあるいは集団の中で集合的に影響を及ぼして、例えばキリスト教のような社会における価値を作り出している、という複合的プロセスを指してるように思える。
4. 肉体の軽蔑者は「超人への橋ではない」 → 繰り返し「家畜」と呼ぶ存在に向けて言っている

5 喜悦と情熱
1. 徳や全は個人的なものであるべきだ。→徳を共有する=キリスト教的・社会的な善への批判
2. 徳は情熱から出たもの。=個人的なものはやがて「悪」と呼ばれるがむしろそれを徳と呼べ
3. 怒り、淫蕩者、狂信者、復讐心…を徳と数える。
4. 「戦争や闘争は悪だというのか。だがこの悪は必然のものである」
5. 嫉妬の炎→ここでは徳を共有することで生まれる嫉妬=不要なものを指す。
6. 個人的な徳は自身を破滅させうる。逆に言えば破滅を生まない徳は徳とはいえない

6 青白い犯罪者
1. 「犯罪者…かれの目は大いなる侮蔑を語っている」 → キリストの横の罪人に通じる
2. ※「悔い改める」とはまさに「自分自身を裁く」こと、だが罪人は実際これを歓びのうちに行う
3. 殺人について、そもそもその目的を求める、解釈することそのものが同情のシステムという話か。
4. 実際は破壊欲・殺人欲…その破壊自体が目的だったのに、強奪や嫉妬など解釈が行われること。

5. ※例えば無差別殺人のような、明らかに殺人自体が目的であるような場合はどうか? この場合もやはり精神的な側面から解釈が行われ、彼らの虐待や貧困に問題が帰されるのではないか。ただしその解釈は本当だろうか? 例えば「虐待」は後から探し出されるものではないか? そこで言う「虐待」の定義は統計的に信頼できるものだろうか? ここで行われているのは「理解できないものを恐れる」ベクトルとも解釈される。しかしおそらく理解できないのは動機そのものではなく、「ある動機がリスクを超えてしまうとはどのような状態か」の方ではないか。
6. 「病者や弱者が外的世界を交渉しようとして行われるものが犯罪」
7. ※この視点は非常に面白い。この点について言えば、すべての犯罪は犯罪者にとっては「前進」である
8. 「しかし、君らの善い人々がわたしにとって何であろう」
9. ※一種「サイコパス性質」と呼ばれている人こそニーチェのいう「超人」に最も近いのではないか。

7 読むことと書くこと
1. 「わたしは読書する怠け者を憎む」「読者の世界がつづけば、精神がそのものが悪臭を放つようになるだろう」
2. ※一世紀経ちました
3. 「わたしは自分の身辺に妖魔のいることを望む」論戦はむしろ必須のものとして捉えているように思う。
4. 笑いによって重さの霊を殺そう。「神を信ずるなら、踊ることを知っている神だけを信ずるだろう」

8 山上の木
1. 青年。「高く昇れば上るほとのぼる私を軽蔑する。高みにのぼってどうしようというのだろう」
2. 「高みにのぼろうとしたとき、わたしはわたしの没落を求めていたのだ」→手塚はこれを「真剣勝負の世界に入った。やがて自分以上の強者の打ち負かされることは必至であり、本望でもある」とする。
3. 高貴な者にとっての危険は、善人に落ちることではなく、冷笑する者となること。厭世主義者。
4. 「だが、高貴な者にとっての危険は、かれが善い人の一人になるということではない。それよりも、かれが鉄面皮な者、冷笑する者、否定者になるということなのだ。ああ。わたしはおのれの最高の希望を失った高貴な人たちを知っている。そのとき、かれらはあらゆる高い希望への誹謗者になった」
5. 手塚「高貴な者が志を獲なうときは、凡庸になることはないが、皮肉なすね者になることは、しばしばである」
6. ※うなずける指摘だが、ここにも構造が指摘されている。ここでの高貴さとは一種のメタ的な知であり、これがあると「畜群」の中に入ったとき常にこの知に脅かされて難しく、一方で高貴さを得ることもできずにダブルバインドとなり、結果高貴さを攻撃することでのみ自己を保てる。

9 死の説教者
1. 「大地は、不用な者たちに満ちている」厭世主義者ペシミストについて。
2. ※村上龍『半島を出よ』だったか『コインロッカーベイビーズ』だったか、「信念のないやつはみんな石になればいいんだ」を思い出す
3. 「君たちの徳の教義はこうあるべきだ。『なんじはなんじ自身を殺すべきだ。この世からひそかに去るべきだ』と」
4. 「われわれは肉欲を避け、子どもをつくることをやめよう」「それを知ってなんのために産むのか。ただ不幸な者を生むだけなのに
5. 「かれら自身は生から離れさろうと願っている。だが、他人を鎖と贈り物とでいっそう強く生に縛り付けようとするのは、どうしたことか」

10 戦争と戦士
1. 敵を愛する―キリスト教とは異なる方法で。憎むべき敵を探し求めよ。
2. 軽蔑するような敵ではなく憎むべき敵を探せ。誇り得るような敵を探せ。敗北を誇れる敵を
3. ニーチェの言う戦争・戦士はかれに、そして現代に引きつけて言えば論争と言えるか。
4. ここでいう「たとえ敗北しても誇れる敵」という区分で考えればネット論談のほとんどは排除される

11 新しい偶像
1. 国家とは冷ややかなもので、「国家はすなわち民族である」というのは虚言である。
2. 「多数者をおとしいれるために罠をかけ、その罠を国家と称しているのは殲滅者たちである」
3. 簡単に言えば、ここでニーチェが示す「国家」はキリスト教と同様に、弱者の基準で強者を引き下ろすプロセスを持ったもの。民主主義・人道主義的なもの。個・超人・英雄を利用し弱者へ仕えさせるシステム。
4. ヒトラーがこれを読んだら「ドイツ第三帝国こそが、ニーチェの批判を上回る地上でただ一つの新しい国家である」と語りそうだし、ニーチェがそれを聞いたら「この国家は虚偽を語っている」と再反論しそう。

12 市場の蠅
1. ※ここでの「市場」はすべて「ネット」に置き換えれば良いと思う。「蠅」は「アンチ」で良い。
2. 大衆の前に出ると、人は様々な意見について賛成/否定の二択を迫られる、というあたりがネットに通じる
3. ※「読者」「ファン」という存在との距離や「観想」といったもの、コミュニティについて考えされられる

13 純潔
1. 「措置には淫蕩なものが多すぎる」「あの男たちはこの地上で女と寝るよりましなことは何も知らないのだ」
2. ※「人のセックスを笑うな」
3. セックス、淫蕩そのものではなく、それを求める欲望を批判している。
4. 「根本的に純潔な人々…かれらは心から柔和で、君たちよりも好んで笑い、ゆたかに笑う」
5. ※純潔については後述とのこと。確かに貞操についての観念はニーチェが攻撃しやすそうな構図をしてる

14 友
1. ざっくり言えば、「敵となるような者だけが友と言える」という話。
2. 友情とはさらけ出すこと、分け与えることではない、ときに闘い互いを高めあう関係

15 千の目標と一つの目標
1. まず「民族」ごとに「善悪」の価値観は相対的で相容れないものであること。
2. 万物の尺度、価値の根源は人間 → 評価することではじめて価値が生まれる。価値の相対主義。
3. 様々な民族の「千の目標」を束ねる「一つの目標」は欠けている → それが「超人」人間の欠落の補完者

16 隣人愛
1. 「隣人を避けて遠人を愛せよ」 最も遠い人=未来に出現する者への愛 →理想、まだ到達しないもの
2. ※もちろん「超人の理想」という具体的な目的があるという話ではあるが、「未来」「未だ訪れていないもの」を愛せよ、という言葉には、宗教における来世思想、バタイユの言う「投企」のようなイメージがあってニーチェ思想とバッティングするようにも聞こえる

17 創造者の道
1. くびき=不自由を逃れただけでは自由とは言えない。「何からの自由」ではなく「何を目指しての自由」かが重要
2. 「孤独は罪である」と大衆が語ることと、孤独において自分自身が最大の敵であること。
3. 大衆は孤独者を憎む―異なる価値を創造するから。一方で孤独は確かに堕落の危険も生むという話。

