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『ヘイトフルエイト』感想

 タランティーノ、多分6つめくらい。彼の映画って、ハリウッドとは全然違うけど、「人間」が頑張ったり辛かったりぶっ飛んでたりする姿を見て、スカッとしたい気持ちで見る、というのが彼の映画を見るときのスタンス。「内面」とか「内容」の解釈の必要はなくて、その表層、英語ならsurface=表面にこそ、彼の魅力もメッセージも脈づいてる。そういう映画、ってのがイメージ。だから、エンディングは圧倒的なカタルシス、「うっはー、むっちゃ面白かったーー!」で終わって、肩で風きって映画館を後に出来るわけ。キル・ビルみたいにそこに一欠片の寂しさと人間のカルマを見てもいい。ニンジャスレイヤーなわけだ。
 
 ところが、イングロリアス・バスターズ、ジャンゴの前々作、前作で雲行きが怪しくなった。人種問題がかなり前に出てきて、スパイク・リー監督がジャンゴみねーよ宣言をしたりして……それでもジャンゴは爆発的なカタルシスを感じることが出来た。ヘイトフルエイトはどうだ、いい映画だって言えるのか、とてもそうは思えない。あらすじはどうだ。西部劇、南北戦争の後、賞金稼ぎが雪山の山荘で行き合って、いがみ合い、疑いあい、殺しあって誰も残らない。ほんとにこれだけだ。Hatefulのタイトルの通り、登場人物は一人も愛することが出来ない。全ての殺人が、利己的で暴力的で、享楽的でさえある。

●ジャンゴの影

 表層だし、行動なんだ。人間が悩んで善だの正義だの愛だのあれこれ悩む物語にうんざりしませんか? 何がヒューマニティだ。大義の元に悪をぶっ飛ばしてセックスして悩んでやっぱりぶっ飛ばしてエンドロールだろ。もっと乾いたタランティーノをくれ。それが良かったはずで、キル・ビルを見終えても、いやイングロリアス・バスターズだって、見ても何かを書こうなんて気は起こさなかった。ジャンゴもそれで良かったんだ。イングロリアス・バスターズはナチスの迫害を、ジャンゴは黒人奴隷を扱っているけど、それはむしろファンタジー世界と思って良い。ファンタジーというのはつまり、善悪の価値基準が完璧に判断される世界。魔王は闇で悪、勇者が光で正義。神話の名前を与えられたブルームヒルダを、神の怒りと共にジャンゴが救い出す。(あまりに美化されたイメージ)

 だというのに、『ジャンゴ』のラストシーン、歯科医シュルツが、自分ばかりかジャンゴとブルームヒルダの命を危険にさらし、そこまで積み立てた計画の全てを水泡に帰すことを分かっていながら、たった一度の握手を拒むシーンを見て、僕はヒューマニズムってやつに打たれてうわんうわん泣いていた。ブルーレイで何度もそのシーンを巻き戻して、「僕も撃つ! 僕も撃つぞ!」と騒いでたってわけ。肉体殺しても、魂を滅ぼさないものを恐れることなかれ。だから、『ヘイトフル・エイト』を見に行ったときも、『ジャンゴ』のその瞬間をどこかで期待しながら映画館のドアを開けたところ―そこには醜い血だらけの殺人鬼が醜いニタ笑みをワイドスクリーンに極大のクロースアップで写り、大口径のピストルで僕の頭をスイカみたいに粉砕したってわけ。 

 映画を「解釈」するって方法は基本的に不毛だと思ってるし、特にタランティーノの映画に対しては誰だってその無意味さは分かると思う。繰り返してるように、それは表層でしかないし、そのことが魅力なのだった。でも僕は、あまりにも『ジャンゴ』を引き入れてこの映画を見てしまい、そしてこの映画がまさに僕のような、ジャンゴを見て「おお! ヒューマニズムよ!」と泣いてた僕のようなハッピーな頭を吹き飛ばすような作品に見えてしまっていた。

 ジャンゴと同様、この映画も「駅馬車が黒人を拾う」ところから始まる。けれど、正義は無いし慈悲もない。マーキスの怒りを人種差別による「被害者」のもの、とすれば、それこそが彼への侮蔑になるし、ラストでいい感じに収まるクリスの行動だって結局長いものに巻かれていっただけのクソだ。状況が変わればあいつは真っ先に裏切っただろう。『ジャンゴ』のあの状況に陥ったとき……マーキス以外の7人は間違いなくディカプリオを撃たない。そしてマーキスは、クソ白人奴隷商をぶちころす歓びのためにだけ引き金を引くだろう。将軍を、メキシコ人を殺したとき、マーキスは間違いなく怒りや正当性以上に、殺すことへの快楽を感じていた。「ジャンゴみたいに泣けると思った? 残念! 地獄でした!!」 そうして思い返して見れば、ジャンゴだって地獄でヘイトフルであって、僕が僕の中のセンチメンタリズムで美化したやわやわの幻想を、八人の銃弾で蜂の巣にされたと、まあそういう本当に嫌な映画体験となった。

