ニーチェ『道徳の系譜学』読書ノート

※僕が理解した範囲・重要に思えた部分のメモなので、全体を網羅したものにはなっていません。参考程度に読んでいただければ幸いです。
※おおよそ書籍の内容に沿った要約ですが、個人的な補足やメモ、考察を含みます。これらは大抵 ※米印 がついてます。

1 自己認識という難問
1. 私たちは私たち自身にとって未知な存在である…自分については「認識者」ではない

2 認識の樹
1. 1876-1877 以前に書かれた思想の洗練。『人間的な、あまりに人間的な』の延長
2. 「道徳的な偏見の起源」を表す 当時と通じるところを持ち続けている

3 アプリオリな問い
1. 道徳への疑念…神学的な偏見を道徳的な偏見から切り離す
2. 「人間はどのような条件のもとで、善いとか悪いとかの価値判断を下すことを考えだしたのだろうか」

4 道徳の系譜学の前史
1. パウル・レー『道徳的な感情の起源』これを否定する形で思想が練り上げられていった。
2. 『人間的な、あまりに人間的な』の記述の補足。

5 同情の哲学
1. レーの道徳の起源よりも、「道徳の価値」の問題に着目。ショーペンハウアーとの対峙
2. ショーペンハウアーは「自己犠牲」「同情」「自己否定」ペシミズム的なものを賞賛、これにニーチェは対立
3. 「同情」に価値づけするのは、プラトン、スピノザ、ラ・ロシュフーコー、カント

6 道徳の危険性
1. 「毒物としての道徳」…ほか、道徳という本質的と考えられていたものを相対的に、道具的に見る事
2. 道徳の進歩―善良さや安全の伸長、善いとされるものがむしろ抑圧しているものについて考える

7 道徳の歴史の重要性
1. ここで「道徳の歴史」「道徳の系譜学者」の語。フーコーに至る、価値観を歴史的シフトで見る方法へ
2. すぐにダーウィンの語が出てくるのもポイントか。
3. ※フーコーが着目したのは、エピステーメー=一種パラダイム的に、観点・価値の変化が徐々にではなく急速に・断絶する形で行われ、過去が忘却される…というモデルと思うが、ニーチェの道徳に関しての議論もそう?

8 読解の修練
1. アフォリズムについて…理解ではなく体験。「暗号解読」と述べている
2. ※この理解でなく体験、という観点は例えばアポローディオニュソスあるいはソクラテスベースの知と関わりそう

第一論文 「善と悪」と「良いと悪い」

1 イギリスの心理学的な道徳研究の功績
1. 道徳の発生の歴史→イギリスの心理学者の研究が端緒
2. ざっくり言うと機能主義的な観点→教育的観点からの研究という話か

2 良いと悪いという概念の起源
1. イギリス心理学では「有用性」「忘却」「習慣」「錯覚」が価値評価の基礎になる
2. 「良い」の判断を行為を受けた側から判断している → ニーチェは行為した側から判断すべきと主張
3. おおよそこれまでの主張。起源を探してるようで、現在の道徳、例えば「利己心」の価値観を脱却できていない

3 有用性の仮説
1. ここでの「良い」「悪い」はまず有用性そのものとして取るべき → 道徳の善悪とは別にすべき

4 良いと悪いという語の語源
1. 悪い シュレヒト と 素朴 シュリヒト の語源が同じとか…ここは眉唾的に聞いておく
2. 「率直」などの語に悪い意味で使われるよう変質してきたという話。言語の意味の変遷。

5 戦士としての良き者
1. アーリア=サンスクリットで「高貴な」
2. 貴族性を経済・権力的なものよりは精神的なところから見る
3. ドイツ民族やケルト人ほか人種・民族的な話。またそれぞれの「良い」の語源を見ていく。推測多め

6 司牧者階級における危険な転換
1. 政治的優位が→精神的優位の概念に代わっていく。ここで良い-悪いの概念が階級・政治に基づき策定されていく
2. 宗教者が道徳を利用すること。禁欲主義。キリスト教だけでなくバラモンも挙げられる
3. 宗教者にとって、あらゆるものを「危険」としそこに近づかないようにする。構造的にこのプロセスが進む