18 老いた女と若い女
1. 女性論。女性の役割は、妊娠、男の超人への道をささえること。「きよらかな、美しい玩具であれ」「女は劣等」
2. ※むしろ19世紀の段階で女性はどう見られていたか、ということが伺えるのだけど、やはりニーチェは民族論と同様に女性/男性の区別を本質的な違いとして見ていたことが分かる。ただし、それが歴史・社会的なものか、ニーチェ的なものか、を考えるには同時代の女性論を色々と読む必要がありそう。
3. ※ドイツの女性参政権は第一次大戦後1919年と比較的早い。
4. ※ともあれ、ニーチェの女性論は結構クリティカルな部分を含んでいる。擁護する方向…社会通念やニーチェにとって本質的ではない、という語りはニーチェ思想を弱める結果となるし、批判する方向から出発すればボコボコにできるだけの差別的感情があるから。それでも「ニーチェは女性と同様に男性も差別していた」という語りもできそうだが、例えばこの節は弁明の余地はない。

19 まむしのかみ傷
1. 毒蛇がツァラトゥストラを噛んだが、「その贈り物を取り戻せ、それほど富んでいない」と語ったこと
2. 敵が悪をなしたらそれに対して愛で返してはならない → 「汝右の頬を…」への批判
3. 復讐せよ、ただし自分が相手より優越していることを教える形で復讐せよ。

20 子どもと結婚
1. 「君は子を望むことを許されるような人間であるか」
2. ニーチェ的な「弱者」が行う結婚・出産が愚かであること。主に女性が男性の高貴さを台無しにする、という構図
3. 「真の愛」は結局超人を目指すもの、高みを目指すものであり、ここを目指す必要がある。

21 自由な死
1. 死について。結構重要なところ。「時に適って死ね」また「死は祭儀」であり、「完成をもたらす死」であるべき
2. 勝利し、次代に希望を引き継ぐのが最善の死、戦いの中で死ぬのが次善。
3. イエスは早く死に過ぎたので、大地・生を愛することを知らずに済んだ
4. ※良い死について語るというよりも、この話はいわゆる「老害」老いた後に他者の留めることへの批判と思える。もっといえば「強者の足を引く弱者」としての老人になることへの間接的批判に思える

22 贈り与える徳
1. ツァラトゥストラは「まだら牛」を出る。弟子とは別れ一人になることを選ぶ → キリストとの違い
2. 太洋に蛇が巻き付いてる杖を送られる。弟子たちへの言葉。
3. 「贈り与える徳」のために富を得ようと求めることは健全な徳、貧しさから盗もうとする我欲は批判される
4. おおよそここまで語られてきた価値観について。戦え、勝利せよ、肉体を高めよ。
5. 大地(=肉体)に忠実であれ。
6. 弟子たちにも一人になるように告げる。私を離れて去れ、拒め、恥じよ。友を憎むことが必要。
7. 「なぜ君たちはわたしの花冠をむしり取ろうとしないのか」
8. 弟子たちがツァラトゥストラから完全に独立し一つの人格になったとき再び戻ってくる。そしてさらに友、同じ希望となったとき三度帰ってくる。
9. 「大いなる正午とは、人間が、獣と超人とのあいだにかけ渡された軌道の中央に立ち、これから夕べへ向かうおのが道を、おのが最高の希望として祝うときである。その道が最高の希望になりうるのは、新しい朝に向かう道だからである」
10. 「すべての神々は死んだ。いまやわれわれは超人が栄えんことを欲する」これがその大いなる正午におけるわれらの究極の意志であれ。
11. ※弟子との関係は、すべての「ニーチェ主義者」に送るべきごく簡単でクリティカルな反論。

第二部 (至福の島々)

1 鏡をもった小児
1. 再び山に入ったツァラトゥストラ。夢に子どもが鏡をもって出てくる「鏡のなかのお前を見よ」
2. 幸福で満ち、多弁となるツァラトゥストラ。「わたしの全身は口となった」
3. 語りたい、戦いたいと願うツァラトゥストラ。おおよそレトリック部分。序章的な

2 至福の島
1. 「君たちの憶測が、われわれの思考しうる領域に限定されることを」世界の限界=人間の認識の限界
2. 「神々があるとすれば、わたしはどうしてわたしが神の一人であることに堪えられようか。だから神々は存在しないのだ」
3. ※人間が向上・進歩する存在であれば、やがて人間の認識の限界まで共有するようになり、人間が創造した神という存在を把握するのは当然、というプロセス(ホモ・デウス的という語はここでは愚かである)
4. 「意欲せよ、評価せよ、創造せよ」という主張。「生殖と生成」
5. ※ここにおいて、ドイツではなくイギリスロマン主義、特に「クーブラ・カーン」やウィリアムブレイクのような、自らの「創造」を神の創造になぞらえるような立場はニーチェとしてはどう見るのだろうか。

3 同情者たち
1. 「人間は羞恥する獣である。羞恥こそが人間の歴史だ」
2. 同情して幸福を感じる人は羞恥心が欠けている。
3. 「われわれがよりよく楽しむことを学び覚えるなら、われわれは他人に苦痛を与えようとする気持ちなどは、きれいに自分のなかから払い落としてしまうだろう。また他人の苦痛になることを考え出すこともなくなるだろう。
4. ※当然この記述は寓話的に語っているのではあるが、こうした倫理的な語が出てくるたびに(例えば結婚や出産についてもそうだ)ニーチェの力は弱まるように思う。語れば語るほど弱まってしまうのだった。かれの愛したギリシャ神話は、他者への苦痛で満ちていなかったか。残酷さや勝利とは”必ず”他者への暴力と結びついてはいないか。他人へ苦痛を与えるということこそが私の幸福であるとき、ニーチェはその生について何も言うことは出来ない。ニーチェの教えがそれを拒んでいるからだ。そのため、上の一文は非常にニーチェらしくなく響く。
5. ※消極的な倫理ともとれる。ある具体的な暴力が振るわれたとき、かならず何かしらの理由によって、高貴な者、超人は「その行為は奴隷と服従によるものである」と語ることができる。だがニーチェの語る徳において、他者を傷つけ、殺し、奪い、それを歓ぶということが賞賛されないとは思えない。
6. 同情は卑屈であるが、敵対心はまだ相手を認めているので良い。無関心こそが最も不当である。

4 僧侶たち
1. 僧侶は敵だが「静かに通り過ぎるがよい」 → 一種の「ラクダ」と見ているからか。敵だが服従者ではない
2. 解放への「意志」は持っているが、それを果たすための方向は逆。キリストのくびきにとらわれている
3. 「血は真理に対する最悪の証人である。知は最も純粋な教えにも毒を注いで、それを迷妄と憎悪にしてしまう」

4. ※ここでは「殉教」のような行為、血をもたらす行為が現れると、教えに表れた真理が異なる現れ方、解釈をもたらす、としているがこれは面白いところ。つまり教義⇔プロセスの相互関係が生まれている。教義(たとえば「殺すなかれ」)という静的・停止したものに対し、プロセス=動的なもの(例えば使徒が配信者を稲妻で罰する)が現れることで常に教義の側の解釈が変更される(キリスト自身も安息日の解釈を変更した)コーランとハディースにもこうした関係があるのか。あるいは真理⇔物語と言い換えても良い。全体⇔個別とも。犠牲論の話もあるが、人間はある教義、教え、戒律、(あるいはゲッシュ)の元に生きることは困難というか現実性に欠けることで、一方で行為の解釈は少しずつ領土を広げることもできるし時代とともに大きく変化してしまうため元の教義の意味が削られていく。システムを構築するとすれば―教義からどれほど離れているか、を定量的に計測しある範囲内に収めるという方法がある。むしろ教義の現実への適用、という判断部分を問題化するべきかもしれない。

5 有徳者たち
1. 「有徳者たちはまだ支払いを受け取るつもりでいる」「人々は物事の根底に報酬と罰という嘘をはめこんだ」
2. 君たちの最愛の「本来のおのれ」これが君たちの徳の目標である。
3. 「ねじを巻かれた柱時計のような者たち…かれらはチクタクが徳と呼ばれることを望んでいる」
4. あるいのは一つの正義のためのあらゆる不正を働きそれを徳とする…あるものは身振りを徳とする。
5. 基本ラインはここまでと変わらず、善・徳は相対的なものであり、だが欺瞞的に構築されているというところ