●美しかったところ探し

 悔し紛れに僕は愛少女ポリアンナよろしく「美しかったところ探し」を開始する。もう敗北は決定づけられたのだから、クソ無意味なクソ解釈をしてクソ映画にこっちもクソをひっかけてやろうという意趣返し。これだけ書いてきたくせに、僕としてはこの作品を「いい映画だった」と言わざるを得ない気持ちがある。むちゃくちゃな悪人たちに、同情の余地なんて全くないのに、素晴らしい瞬間がある。いくつかはあのリンカーンの手紙をめぐるもの。偽物のリンカーンの手紙につばを吐きかけられたときのマーキスの怒りは本物だった。ラストの「白人と黒人がいつかは手をつなぐ」という希望。ルースはその手紙に純真に涙を流し、クリスも微笑む。スミザーズがどうしても銃を取らざるを得なかったところも、あるいはジャンゴのシーンを思い出させる。(そして粉々に砕かれる)

 何より美しく思えたのは、地下から顔を出した弟ジョディが、姉ドメルグと再会を果たしたときの、二人の輝く笑顔だった。もう何人の血にまみれただろう、地獄の溶岩みたいな顔になったドメルグが、スクリーン一杯に浮かべた歓びの笑顔! いくつかのレビューサイトで触れられていたように、この映画は本当に「顔」「表情」の美しさが飛び抜けている。利己的で、憎むべき、ヒューマニズムが全部ぶっ壊れた悪辣な顔、顔。でも、こんなにもHatehul、こんなにも非人間的なくせに、どうして希望の瞬間だけは美しいのか。そうだとしたら、僕たちは、600万人を指先で殺したヒトラーの子供への優しげな笑顔にも美しさを感じてしまうのか? 悪魔の笑顔はすぐに吹き飛ばされて、ドメルグの血の層はまた1つ厚くなる。チラ見せした希望を45口径でぶっとばしていく映画だ。考えて見て下さい、『ジャンゴ』のラストシーンで、シュルツだけでなく、ジャンゴもブルームヒルダも拷問にかけられた挙句頭を吹き飛ばされて死ぬ結末を。そういう映画ですよこれは。でも、タランティーノは(いや、「僕の作り上げた」幻想のヒューマニストとしてのタランティーノ像は)それがどうしても必要だったんだ、とこれが僕の解釈だ。

●蛇足

 解釈を、いやクソ解釈をしようと思うと、モブレーの「法の下の平等」の言葉と、リンカーンの手紙が、最近のスピルバーグの映画『リンカーン』に言及しているようにも思えてくる。
 黒人、白人、メキシコ人、ネイティブ・アメリカン、被害者として描かれながらも、洋品店の女将がメキシコ人を毛嫌いしていたこと。この物語の登場人物は、bad 悪ではなく、確かにHateful 嫌悪の対象のように思える。日本でのヘイト・スピーチをも思い出してしまう。タランティーノの映画は後味が悪いと捉えられるけど、今回の後味の悪さは質が違って感じられる。(それもまた罠に思えるけど)異化作用が現実に逆流してくる。ジャンゴとこの映画のことを考えたとき、僕の大好きな暴走族マンガ、『R-16』の1場面が浮かんでくる。在日コリアンの友人と、単車に描かれた日章旗と暴走族の着る特攻服。そうした人種差別のシンボライズを、『R-16』の主人公は政治でもロジックでも無い地点から打ち破ろうとする。「日本人ー在日コリアン」という差異とシンボルのその闘争の構図じたいをぶん殴るような、差別を描いているようで、「人間が人間を憎む」という感情、行為そのものへと向かっていく。ナウシカのメーヴェは王の墓を目指して飛ぶ……

 『R-16』の姿に『ジャンゴ』を重ねていた。差別を煮詰めて、その向こう側で表れる善と尊厳とヒューマニズム。そう思うと、『ヘイトフル・エイト』は鏡写しのように見える。それは人種差別と結びついているように見えて、しかし差別は表層に引いていき、悪と憎悪と醜さもまたその向こう側でむき出しになっているように見えている。

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