7 ユダヤ人による価値転換
1. ここでは騎士の価値と宗教的価値が対立する。肉体・健康・戦争・自由・快活・・・・に反するもの。
2. ここでユダヤ人は虐げられていたため→肉体・社会的ではなく精神的な復讐を行った
3. 貴族的な価値の方程式を180度転換させる。「貧しきもの、無力なもの、病める者、醜きもの」が善きものへ
4. ここでかなり強力にキリスト教が前景化する。
5. ※慌てて一つ付け加えれば、ここで「ニーチェ主義」的に価値を再転換しようとしても反対側の批判がブーメラン的に襲い掛かってくるということ。二項対立的に捉えることそれ自体への疑問を抱きたい

8 イエスという道具
1. 重要項目。ユダヤの復習と憎悪を苗床にして、キリスト教の「愛」が育っていった
2. イエスの犠牲は「大いなる復讐政策の秘密の黒魔術」
3. 「十字架についた神という戦慄すべき逆説」
4. ※一種キリスト、特に福音書を「システム」「政治」として読むと非常に功名だよね、という話。機能主義的に見ても面白い。言うならばそれは現代的というか、シナリオが描かれていた、心理学・社会学的インパクトが計算されかのように見える、という点。

9 教会の役割
1. 教会の役割が現在ではむしろ転倒しているのでは、という話。つまり教会が仮想敵的に働くことで、むしろ「自由思想家」が生まれてしまい、キリスト教的な道徳がさらに先に進むのを結果的に遅らせているという話。一種「敵がいるほど運動が盛り上がる」話ともかかわりそう。

10 ルサンチマンの人間の特性
1. 重要概念ルサンチマン(怨恨の念)=行動で反抗できないとき想像の復習で埋め合わせをすること
2. ルサンチマンとは受動的な反応である。
3. ギリシャ人が奴隷等を「憐み」の視線で語ったということ
4. 高貴な人間にとっては善悪概念は不要で「良い」ものの指標だけがあればよい
5. ※連想するのは、ブルデューのディスタンクシオン。象徴闘争の外側に出てしまった人物にとっては、趣味の良しあしは意味がない。自足的なものとなり、他者とそれを競う(つまり善悪を争う)必要が生じない。誰が何を好もうが自身の趣味(ここでいう「強さ」)に影響を与えない

11 高貴な種族と凡庸な種族
1. 高貴なものは「良い」ものから価値を策定する。ルサンチマンは「悪い」ものから策定する。
2. 「日本の貴族」の語。どれほどの知識があったのか…
3. 現在の真理=文化は人間を従順に飼いならす道具である。奴隷による抑圧。

12 人間に倦むこと
1. ニーチェにとってのニヒリズムは、「人間に倦む」状態、という点でショーペンハウアーとは異なる。ショーペンハウアーの場合はそもそも世界の価値の喪失によって世界を呪っているが、ニーチェはその逆に、人々が道徳的になり矮小なものになりその状況が必然的であることに嘆いている。
2. 窮乏・欠乏・悪天候・病身・疲労・孤独…といった生老病死的な生の苦しみは耐えられる(戦える)ものであり人間に属するが、これらを克服というよりも隠し、苦の状態そのものを無くそうとする状況を批判する

13 弱き者の自己欺瞞
1. 「ある量の力とは、ある量の欲動、意欲、作用である─むしろ力とはこの欲動、意欲、作用そのものなのである」
2. 抑圧・暴力を受けた側が、その暴力を「悪」とみなすストラテジー。
3. ※一種日本文化における「諦念」概念のようなものを感じる。平安文学にそれを見出せるか

14 理想の製造工場の魔術
1. 前項の継続・言い換え。暴力を受ける側は、暴力で返すことが出来ないため、暴力そのものを悪とする、というロジック。『これがニーチェだ』で見た「すっぱい葡萄」の話に対応。
2. ※この辺りの話、例えばイスラム教に移し替えるとどのように見えるのか? 推測としては、イスラムも同様
3. ※「人はもっとも愛している犬をたたく」ヨブ記…は複雑すぎるとしても、イサクの話とかは非常に解釈しやすい。ただしこれは、イスラムにも共通するが、「神は最も愛するものを近くに置く」(ので子どもが死ぬことは幸福)というロジック。オウム真理教の信徒もむしろ「最大の受難」と捉えることは可能というか、それこそが宗教というものではないか。それはキリストに似ていないか?
4. ※ハイペリオンを思い出すと、まさにあれはイサク-アブラハムの「犠牲」の世界を抜け出すための物語だった。そしてそれは残酷さ、ニーチェが言うところの高貴な世界から脱け出そうとするベクトルにも思える
5. キリスト教を戯画的に扱い強烈に皮肉を投げる。
6. ※ところで金枝篇は1890年。タイラーの原始文化は1866年頃。この二冊がキリスト教的なものを完全に相対化というか、一種前近代的世界の呪術等と比較しうるものと示した点、そことの比較は面白い。ニーチェは読んでなさそうだが…とはいえアポロ-ディオニュソス対比とかは実際フレイザーと重なるところでもある

