『シン・ゴジラ』感想……というかnaishinokami のシン・ゴジラ論の支援ですよ。

『シン・ゴジラ』新宿のゴジラがいるTOHOシネマズで見てきました。

エンターテインメント性のコントロールがものすごくて、5分どころか1分に一回面白いやら楽しいやらぐっとくるやら、の波が訪れる。前半の疾走感と後半のメロウな転回のリズムも最高、とCDアルバムに例えたくなるような、とにかく観ていて飽きることがない。カタルシスがどばどば出て素晴らしい反面、かなり強制的に「楽しまされてる」というのを感じてしまう。

僕はゴジラ映画を全く見たことが無いんだけど、それらの作品群、特に第一作が「原子力」に対する社会的意味づけを行ったことを大学のとある授業で聞いていました。ウルトラマン、ウルトラセブンを含めて当時の特撮ものにはそうした社会の盛り込みが強いと。この作品もそうした面が確かにあって、ただ科学というよりは「日本政府」や組織、と日本的態度がフォーカスされている。色々と考察が出来そうなんだけど、出来事が非常にスピーディで、ざっと見ただけだと把握出来ない。あらすじでも書きながらゆっくり考えてみようかな、と思った矢先、友人の素晴らしい考察に出会う。

正直、このポストを書いてるのは、ないしの氏の感想がもっと読まれて欲しいな、という思いからなので、もう僕の話はいいからこいつをクリック。クリックですヨ。

ああ、納得だな、と思う大きなポイントは、
1:日本の戦後以来の体制が、だれも決断を行わない、「意志を持った個人を必要としない」ため、「人間=個人を疎外している」こと
2:牧教授=ゴジラ論。
3:日本式「頼み込む」外交の賞揚
という点。

●ないしの感想読んだ? では少し付け足しを●

1の「日本政府・日本社会・日本的態度」とか「個人の欠如」への批判、という指摘は全体を見ると妥当に思えるんだけど、細かい場面で見るとそれを突き抜けている、と思える場面がちらほら。全編を通して、人物の顔のクロース・アップが多用されるときに強くそれを感じてた。防衛大臣が「頼むわよ~」と言い、自衛隊の幕僚長たちが微笑を浮かべながら作戦遂行を誓うシーン、首相が「自衛隊の武器を民間人には向けられない」と攻撃を撤回するシーンなんかにそれを強く思う。

※ところで、浅田次郎の短編(『それでも私は戦争に反対する』収録)で、自衛隊員の立場から「誰がなんと言おうと、俺たちは人類史上例をみない、栄光の戦わざる軍人である」と言うところがあり、そりゃあまあ今から見ればお花畑の世界の左翼の言葉に見えるかもしれないけど、シン・ゴジラの「民間人には向けられない!」のひと言は、単に「そういうものだから」を超えて、後半のテーマになる「自分の好きにする」ことへの萌芽を感じました。

首相の「決断」に対する姿勢もどんどん変化して見える。「首相、決断を」「分かっている。許可する」というやり取りが幾度も繰り返されるのだけど、そのたびクロース・アップで映される首相の表情が、声色が変化しているのが分かる。「好きにする」というのは、微妙なところなんだけど「空気」が作り上げていった決断まがいのものに唯々諾々と従う日本的態度への批判であって、ある種の「覚悟」の中で命令に従うこととは異なっている。

※僕の単なる印象かな? 政府官僚に対してはクロース・アップが多いのに対し、巨災対の人々はそうしたアップが少なかったような。

●牧教授=ゴジラ論

最初のボートのシーンの「なんかおかしいな」と、ラストの凍ったゴジラのカットに人間の顔と手が見えたのが引っかかって、もしかしたら……と思ったのが、ないしの感想に納得させられた。いや野村萬斎のモーションの話はいいから。この解釈は異様に魅力的な反面、ないしの感想がすばらしく描きだしたように、ゴジラの物語を象徴的なものに還元してしまうところもあるように思う。

戦後日本を壊しに来た彼を迎え撃てるのは、組織から浮いた人間たち、巨災対のメンバーだ。組織から浮いたと言っても、彼らは彼らで自分の占める位置にふさわしいことをやるだけだ。その意味では、前半部にコメディ調に描かれた官邸の人々と何ら変わることはない。ただひとつ違うのは「好きにした」かどうか。組織の論理、戦後日本の歩んできた道。そういったものから彼らは主体性を回復したのだ。 (ないしの感想より)

強い論理だと納得させられるし、上で書いた首相の「決断」の変化とも関連するところ。脚本と全体の流れを思い返すと確かに、とうなずくのだけど、一方で「描き方」を思い出すとこの論は強すぎるようにも思える。各所に挟まれたユーモアや、上でも書いたクロースアップ多用のユーモアは、単にこうした「テーマ」を覆い隠すためにあるのではなく、その表現自体がこうした社会的な読まれ方をする解釈、それ自体から離れようとする意図を感じた。だから「在来線爆弾」の場面については、ないしの氏が言うような「戦後日本の賛歌」としてだけ捉えるべきではないと思う。

※これも関係ないんだけど、牧=ゴジラ論で行くと、一度上陸し立ち上がって停止してまた戻った、あの行動にも何か意味づけできそうだよなぁ、と。

戦後日本人のすべてが彼に対する加害者であり、また、彼の被害者だ。われわれには、戦後日本を壊しに来た彼を受け止める義務がある。今回のゴジラは忘却することでは解決できない。日本のすべてをかけて、その中枢で鎮め、見守り、受け止め続けなければならない。(ないしの感想)

さっきの「テーマ」の話ともつながるのだけど、ここに「今回のゴジラ」とあるように、これを読み込むためにはそれだけ「ゴジラ」を見た歴史の蓄積が必要じゃないかと思う。ゴジラ映画をほとんど初めて観た僕にとっては、この「本質的なテーマ」と「それをマイルドに覆い隠すエンターテインメント」みたいな二項対立(ないしの感想はそうは言ってない。念の為)の図式は受け入れられない。さくっと忘却してしまえる楽しくエキサイティングなゴジラ体験なのだろう。一方で、ゴジラを好きで見続けてきた人ほど「忘却することでは解決できない」という重みを感じるのかもしれない、とも推測できる。それは当然、蓄積すべきという話ではなく、どちらにも素晴らしく開かれている、ということだとも思う。

ゴジラが次第に美しくなっていくのが好きだった。最初の醜い姿から、立ち上がり、光を放ち始め、そして息を呑んだのがラスト、澄んだ音と共に銀色に凍り付いた姿。また復活すればいつでも核で焼き払われる東京、その「刃の上」を渡るような感覚が、僕にとって一番印象に残ったテーマだった。

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34歳の小説家・翻訳家・ライター見習い。東京大学教養学部卒(文化人類学・副 表象文化論)高卒後、音楽、執筆、NGOを経て大学へ。作家を目標に、けれど興味はあちこちふらふら。批評とライターも修行しつつ、勉強意欲もまだまだ。児童文学・詩・舞台・芸術全般に興味あり。アニメ・ゲームも。
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