6. ※ニーチェ自身がそこから逃れられているというのは、そうした欺瞞、つまりねじれの構造がないという点。もちろんこれはすぐに再批判を受ける。たとえば、「ニーチェはすべての徳を批判し、欺瞞の構図をひねりだして与えることを徳だと感じている」
7. ※「支払いを受け取る」は例えば福音書の「キリストの右席」をめぐる弟子のやり取りを見ればよい。より包括的に、債務-債権の概念でニーチェはみているように思うが。深くとればこの時点ですでに一種の「象徴資本」のようなものが考えられてるようにも思う。善とか良さとかの「意味=象徴」が資本のように累積されていく。

6 賤民
1. 純潔-不潔。賤民の批判 ※簡単に言えば「大衆」で良い気がする
2. 賤民を厭うことの苦難もまた、自己超克に必要なもの

3. ※記述自体が再び二ーチェ自身の首をしめていくように見える。ただここまで読む中で、むしろニーチェはこの書を一種のドリル=ニーチェ自身を批判させていくことによって読者に成長を促すような参考書のようなものとして構築しているのでは、ということを思い始めた。シュタイナーもこれ。この点において言うと、福音書に比べツァラトゥストラの方がずっと優れているというか、深いものになる。それは一種のゲームのような、マニュアルとOJTの違いのようなもの。

7 毒ぐも
1. 社会主義者(「平等の説教者」)を毒グモに例える。「世界を復讐で満たすこと」をこのクモは望んでいる
2. ※「復讐」は、現代で言えば例えば倫理的な間違いを犯した著名人を攻撃し社会的制裁を与え引き下ろすこと
3. 「われわれは、われわれと同等でない、より強力なすべての者に、復讐と誹謗を加えよう」
4. 「罰しようとする衝動の強いすべての人間を信用するな」「かれらの顔からのぞいているのは刑吏とスパイの目である」「おのれの正義について多くを語るすべての人間を信用するな」
5. 現在まで続く左翼やネットについて考える部分ではあるが、考えてみればこのとき既に『悪霊』は出版されていた。(ニーチェは『悪霊』を丁寧に読んでいるがツァラトゥストラトストラ以前)
6. 「人間は平等ではない」…また、人間は平等になるべきでもない
7. おおよそこれまでの繰り返しを別の言葉で言っている。平等に、平和に、争いを避けるのではなく、正面から互いに敵同士になり傷つけあおう。ただし素晴らしく傷つけあおう。

8 名声高い賢者たち
1. ヴォルテールが念頭にあるが「人々の人気取りのために信仰に反対する」身振りの指摘が重要。
2. ※「ツァーリがレーニンに交代した」と言われたように、ニーチェのイメージでは単に道徳-平等-同情の構図は宗教が失われた後も平等主義等に受け継がれているというものに思える。
3. ニーチェにとって啓蒙思想家等は―民衆を率いる民衆であり、権力の下の装置のようなもの。独立していない
4. 民衆に従属することが最初の問題。「民衆」の概念が念頭にある限り自由にはなれない
5. 彼らを完全に否定しているわけではない。民衆はある程度成長したが、はやり民衆の枠から出ていない

9 夜の歌
1. 「わたしは夜になりたい」=受け取るものになりたい。しかし「わたしは光」であるために孤独である
2. 与える-受け取る関係には「亀裂」がある。両方が異議を見出すことは非常に難しい。
3. 「与え続ける」ことをしてきたが、これによって危険がある。「羞恥を失うこと」「与えるものの孤独」
4. 「もろもろの太陽はおのれの軌道を飛ぶ」受け取る者同士は結びつきを獲るが、与える者同士はそれぞれ偉大で孤独であるため連帯が生まれない

10 舞踏の歌
1. 水辺で踊る乙女たち。純粋な乙女たちを寿ぐ。
2. 「わたしは生を憎むときこそ、生をもっとも愛している」

11 墓の歌
1. 青春時代の愛・夢・理想の死とその墓。それらは早く死ななければならなかったため「不実」と呼ばれる
2. 「盲人として幸福な道を歩んでいた」ワーグナー体験を示唆するという
3. 青春は打ち砕かれたが「意志」は変わっていないということ。不変。
4. ※こうした、「かつて私は愚かだったが、今はより賢い、ただ意志は変わらない」的な言説はメタ的に見ると非常に難しい(また何年か後に同じことを語ることが出来るから)が、まあそれは主題ではない。

12 自己超克
1. 賢者は人々を「思考しうるもの」にしようと教育するが、それは服従者を生む…洗脳のようなもの。飼いならし
2. ※この辺りサイード等にも通じるところだが、ニーチェの批判方法を効果的なものとして語れるのは、それが「客観を装っているがその実主観的な価値をすり替えている」という視点。この語り自体がメタではあるが。パターナリズムなんかはその好例。
3. 「覆面をした価値評価がおごそかにすわっている」
4. ①すべての者は服従する ②自分自身に服従できない弱者は他者から命令される ③命令は服従より困難である
5. 「主人となることの喜びだけは、生あるものであるかぎり、捨てることはできないのだ」支配欲。ここでのポイントは、人は自分よりさらに弱いものを服従させるために、自分より強いものへと服従する、という構図
6. ※「弱い者たちが夕暮れさらに弱いものを叩く」
7. 強者の一つの道は、冒険・危険・死、もう一つの道は、犠牲、奉仕、愛、同情による。前者は生を肯定することで、後者は生を否定することで相手を支配しようとする。
8. ショーペンハウアー「生存への意志」→単なる自己保存欲求ではなく、「力への意志」
9. 「およそ生があるところにだけ、意志もある。しかし、それは名前hの意志ではなくて―わたしは君に教える―力への意志である」
10. 「無常でないような善と悪は―存在しないのだ」これは割と重要な一語。善悪は創造者によって変革される
11. 「しかし、君たちの立てたもろもろの価値の内部から、いっそう強い暴力と新しい克服が育ってくる。それによって卵と卵の殻はくだける」

12. ※ニーチェが響くのは、特にニーチェと同様のルサンチマンが働くような立ち位置の人。つまり何らかの強烈な競争社会、序列を決める場所にいる人。例えば芸術家や思想家や大企業でもよい。ある種の上下関係が発生していて、そこに実力以外での支配関係(それが全くないということは考えにくいが)があること。この逆に、安定した生活やいわゆる「夢」「目標」といったものをある程度諦め、家庭、子ども、安住…といった状況にある人にとっては攻撃的に響く(本当にそうだろうか?)競争の中にいる人はこれをバイブルとし、しかしその頂点近くに至るとニーチェを忘れ支配者となるとして。
13. ※ネットでの正義の言説に対してニーチェを用いて反論したくなるということは、つまりハッシュタグでもなんでも社会的な発言をタイムラインで行うということは、暗に他者に対して「お前はなにをするのか?」という負い目を負わせる=債権-債務関係を構築しているから。これが教会の同情による服従の構図に非常に近い。ニーチェであれば、ハッシュタグを使うのではなく、一人ひとり、お前の友人に語り掛けよ、と言うだろう。ショーペンハウアーがそうしたことをやめよ、と言うのに対し。

13 崇高な者たち
1. 厳粛・崇高・内にこもる・没頭・しかめ面 ⇔ 笑い・美・趣味・踊り・微笑み・優雅さ
2. 「やさしさを伴う残酷さ」無邪気さ―というよりも、真の意味でイノセント、無罪=無邪気であること
3. 簡単にいえば、ラクダ+獅子の精神から、子どもの精神へ、という話のリフレイン。
4. 真剣さや崇高さという一般的には善・徳とされてるものへの批判、というところもポイント