15 天国と地獄
1. ダンテ…地獄を作ったのは永遠の愛 → 天国を作ったのは永遠の憎悪である、と書くべきだった
2. 後半、レトリック的。地獄のイメージ…特に審判の日に異教の民が焼かれることの「歓び」の予感、その残酷さ

16 ローマとユダヤの闘い
1. 善悪の闘いの象徴としてのローマとユダヤ(ニーチェの言う高貴さ⇔キリスト教)
2. ヨハネの黙示録は「これまで書かれたすべての文書のうちで、疚やましさから生まれるきわめて強い復讐心を爆発させたもっとも殺伐とした書物なのである」
3. ユダヤはキリスト教によって勝利した。フランス革命でもまたこの繰り返しが起こる=民衆の勝利。ただし、ニーチェはナポレオンを「古代の理想そのものが肉体をおびて登場」したと位置付ける。

17 これからの問題
懸賞論文のテーマ 言語学、生理学、文化人類学等 → 生理学からの批判が必要と考える

第二論文 「罪」「疚しい良心」およびこれに関連したそのほかの問題

1 約束する動物
1. 「忘れる」ということが重要な能力であるという話。後々に続きそうな話。
2. ここでは単に、忘れることが「積極的な抑止能力」であるということ
3. 人間を「必然と偶然とを計算可能にする」こと → 忘れるべきものを計算できる

2 責任と良心
1. ここでの約束とは強い意志の現れ。高貴さに属するもの。自己との約束。ハイデガー的な印象。
2. 「運命に抗してでも自分の一言を守り抜くことが出来る人間」 「誓い」という語の方が近そう
3. ここから「責任」が生まれてくる

3 記憶と刑罰
1. 「「記憶に残るようにするためにはそれを焼きつけるしかない。苦痛を与え続けるものだけが、記憶に残るのだ」
2. 恐怖と痛み…初子の犠牲、去勢、残酷な儀礼…苦痛が記憶を助ける(つまり伝統を継続させる)
3. 「禁欲」もまたそうした痛み・恐怖の別の現れ方。
4. やっぱりドイツ人でまじめで「役人」ってイメージなんですね… ※ヨーロッパの中の日本人的なイメージ
5. こうなるためには、ドイツ人には残酷な刑罰で抑制する必要があった、というロジック。そこには抑圧がある

4 刑罰と債務
1. 「これまでの道徳の系譜学者」は全然ダメ!
2. 負い目 シュルト 負債 シュルデン とか語源の話。語→概念がいつ発生したか
3. 罪に対する罰は → 被害者の「怒り」による
4. ※『文化としての法』みたいな法人類学、法の歴史とかの話という気はする。簡単に語るのは危険そう

5 債務と抵当
1. 続き。債務関係と「約束」概念は関係してる。これが「苦痛・残酷」を生み、記憶=伝統の強制力を生む
2. 経済的な債務関係 →おそらくこの後でキリスト教の話につながっていく
3. ローマの債務関係→肉を切り取る。エジプトの死後の債務関係
4. ざっくり言えば→カネを返すか、返せないときは罰=苦痛で払わせられるという話(本当に?)
5. ※ヴェニスの商人も思い出すところ

6 処罰と祝祭
1. こうした「負い目」「義務」といった血なまぐさい世界が道徳の発症であるということ
2. 罪を苦悩が賠償するのは、その債務者の苦悩を債権者は快楽として得られるため。祝祭的。
3. 「古代の人々にとって残酷さというものが、どれほどまでに祝祭の大きな喜びとなっていただろうか、人々のほとんどすべての喜びの一部として、どれほどこの残酷さが混じっていただろうか」
4. ※直接的にこの解釈をしてよいか、と言えばもっとバリエーションがあるよね、というのが例えば『金枝篇』に対しての批判なのでニーチェにも同様のことは言える。一方で確かに「残酷さ」を一種見世物にするような祝祭は色々見つけられそう。対人間ならウィッカーマンとかパルマコンとかがあるし(本当にあった?)対動物ならもっと挙げられそう。日本を見たら当然ハラキリやさらし首を入れるだろう。
5. 死刑、拷問、異端者の処刑
6. 「他人が苦悩するのをみるのは楽しいことである。他人に苦悩を与えるのはさらに楽しいことである。―これは過酷な命題だ。しかし古く、力強く、人間的なあまりに人間的な根本命題なのだ…そして処罰には同じように祝祭的なものがみられるのだ!」
7. ※これまでに考えてきたことの集大成っぽい言明であり、ネット上での中傷や炎上の問題と関わりそう。あるいはいじめ問題でも構わない。エクストリームな話だが、実はいじめなり中傷なりを「他人が楽しまない」場合、つまり見世物的でなかったとしたら、これらの問題は限定的ではないのか。つまり鑑賞者に相当のウエイトがあるのではないか、とも言いたくなりそう。ここでは道徳心(ここでいう「処罰」)がむしろ事態を悪化させている

7 苦悩の意味
1. いわゆるペシミスト(ショーペンハウアー意識か)の「苦悩」とは違うよ、という言明
2. 「おそらく当時においては──優男のための慰めの言葉として語っておくと──苦痛は現在ほどに辛いものではなかったのだ」
3. ※苦痛の表象の話としては、医学人類学とか持ち出すと、痛み・苦しみといった感覚も一種文化的な影響を受ける的な話があるが…とはいえ、という話でもある。
4. 「苦悩に憤慨するのは、苦悩そのものでなく苦悩が意味のないことに腹を立てる」
5. 旧約の神、ギリシャの神も残酷さを備えている。人々の戦乱という祝祭。

8 価値を評価する動物
1. 原始経済学みたいな話。交換-価値づけ、という経済学領域と、債務-再建を通して道徳に至る

9 社会契約への違反
1. 債務-債権、担保、抵当という概念を元にした、ニーチェ流の社会契約論。人は自己を抵当として共同体に入る
2. ※表面的には新しいこと言ってる感はあるが、ロックとホッブズ辺りとそんな変わらない話にも思える

10 刑法の発展
1. 最初、逸脱者は「カネを返さない債務者」として排除される。=悪人
2. しかし、共同体が強くなってくるとむしろ悪人が弁護・保護されるようになる
3. 倒錯っぽい話…債権者が逸脱者に「どこまで耐えられるかがその富の大きさの尺度となる」
4. ※ここは結構面白いところ。一つは拘禁刑なり死刑なりつまり刑罰の「意味」を考えるところ。なぜ刑罰を与えるのか? そこに何を期待しているのか? を考えると本当に分からなくなっていく。おおよそ、①恐怖による抑止力―10年間自由を奪われることの恐怖を与える ②報復…死刑が極限。これもまた恐怖とも関連するが、より客体=社会の側の納得関わる。だが「むち打ち」と「三か月拘留」のどちらが本当に残酷なのか? ③更生―10年の拘禁の間に精神が変化するという。だがこれを突き詰めていくならマインドコントロールと薬物で1日で更生が可能という実験結果が出たら刑罰は不要になるのか?

11 法と正義
1. 「正義の起源がルサンチマンにある」という意見が別にある(デューリングなど)
2. 攻撃的・侵略的な人間ほど正義に近い場所にいる。より強くより勇敢で高貴なもの
3. 「正義が行われ、正義が保たれているところでは…より強い力が…弱き者にたいして…ルサンチマンが荒れ狂うのをやめさせるための手段を探している…たとえば復讐の手からルサンチマンの対象を奪い去ったり、あるいは復讐させるのではなく、平和と秩序を乱す者と闘わせるのである」
4. ※どうも日本について語っているかのような文章。例えば自警や自粛、あるいはいじめが横行していることは、全体的な平和・秩序が保たれていることとのトレードオフ。(だが、本当に?)
5. デューリングは行為に正-不正を求めるが、ニーチェは法の制定が事後的に正義を定めるとする
6. ニーチェは生を「本質的に傷つけるもの・暴力・搾取・破壊」と位置付ける。ここにおいて法は例外状態、つまり生を部分的に制限するもの、とみなすことが出来る。
7. ※マジレスすれば、取り方が二項対立的・恣意的すぎると批判できそう。生の定義は相当疑わしいというか、恣意的な解釈に思える。