14 教養の国
1. 良い章。いわゆる「教養人」というよりも、「多くの本を読み様々な教養を次々に摂取し、それにがんじがらめになって動けない人」を批判している。様々に矛盾する教養を手に入れることで結局「一切は滅びるにあたいする」つまり互いが互いを否定する形となり、一つの価値を持てない。それゆえに新しい価値の「創造」を行うこともできない。
2. ニーチェはここから、常に新しいもの、未来、子ども、生まれてくるものによりウエイトを置くことを告げる
3. ※一方で、その教養を集め、それに対してメタ的な知を生み出す、ということこそ、むしろ哲学・思想が常に行っていくプロセスではないか、という指摘もできそう。ニーチェ自身がまさにそれを行っている。 ①現在通用している知をある程度大きく把握し、それに対してメタ的知を提出する。 ②それに基づいたパラダイムの中で様々なサブの知が周辺を埋めていく ③最初は知は拡大するが、やがて洗練されることで全体を把握することが容易となる ④再びそれらを大づかみにしてメタ的知で乗り越えを行う。
4. ※例えばカント、ニーチェ、フーコーの取り組みとはこうしたものではなかったか

15 無垢な認識 ショーペンハウアー・客観的に見る哲学者
1. 月を同情心を持つルサンチマン、僧侶として見る。さらに客観的に世界を眺める哲学者になぞらえる
2. 世界から離れて観ようとすると→世界に対して「欲しない」ことが価値となり、欲望そのものを軽蔑してしまう
3. ※「性欲」が転倒しているのが面白い。外から見る、視姦するような立場が不潔なもので、創造する無邪気さから性欲を抱くことがむしろ純潔となる。
4. かつてはショーペンハウアー傾倒のように、そうした「遠く名から眺める認識」を重要視してたこと
5. 月に対し、太陽の比喩。「太陽は海を吸い」⇔「月は大地を眺める」の対比。ランボオも思い出すところ

16 学者
1. 悲劇の誕生は「非学問的」であるという話 →現代の学者-批評家構図みたい。そう考えるとニーチェは最初の「有名批評家」とか思想家とかそういう立ち位置にできそう。
2. ※ここでの学者は一種パラダイム的に、正確性と引用力が問われるが、ニーチェはまさにそのネットワークであったり「観照者」として客観的に、事象から離れるベクトル自体を批判する。「時計仕掛け」「粉ひき機械のように作業する」一種工場のようなものとして見る。それは「役に立つ」知であり、想像できる範囲のもの。

17 詩人
1. 「精神は単にいわゆる精神にすぎない」「移ろわぬものも比喩に過ぎない」→これも実存主義に接近
2. 「ある種の人間に対しては、君たちは、なぜ、という問いをかけてはならぬ」
3. 「君がわたしを信じることは、わたしに喜びを与えない」
4. ※「永遠に女性的なもの」→ゲーテ・ファウストから。ゲーテ批判、シェイクスピア批判。詩人批判
5. 詩人は「永遠」などを仮構して、人々の意識を天上、雲の上=「普通では理解できないもの」に引き上げてうやむやにする。そこで生まれる崇高さを批判する。それは「軽い」もの。
6. ※詩人を「調停者」(精神⇔肉体、理想⇔現実の)としているのも面白い。ここでのニーチェの主張は、調停するな、むしろ争わせよ、というもの。逆に言えば、争いを起こさないような主張であれば、それには意味がない。
7. ※しかし詩人は、より鈍感な観客を欲する。賞賛されたいがために。そして向上を失う

18 大いなる事件 社会主義者
1. ツァラトゥストラは火山へと飛んでいく。5日後に戻ってくる。「火の犬」と会話をした。
2. 「自由」を求める革命主義者たち。「大いなる事件」は皇帝の暗殺や革命?
3. 「転覆者」は柱象=権力を破壊するが、それによって軽蔑の心が高まり、結果より強い権力が戻ってくる、というプロセス。フランス革命とナポレオン的なものを感じさせる。
4. ※革命者に向かって「一度転覆してもらえば生命がよみがえるだろう」と語るのは面白いところ

19 ある予言者
1. 「一切はむなしい。一切はすでにあったことだ」運命論+ペシミスト
2. ツァラトゥストラはペシミストの言葉を聞き、「別人のように」し、憂いに閉ざされ眠る
3. 死の世界で門の鍵を開けようと試みる。棺が投げつけられ、あざけりの言葉が押し寄せる。
4. 弟子たちは声を小児のもの、ツァラトゥストラの勝利の声を解釈する。ツァラトゥストラは何かに気づき一変する。
5. ペシミストを呼び、まだ没落できる深淵があることを語りたい。
6. ただし、弟子の言葉には納得がいっていない。永劫回帰への最初の一歩

20 救済 ★重要
1. 不具者はイエスのように救済を求めるが、ツァラトゥストラはそれらのハンディキャップが彼らの「精神」の一部と語る
2. むしろ偉大な人間とされてる一種の天才、過度な発達をした人を、精神に関しては「さかしまの不具者」と呼ぶ
3. ツァラトゥストラの人間観は、こうした天才たちも人々も人間の「断片」として存在している。これを「一つのもの」に凝集し、総合をすることが一つの目的
4. 「過去に存在したものたちを救済し、いっさいの『そうであった』を『わたしはそう欲したのだ』に造り変えること―これこそはじめて救済の名にあたいしよう」 世界に意味を与える存在としてのニーチェ。ここで「意志」が重要な概念になる。
5. ※ここにおいて、永劫回帰は重要な概念になる。あらゆる「起こった」できごとを『そうであった』と意志によって解釈を行う。
6. まず、意志は過去にあったことを変化はさせられないため、ここに後悔・怒りを覚え、「かれと同じように痛憤と不興を感じていない者にたいして、復讐する」不具者がその一例
7. ※コロナ、あるいは有名人のバッシングに強く当てはまる。虐げられている自分の状況は過去からの連続体の中で変えることが出来ない。そのため自分と同様の状況に陥った人々への復讐の機会が訪れたとき逃しはしない。
8. ※もっといえば「道徳心・正義心から他者を攻撃するときに表れる欺瞞」がニーチェの攻撃対象であり、これが ①教会 ②人道主義 ③ネット論説 に共通して当てはまるという話
9. 「知性によって法律をつくったり、教義を作ったりして、復讐の同期をカムフラージュする」
10. 「生存という罰からの救済はどこにもない」 →原罪
11. この限界点はショーペンハウエルのペシミズム。「何も意欲しない」ことによって救済される。ツァラトゥストラは批判
12. 「しかしわたしは、それ(過去)がそうであったことを欲した…いまも欲しており、これからも欲するだろう」
13. ここで時=過去の問題が登場する。ルサンチマンの根源は、自分がそうではなかったという後悔からくる嫉妬であるため、これを克服するために過去を一種書き換える―「そうであったと欲する」プロセスが必要になる。永劫回帰はここからか。
14. ツァラトゥストラは「極度の驚愕」に襲われる→永劫回帰の予感

21 対人的知恵
1. 二つの意志。人間の世界にとどまる必要があること、超人として上っていくこと
2. 対人的知恵① 詐欺師を警戒しない。警戒心を持たない。不幸をそのまま享受する
3. 対人的知恵② 虚栄的な人間に寛大にする。
4. 対人的知恵③ 悪人を見ることから逃げない。だが、そもそも邪悪さは評判程ではないつまらないものだ
5. 超人が現れるためには、超龍=それに対応する悪も必要
6. 対人的知恵④ 仮装して、着飾って、虚栄的で―真実の姿をみないですましたい

22 最も静かな時刻
1. 「何が起こったのか」ツァラトゥストラは孤独へと戻っていく。「最も静かな時刻」に追い立てられて
2. 「わたしはより権威あるものを待っているのだ。わたしはその者の前に出て砕けるだけの値打ちもない身だ」→洗礼者ヨハネを思わせる
3. 「おまえは支配しようとしない」「最も必要なのは、偉大なことを命令する者だ」
4. 声に対してツァラトゥストラは「わたしは語ることを欲さない」と返し、哄笑される。まだ熟していない。これに苦しみツァラトゥストラは孤独となる

第三部 (故郷に戻る)

1 さすらいびと
1. ツァラトゥストラは山を登る。「自分自身を見下ろすほどに高くする」さらなるメタへ。
2. 「わたしの最後の孤独がはじまったのだ」苦痛の中へ、闇の中へと下っていく。

2 幻影と謎 ★重要。永劫回帰思想の端緒
1. 船に乗るツァラトゥストラ。冒険を好む船乗りたちに「幻影」を語る。
2. 石の山を登るツァラトゥストラ。重さに抵抗する。しかし重さの霊は「投げ挙げた者は落ちる」と攻撃する
3. 「これが生だったのか。よし。もう一度!」勇気がこう語る。

War das das Leben? Was that the life, これが人生というものだったのか
Wohlan! Well, よし
Noch Ein Mal! once again ,もう一度

4. 過去は永劫、未来も永劫である。過去が永劫であるなら―「すべて歩むことのできるものは、すでにこの道を歩んだことがあるのではないか。すべて起こり得ることは、すでに一度起こったことがあるのではないか。なされたことがあるのではないか。この道を通り過ぎたことがあるのではないか」
5. ※重要な指摘。ここでは「時の無限性」が語られており、例えば現在からしてみればインフレーション宇宙論においてこれ自体は「ファクト」とはとらえられない。一方で、このイメージは様々に繰り返される。文学的アプロ―チで言えばボルヘスの「バベルの図書館」やForest-くまのプーさんの「思い出してきた」(すべての物語があらかじめ記録されているのであれば、我々はそれを創作するのではなく思い出すだけ)の語、科学的には、可能世界、並行世界論や、さらには宇宙の空間的無限性がこうした考えを消極的にだがサポートする。あるいはマトリクス-順列都市的計算世界を考えても良い。
6. ※ニーチェの言葉はプロテスタント的予定説っぽい話と思ってたが、より可能世界っぽいイメージに聞こえる。空間的なものではなく、時間的な無限の中であらゆることが起き、起きなおすというイメージ。
7. 犬が吠えたことの回帰―デジャヴュ感覚が一つの根拠にされてる ※マトリクスのロジックに近くて面白い
8. 月に吠える犬。倒れている牧人、のどに這いこむ蛇。「噛め!」と絶叫するツァラトゥストラ。
9. 牧人は蛇を噛んで立ち上がる。そして変容し、光につつまれ、「高らかに笑った」超人の笑いへの憧れ

3 望まぬ至福
1. 孤独となり再び勝利に輝くツァラトゥストラ。「生の午後」人が根底から愛するのは自らの子どもだけ
2. 子どもに対して過度の愛=与えようとすることは、子どもを「所有」することに通じる
3. 「至福の時」が罠のようにツァラトゥストラを繋ぎとめようとする。孤独になるため「彼方へ去れ」と告げる。

4 日の出前
1. 空=下界にとらわれない自由さ、孤独さ、超越の象徴。天へ己を投げ挙げたい。
2. 対して「雲」はそれを乱すもの。ペシミストとか大衆とか色々。中途半端な者。
3. 「善と悪とは、ただ中間的色調…浮動する雲であるにすぎない」
4. 「神的な骰子と神的な骰子遊びをする者にとっての神的な卓である」 ※アインシュタイン
5. 世界がたわむれと遊び、偶然からなっているという世界観→合理性を批判する

5 卑小化する徳
1. ツァラトゥストラは偉大になったため大きくなり、家が小さく「どの門を見ても前よりひくい」くぐるためには「身をかがめねばならぬ」と感じる。
2. 民衆への批判。「命令する者も、仕えるものの徳の面をかぶることである」重要な指摘。
3. 「神をなみする(軽蔑する)」存在と語る。
4. 偶然を鍋で似て「わたしの食物」とする → 偶然を意志として捉え返す。前に出たもの+永劫回帰
5. 「おまえたちの意欲するままに行え。―しかしまず意欲することのできる人間となれ」 ※はてしない物語
6. 「疾駆する火、炎の舌を持つ告知者」

※そこにはツァラトゥストラ的欲求―世界のすべての人々に(偉大で賢明なる)自分と同じであってほしい、という欲求があるのではないか。特に自らがなんらかの正しいことを行っている際には。他者へのなんらかの強制的行為のかげには、そうした「私は賢明であるがお前は愚かである」という軽蔑が潜んでいるのではないか。それは原発のときと同様で、「ちゃんと”事実”を知りさえすれば、あなたも必ず私の意見に同意するだろう」という傲慢がある。なぜなら「ちゃんと事実を知ったもの」がそれでも自分の意見に賛同しなかったとき、提唱者はそれに抵抗する準備など全くできていないからだ。

6 橄欖の山
1. ツァラトゥストラは高い山に赴く。寒さ=認識の冷たさの比喩

7 通過
1. 「ツァラトゥストラの猿」模倣者が大都市を誹謗する。ツァラトゥストラはこれをのける。「なぜおまえは森にはいらなかったのか」
2. 「不平豚」と呼ぶ→都市で不平をまき散らす存在。その不平は復讐心からきてるためツァラトゥストラと反対
3. ※ここ、結構重要かも。一つ目のポイントは、たとえツァラトゥストラのような理論を振りかざしても、教えのみでは足りず自らの体験、ここでは自然が述べられてるが、その実際は孤独と没落の体験が不可欠ということ。二つ目はここで「新聞」に対する批判が述べられていること。不平-復讐心等とメディアが連続していることがこの時代で既に述べられている。三つ目は、ツァラトゥストラの言動が「不平家」として取られていること。模倣者と目的は正反対(復讐⇔自由)だが、外面的には「他者に不平を言い混乱させる存在」として共通する

8 離反者
1. 老いが人生を倦ませ安定を望ませる。離反する。一種転向論としても読める。
2. 「あるいは、かれらは歌謡詩人のもとで、つつましく、たのしく、竪琴をひくことを学ぶ」 ※老年で新しい趣味を始めるカルチャースクール的なものにケンカを売りそう。
3. ここでは老いと父親、というモチーフがそのまま、「父=神の老い」にシフトしていく。
4. 古い神々(ギリシャ・北欧神話)はラグナロクではなく、「大笑いをして」死んだ。その事件はキリストの「神は一人である」という言葉に対して。

9 帰郷
1. 再び故郷の山に戻る。「見捨てられた」状態であること。人と交わったが故により孤独となったこと
2. 下界での苦しみに対し山での孤独が清らかであること。 ※ポイントは、下界=人間の中にいると、孤独であったときは正しいかれの言葉が濁ること。つまり状況に応じて同じ言明の意味が変わりうる
3. 下界の人々を寛大に許して自分の力不足の責任にする、という行為それ自体を一種の復習と自己批判する

10 三つの悪
1. 3つの悪=肉欲・支配欲・我欲。ツァラトゥストラはこれが「人間的に良いもの」と示し転換する。
2. 肉欲。「自由な心情にとっては、無垢で自由な者、地上における花園の幸福」
3. ※萎えしぼんだもの=弱者にとっては毒だが、強者にとっては強壮剤…的な話。それほど深さは感じない
4. 支配欲。 ※簡単に言えば、ここでツァラトゥストラが言ってるのは「ノブレス・オブリージュ」的なものに近い。「贈り与える徳」とそれを言いなおす。ただその賞賛の根拠は弱いという印象。人間存在に本質的序列を与える立場からは支配構造を肯定するのは当然。当然、現実はその何倍も複雑。
5. 我欲。「力強い魂から湧き出るすこやかな我欲」 ※ここも同様に、高貴な我欲と、服従・奴隷の我欲を分別して、後者のみを批判する。
6. 「我欲をさいなむことが徳とよばれてきた」ここまでのルサンチマン・復讐・道徳の構造のリフレイン
7. 予言者として「大いなる正午は来る、それは近い」
8. ※ここはここまでのツァラトゥストラの言説の中でもかなり苦しい。ほとんど繰り返しではあるのだが。三つの悪を述べておきながら、その実際はその欲を二つに区分して、良い欲と悪い欲に分けてしまう。当然そこには強い恣意性が入り込んでしまうので、ほとんどご都合主義というかマジック的な概念になっている。こうした恣意的な強者/弱者の精神、という切り分けでこそ、ツァラトゥストラが批判してきたものではなかったか。

11 重さの霊
1. 鳥の性質、飛び去ろうとするもの、重さの霊の敵。自由。 ※逆襲のシャアを思い出すところではある
2. 飛翔のためにおのれ自らを愛せよ→同情・復讐心ではないやり方で。
3. 「女たち…もう少し太りたいとか、もう少しやせたいとかが、彼女たちの苦心である」
4. 「万人の道というものは存在しないのだ」
5. ※人生を担うのは重いが、自分自身の重さのみを担え。「重さの霊」の問題は、他者・社会の重さ全てをも社会の成員全体に担わせようとすることである。おおよそここまでに書かれたことの繰り返し

12 新旧の表 (30節)
1. 新旧の表=さまざまな試された価値観。ツァラトゥストラ自身は未だ完全ではない
2. 人々に善悪の概念を絶対性を崩すよう命じた。「わたしは比喩でしか語れないのだ」これまでの旅について
3. これまでの総括というか歩みを再確認。 ①超人思想を教えようとする ②大いなる正午 ③偶然を創造によって必然にすること―意志によって偶然に「あったこと」を、「わたしは欲した」と言う。そして再び没落し、与えたい
4. 「汝の隣人をいたわるな」他者を介さずに自分自身を超克すること。
5. 高貴なものはなにも無償で得ようと思わない。
6. 「われわれは初子なのだ」「わたしは自分自身を保存しようとしない者たちを愛する」※キリストの犠牲の概念をむしろ引き受け乗り越える姿勢がポイント。また「自己保存」はルソーを思わせる
7. 「善人は真実を語らない」→悪人として、否定して真実を語れ
8. 「万物は流転する」の引用。いま静止してるように見えるものもやはり変化、生々流転する
9. 善悪は妄想。占星術と同様のもの。構築され信じられているに過ぎない
10. 「奪うなかれ、殺すなかれ」という語、概念こそが略奪と殺害を行っている
11. 過去論。歴史は過去を捏造するし、最近ではむしろ過去は忘却される。これに抵抗するには、「高貴」な人々が並び立っている方が良い。神々=多様な価値世界がある方が良い
12. 新しい貴族のイメージ。王に従属するのではなく独立し、過去ではなく未来に仕える。
13. 「一切はむなしい」人生観の批判
14. 「背面世界論者」(ペシミスト)への批判。汚物はあるが汚物だけではない
15. 汚物的価値観→世界から離れようとするペシミストへさらに批判
16. 「知恵」を得ること→メタに立つことで「欲念を忘れる」→新しい表だが、これも打ち破るべきもの ※この主張は難しい場所にあるが大事。より多く知ることが良いとすることへの批判はもっと複雑にできそうな気がする
17. 「死の小舟に乗れ」厭世主義者が自殺しないのは現世欲へのしがみつき ※ここの問題、原理的に生命を批判するのであれば、自死という決断は一つのオプションであるべき。エクストリームにも思えるが、ウエルベックの『地図と領土』での父親の安楽死はその例に見える。安楽死・自殺に対する倫理観は変化するか、の議論
18. 疲労と怠惰、二つの「古い表」の源泉。二つは別。疲労はあと一歩のところまで来てる
19. 強い存在ほど多くの寄生虫が群がる。ここでの寄生虫は賛同者であり同時に批判者にもなる
20. 倒れようとするものはさらにこれを突き飛ばすべきだ
21. 憎むべき=愛せる敵のみを相手にし、軽蔑すべき敵を無視して通り過ぎよ
22. 「労働者は生計に苦労すべき」労働は一種の略奪行為とする。 ※ここでのポイントは、一種「苦労」こそがアイデンティティと結びついているという指摘。抵抗、ストレスと言い換えても良い。例えばベーシックインカムを考える。
23. 男は戦闘に長け、女は倦むことに長けていること。そして両性ともに、頭も足も舞踏に長けていること
24. ゆがんだ結婚より破婚のほうがまし。歪んだ結婚に耐えるとその復讐心を世界に向ける
25. 古い価値を知るのは → それを超克するという目的が必要。「人間の社会は命令する者を求める」
26. 「善い者はパリサイ人たらざるえを得ない」善が必然ではなく力の維持のために善であることを要請されていること。同時に「創造する者」→超人的な人間を悪と定義すること。
27. 「打ち砕け 善い者 正しい者たちを打ち砕け」
28. 荒れた海へ船出せよ
29. 「なぜそう硬いのか、近親ではないか」と木炭がダイヤモンドに尋ねる。硬さ―つまり妥協を良しとしないことを是とする。柔軟さとは妥協、欺瞞を倦むため。
30. 「おのれの小さな勝利に打ち負かされる」偉大な人物も小さな勝利に満足すること。勝利に目がくらむ。こうした小さな勝利に目をくらませず、最後の事業=永劫回帰のために意志を蓄えたい

13 快癒しつつあるもの
1. 「起きよ」「円環の代弁者」「わたしの深淵が語る」飛び起きたツァラトゥストラは叫び呼びかける
2. 七日間倒れる。鷲と蛇が語り掛ける。「世界は花園のようにあなたを待っている」
3. 「一切は行き、一切は帰る。存在の車輪は永遠にまわっていく。一切は死んでゆく、一切はふたたび花咲く。存在の年は永遠にめぐっている。
4. 「悲劇や闘牛や磔の刑などを見ることが、これまで人間にとっては地上でいちばん楽しいことだった」
5. 同情や復讐心、善悪の欺瞞について詩人が語ることは苦しいが、それよりも倦怠、ペシミズムが首を絞める
6. 「小さい人間が永久に立ち帰ってくる」 ※人生が長くなるほどに、ペシミズム的になる条件が増える、増えるように見えてしまうというポイント。「経験とペシミズム」みたいに考えると割と大切な気もする。
7. 語ることをやめて歌え。新しい竪琴を用意せよ。

8. 「あなたは永劫回帰の教師なのだ―それがあなたの運命になったのだ。あなたが最初の者としてこの教えを教えねばならぬということ―この大きい運命が、どうしてまたあなたの最大の危機と病気にならずにいよう。見よ、われわれはあなたの教えることを知っている。それは、万物は永久に回帰し、われわれ自身もそれとともに回帰するということだ。また、われわれはすでに無限の度数現存していたのであり、万物もわれわれと共に無限の度数現存していたということだ。あなたは教える。生成の循環が行われる巨大な年というものが存在することを。その年は、砂時計のようにいつもくりかえして新たにさかしまにされ。このようにして、すべては繰り返して新たに行われ、過ぎてゆくのだ。だから、めぐりくるこれらの年々は常に最大のことにおいても最小のことにおいても、あいひとしい。だから我々自身も、この大いなる年を幾度重ねても、われわれ自身にひとしい存在なのだ、最大のことにおいても最小のことにおいても。そして、かりに今、あなたがまもなく死を迎えることになっても、おお、ツァラトゥストラよ、われわれはあなたが死に際してあなた自身にどういうことばを言うであろうかということをも知っているのだ。―もちろん、あなたの生き物たちはあなたがまだ死ぬことのないよう、あなたに懇願するのだが」

9. 「いまわたしは死んでゆく、そして消滅する」とあなたはそのとき言うだろう。「そしてたちまちにしてわたしは無になる。魂も肉体も、滅びることにおいて変わりはない。だが、わたしがからみこまれていたもろもろの原因の網目は―再びわたしを創り出すだろう。わたし自身が永劫の回帰のなかのもろもろの原因の一つなのだ」

10. 「わたしはふたたび来る、この太陽、この大地、この鷲、この蛇とともに。新しい生、よりよい生、もしくは類似した生へ返ってくるのではない。わたしは永遠にくりかえして、同一のこの生へ帰ってくるのだ。それは最大のことにおいても最小のことにおいても同一である。だからわたしはふたたびいっさいの事物の永劫の回帰を教えるのだ」

11. 「こうして、ツァラトゥストラの没落は完了するのだ」

12. ※いくつかの重要なポイントがあると思われる。まず、永劫回帰の思想が出てくる前段階は間違いなくペシミズムがあり、どれだけ教えを授けても(これまでの2回の旅のように)「小さな人間」が「永久に立ち返ってくる」という一種経験が増えるほど、同じ失敗が幾度も繰り返されてしまうように見えてしまう、その敗北―諦念のリフレイン=ループ状態への絶望。非常にかみくだくとシュタゲのオカリンの絶望。直接的ではないが、キリスト教の予定説・運命論や、ラプラス・デカルトみたいなすべてはあらかじめ決められている、という世界観も読み込まれているように見える。
13. ※一方で、永劫回帰思想そのものについては、かなり唐突に、そしてSF的、ファンタジー的なものとして語られて、しかもそのコア部分はかなり唐突に思える。しかもツァラトゥストラはここまで、「向上していく」ことを説いてきたし、この上の引用においても「よりよい生」とあるように、空へ向かう、変化していくことを寿いでいるのに対し、この話はかなり絶望的なものとして現れる。
14. ※次のポイントは、この永劫回帰の「魂」は、同一のものではなく、まさにSF的というか、火の鳥未来編みたいな感じで、同一の存在ではないがあらゆる可能性、原因によってもう一度生じるのであり、つまり意識が連続した存在ではないということ。この辺りは物理学的に捉えたくなる。
15. ※プラスして、この永劫回帰の思想が、ツァラトゥストラ自身は既に悟っているが、鷲と蛇の口から語られたということの意味。

14 大いなる憧れ
1. 一種クッションのような章。永劫回帰を受けて、内心を語る。語りから歌=詩的なものへ
2. 「わたしの魂よ」と呼びかける。これは今の私=与えるものと、未来あるいは過去の私=受け取る側との対話になっている。受け取る側は同情者、旧来の道徳者ではないか、という自己批判も。
3. ※ここで「歌え」と言っているのは、より抽象化すると、例えば思想書⇔小説・芸術、のようなメッセージの在り方とも関わって見える。情報⇔意味、と言い換えても良い。当然完全に二分は出来ないが、各側も受け取る側も、ある文章を「情報」あるいは言明として取るか、「意味」として取るかをある程度分けて考える。それは比喩の程度なのかもしれない。これはもっと言えば記号論なのか…。ただしこれを単に「機能の違い」と言ってしまいたくない。

15 後の舞踏の歌
1. 踊りながら生を追いかける。生は逃げながら翻弄する。
2. ここでは、理性=男⇔生=女という対比で女の比喩が語られてる 認識→知恵・生の三角関係
3. 真夜中の十二回の鐘。「永劫回帰」について囁く→「おお、それはだれも知らないことなのに」
4. 十二の歌 →四部へ

16 七つの封印
1. 円環を表す婚姻の指輪「おお、永遠よ、わたしはお前を愛しているのだ、おお、永遠よ」→永劫回帰への愛
2. かつて批判した教会なども含めて永遠をアイス「つまり、教会や神の墓をもわたしは愛するのだ」
3. 他も同じ。これまでのツァラトゥストラの来た道について、行ったことについて語りながら、その「永遠」を愛する宣言

※ドストエフスキーの神への長い道、千兆キロの道で叫ぶ、を思い出すところでもある。無限を歩く。

第四部 最終部 (高人たち)

1 密の供え物
1. 歳月が過ぎツァラトゥストラは老いて神は白くなる。鷲と蛇が訪れるがすれ違いがある。「私の幸福は重いのだ」
2. 血を流れる蜜が血を濃くし、魂を重くする。山頂に上り独りで語る。
3. 「わたしはわたしに贈られたものを浪費する」 ※消尽、バタイユを思わせる
4. 「人間の海」に「いまわたしの金の釣り針を投げ込む」これまで自分が降りて行ったが、今回は「釣り上げる」つまり相手が自分の方に上ってくるように仕向ける。教育者。

2 危急の叫び
1. 予言者「大いなる疲労の告知者」(ペシミスト)
2. 人間の苦悩の叫びが聞こえ、告知者は「同情」という罪へツァラトゥストラを誘いに来たと語る。
3. 幸福を説くツァラトゥストラが実際は山の洞窟に潜伏していることを批判する。ツァラトゥストラは「否、否、三たび否!」と反論
4. 「夕方になればあなたはまたわたしを見る」運命の呪い。人生の夕べにはペシミストにならざるを得ない

3 王たちとの会話
1. 二人の王と1頭のロバが山を登ってくる。腐った社交界から脱け出し隠遁しようとした王たち。貴族批判
2. 王は「農夫(粗野さ)」の価値を認め、虚飾とカネの支配する政治・貴族社会を批判、ペシミズムに陥る
3. 「最高の人間が最高の支配者にならねばならない」「人間の最も過酷な不幸は、権力者が第一級の人物ではないこと」「権力をもつものが最下級の者であり…ついには賤民の徳が「見よ、われわれのみが徳だ」というようになる」
4. ※ポイントは、「為政者の愚かさをあげつらう → 政治的決断が誰の手によっても行えると錯覚する → 素人的考えが正しいものに思えてしまう」というプロセスでこれが衆愚政治を産むというプロセス。民衆にも賢明な判断は存在するが、問題は賢明な判断と愚かな判断の区別がつきづらくこれらがフラットになってしまうということ。ただしここには統計など数値的なものも関わってくる。
5. 王たちはツァラトゥストラをたたえる。良い戦争の話。ツァラトゥストラは叫びにこたえるために山へ。王には洞窟で待てと伝える

4 蛭
1. 男を踏んで杖で打つ。人間と気づき「許せ」とし、比喩を聞かせる。男はツァラトゥストラと蛭のみが自分の関心と答える
2. 男は「知的良心を持つもの」「多くを知るより何事も知らぬことを選ぶ」者。「てのひら大の根底」のみを知る
3. 男は「蛭の脳」についてのみ知る。かつてのツァラトゥストラの「精神とは自ら生のなかに入る生」という語を元にしている。ツァラトゥストラは言い淀み、「何も語らない」ことを選ぶ。
4. ※この章の流れは、かつてツァラトゥストラが語ったこと、それによって変わった人々がツァラトゥストラの元へやってきて語る、というものか。それぞれがツァラトゥストラの言葉を受け止めているようで、おそらくは誤解をはらんでいる

5 魔術師
1. 叫んでいた高人、苦しみの歌を歌う。神にさいなまれたもの。死っと、盗人、神という拷問者。愛を与えよ。
2. ツァラトゥストラは男が「俳優」であること、ツァラトゥストラを試していることを見抜き杖で打つ。
3. 男は自分が「精神の贖罪者」と語る。ワーグナーとかれに心酔していた過去のニーチェへの自己批判
4. 「一切は嘘だが、偉大な嘘だった。そして砕けるということは真実である」「それがお前の名誉になる」
5. 「わたしはツァラトゥストラを求めているのだ」と魔術師は語り沈黙が生まれる。
6. ※魔術師は「偉大さ」を求めているが、ツァラトゥストラはその大衆から与えられる「偉大さ」の価値を求めていない

6 退職
1. 僧侶。「最後の瞬間まで神に仕えていた」もの。「最後の法王」
2. 「同情が神を窒息させた」「神がどのような死に方をしたか?」
3. 片目の法王…「秘密の多い隠れた神」「この神は若いときには苛酷で復讐心が強かった」
4. 地獄は天国にいるものを愉しませるために作り上げたとする。
5. 神は老い、同情心を持ち柔和となり、萎えしぼんで、世界や意志に憑かれ、大きい同情のため窒息した」
6. 神は「多義」的であり「物言いが不明瞭」だった。
7. ここでは趣味(好悪)が神の善悪に優越する
8. 「おお、ツァラトゥストラよ。あなたは、そのように不信仰だが、あなた自身が思っているよりは敬虔なのだ。あなたの内部のなんらかの神が、あなたをこの不信仰に改宗させたのだ」
9. ツァラトゥストラが一種の信仰心、敬虔さを持つものだという話。ここは良く納得できる場所でもある。

7 最も醜い人間 ★重要
1. 唐突に死の谷「蛇の死」にたどり着く。そこで人間のような何かを見る。「目撃者の復習とは何か」
2. 同情がかれを襲う。「お前は神の殺害者だ」最も醜い者。
3. 人間の成果は、迫害されたものがあげた成果だった(ねたんで追随しようとして成果を上げる)
4. 多くの人がツァラトゥストラの元に訪れる。かれらの同情しないよう注意せよ。
5. 神は「一切…人間の底と奥、隠された汚辱と醜悪の全てを見た」ため「死ぬほかはなかった」
6. 「かれ以上におのれを軽蔑した者を、わたしはこれまで見たことがない」

7. ※ここまで、第四部に登場する人々は、ここまでツァラトゥストラが批判してきた様々な類型のどん詰まり、それぞれがボス級の存在であり、その上彼ら自身メタ的に、自らの問題も認識した状態でツァラトゥストラに挑んでくる。そのためツァラトゥストラも厳しい戦いを強いられる、という構図か。

8 進んでなった乞食
1. 荒れ地をこえると心が暖かさを取り戻す。牝牛に話しかける説教者(イエスの象徴か)
2. 学んだのは「牛のように反芻すること」=わずかな教えをかみしめて幸福とすること。吾唯足知
3. 「進んで乞食になった人」→聖フランチェスコ。 ※どことなくブッダも感じさせる
4. 大衆がその流儀によって高慢になった時代→正しく与えることは難しい。大衆は慈善と施しに憤激する
5. 乞食は大衆に吐気を感じ、「より貧しい者」を求め最終的に牝牛のもとにたどり着いた。
6. ツァラトゥストラは怒る乞食に「そのような怒りはふさわしくない。おまえは草食の人」と語る

9 影
1. ツァラトゥストラの「影」と名乗る者が話しかける。弱いインテリ。いわゆる教養オタク。
2. 「苛酷な、峻烈な迷妄こそ、おまえをとりこにする危険がある。すなわちこれからおまえは、偏狭であって確固としているすべてのものに引き寄せられ、誘惑されるのだ」
3. ※ツァラトゥストラと同様に行動し考えているように見えながら、ある部分で異なるためにかれは疲れ果てペシミスティックな教養人になってしまう。その違いは決断や意志のようなものだろうか?

10 正午
1. 正午、ツァラトゥストラはブドウの木の下で眠る。幸福、全き世界、金の円環…永劫回帰の予兆
2. 永遠、完成と眠り ⇔ 目覚めよという声のせめぎあい

11 挨拶
1. 洞窟に戻ると再び叫び声。二人の王、魔術師、法王、乞食、影、蛭(知的良心)、最も醜い人間、予言者が並ぶ
2. 陰気で奇妙で絶望している人々。ツァラトゥストラは「舞踏者・道化師が必要」と語る。
3. 「絶望している者の顔を見れば、だれしも陽気になるものだ」
4. 贈り物「絶望はさせない」→王による賞賛→「ツァラトゥストラはなぜ来ないのか? われわれがいくべきだろうか」
5. 「人間に残る神の最後の余燼が訪ねる途上にある…大いなる憧れと吐気と嫌悪を持つ人たち」「大きなる希望を習得しない限りは」
6. 「あなたがたは高人であるが、高さにおいても強さにおいても不十分である」
7. かれらは「越えられるべき橋」であるとする。「わたしが待つのはあなたがたではない」
8. 王の言った「神の最後の余燼」も待つものではない。 → 「より高く強く勝ち誇ったもの、上機嫌なもの。哄笑する獅子」を待つ。

12 晩餐
1. 「おなかがすいたし喉もかわいた。葡萄酒とパンが欲しい」「子羊もいるから料理して楽しくやろう!」
2. ※最後の晩餐になぞらえている? とすればこの人々は12人の弟子たちか

13 高人 20節
1. 最初の綱渡り人の話。高人よ学べ。大衆の喧騒はわたしには関わりはない。人は神の前では平等だが、その神は死んだ。大衆を前には平等であることを欲しない。市場をされ!
2. 神が死んだことで超人が生まれる。正午が来る
3. 「人間はどのように乗り越えられるか」がツァラトゥストラの問。過度・没落としての人間。「最大多数の幸福」への批判
4. 勇気を持て。目撃者の無い孤独な中でも。恐怖を克服し、深淵をたじろぐことなく見るもの
5. 「人間はより善く、より悪しくあらねばならぬ」イエスは小さかった
6. わたしはあなたがた=高人を助けるために来たのではない。破滅し、より苦しくなることを望む。「まだ悩むことが足りない。…あなたがた自身を悩んでいて、人間を悩んだことがないからだ」
7. 雷をそらすのではなく自らのために働かせる。人間の目に巨大な一撃を与えよう
8. 能力以上のことを望むな。大衆の言うことは常に嘘だ。正直であれ
9. 疑い深く荒れ。論拠を公開するな。市場において説得するのは身振り手振りによってだ ※大衆は論理ではなくレトリックを信じる。学者を警戒せよ。
10. 高所に上ろうとするなら自分の足を用いよ
11. 「隣人のために…」この「ために」を忘れよ。 ※創造はそれ自体が目的である
12. 産まざるを得ないとき人は病気である。創造と出産
13. 自分の力以上に有徳であるな。価値を相続せよ。多数の者には孤独は思いとどまらせるべきである
14. 賭博者・嘲笑者として行為せよ。挑戦せよ
15. 「あなたがた、なかばくだけた人たちよ。あなたがたの内部で、ひしめきあい、押し合っているではないか…人間の未来が?」
16. 「いま笑っている者はわざわい」という聖書の言葉を批判する。 ※最も分かりやすいニーチェ的なキリスト批判。 「大きい愛は愛されることを求めない」
17. 「善い事柄はすべて笑う」 遊び、意味のないものに価値がある
18. 私自身がわたしの頭上に王冠を置く。舞踏者、飛翔、跳躍
19. 軽やかになれ。ぶざまにでも踊れ。
20. 「最悪のことは、あなたがたすべてが踊ることを学び覚えなかったということだ」「学べ、哄笑することを」

14 憂愁の歌
1. ツァラトゥストラが去った後洞窟に残された人々。魔術師は立ち上がり、ツァラトゥストラがいなくなると直ちにその演説も「仮装舞踏会」のような茶番に思われてくるとする。
2. 歌。「いや、お前は道化に過ぎぬ 詩人にすぎぬ!」自己批判・疑い。

15 精確な知識
1. 「知的良心の所有者」が魔術師から竪琴を奪う。「わたしは確かさをもとめている」
2. かれは他の高人を「非合理」とし、学問を賛美する。ツァラトゥストラが帰ってきてそれを笑う。
3. 魔術師から重い雲を晴らし、大笑いをし、なごやかな空気の中で握手を交わす

16 砂漠の娘たちのもと
1. さすらいびと(影)がツァラトゥストラにとどまるよう懇願する。歌

17 覚醒
1. ツァラトゥストラは元気になった客たちを歓ぶ。洞窟の外へ。「この日は終わろうとしている」
2. 「かれらは自分を笑うことを会得しつつある」「かれらは快癒しつつある」
3. しかし洞窟を振り返ると、人々はロバに祈りを捧げ、「ふたたび敬虔」になった。
4. 「あの高人たちのすべて、二人の王、退職した法王、悪い魔術師、進んでなった乞食、自らの影を名乗るさすらい人、老いた預言者、知的良心の所有者、そして最も醜い人間、これらのすべてが、子どものように、また信心深い老婆のように、ひざまずいて、ロバに礼拝と祈りをささげているのだ」
5. ロバは「ヤー 然り」しか言わない=神になぞらえている。

18 驢馬祭り
1. 「姿をもたない神を礼拝するよりは、ロバを礼拝する方が好ましい」「古い神は復活したのだ」
2. 最も醜い人間が古い神を覚醒させた。
3. ロバを崇拝する「遊び」を大目に見る。子どもらしさ、遊戯を認める、一方で大人になるよう告げる
4. 否定していたロバ崇拝を「快活・陽気さ」つまり子どもらしさの開花として見る。

19 酔歌 12節
1. 客たちは外に歩み出る。最も醜いものが口を開く「これが生だったのか。よし、それならもう一度!」
2. 人々は笑い、踊りだす。ツァラトゥストラは鐘の音を聴く(第三部のラストのリフレイン)
3. 「来たれ! 真夜中は近づいた! 今こそでかけよう! 時はきた! 夜の中へでかけよう!」
6. 「世界そのものが熟した、いまそれは幸福のあまり死のうと願っている」
9. しかし悦楽は相続者を欲しない。子供たちを欲しない。悦楽が欲するのは自分自身だ。永遠だ、回帰だ、万物の永遠にわたる自己同一だ
10. 「苦痛はまた一つの悦楽なのだ。呪いはまた一つの祝福なのだ。夜はまた一つの太陽なのだ」

20 徴
1. 朝、ツァラトゥストラの前に獅子が現れる。「わたしの子どもたちは近い」
2. 高人に対する「同情の季節は過ぎた」

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