12 刑罰の起源と目的
1. 刑罰の起源と刑罰の目的の話はまったく別の話。(目的論=機能主義になるのでみんな見誤る)
2. 「あるものが発生する原因は何かという問題と、その原因が後の段階でどのような効用があり、実際にどのように利用され、目的の体系にどのように組み込まれるかという問題は、天と地ほどに違う性質の問題だということである」 機能主義への強烈な一撃。そうしたものは後付けの解釈であり、そこに従って修正・調整されたもの。
3. 民主主義とは「支配嫌悪主義」であり、上から支配するものすべてを否定する
4. スペンサーへの言及

13 刑罰の意味と分類
1. まず最初に、処罰に「手続き」が先立っていること。※儀礼的って言い換えられそう
2. 刑罰の「意味」はかつては単純だったが、次第に複雑・複合的なものとなり次第に定義できないものとなる
3. 刑罰の意味の例
 1. 将来における被害の抑止・犯罪の発生の防止
 2. 被害者に賠償を与えるための刑罰(感情的代償でもよい) →罰金が代表的か
 3. 社会的混乱の拡大を防ぐため、攪乱者を隔離する →政治犯やカルト教団の主導者を拘留し影響力を抑える
 4. 執行者に対する恐怖の感情を注ぎ込むための刑罰
 5. 犯罪者が享受した利益とのバランスを取る →例として「犯罪者を鉱山で働かせる」 →代償に近いか
 6. 退廃した分子の排除
 7. 祝祭としての刑罰
 8. 記憶・矯正のための刑罰
 9. 謝礼としての刑罰…復讐から加害者を保護していること
 10. 復讐の妥協としての刑罰。「強い種族が復讐に固執し、復讐することを特権として要求している」
 11. 共同体の敵・危険分子に対しての攻撃としての刑罰
4. もうちょっとまとめられそう。 ①抑止・危険回避 ②恐怖による間接的抑止 ③贖い ④更正 ⑤祝祭
5. 特徴的なのはやはり10「復讐の妥協」か。死刑はここから見ることもできる。

14 刑罰と負い目の感情
1. 前節の話はおおよそ「効用」から見たもの。
2. 複合的になったが、刑罰の信念の一つに…良心を呼び起こす、というおのがある。
3. 実際は刑罰は人を追い詰め疎外感を強め抵抗力を強くし冷酷に、つまり逆方向に働く
4. かつては裁判官たちは「罪のあるもの」としてでなく、犯罪者を「不運な一個人」として考えた
5. ※ちょっとずれる? が「意志」の意味の重さの話と関連しそうなところ

15 刑罰の効果
1. スピノザ「私に良心の呵責は残っているか?」「両親の呵責とは歓喜の反対、期待に反する結果の過去の悲哀」
2. 犯罪者は、罪に対し「すべきでなかった」ではなく、「まずいことになった」と考える。事故や病気と同じ

16 疚しい良心の起源
1. もともと良心があったのでなく…道徳心・平和・社会による抑制 → 本能の抑圧 のプロセスの中で生まれたもの
2. 抑圧された自由の本能(暴力的なもの)が内面化し → 「魂」と呼ばれるようになった。
3. 外部的なものへの攻撃心・暴力本能を自分に向けるようにしたものが「良心」である
4. 結果、人間は自分自身に、人間が人間であることに苦しむようになった

17 疚しい良心の起源再論
1. 「国家が「契約」によって始まったなどという夢想は、すでに終わっているとわたしは思う」
2. 最初は暴力によって形成され、すぐに内面的なもの、良心によって服従させるように仕向けたという流れ

18 非利己的なものの起源
1. 芸術家もまた「苦悩する自己という素材に一つの形式を与えようとする会館」で仕事をする
2. ここから「おそらく初めて美そのものを生み出したのである」
3. ここでは美を美⇔醜の対立概念で捉えようとしている
4. 「自己を否定する」ところに快楽が、ねじれた暴力的な快楽が存在するということ

19 負い目の起源
1. 「原始的な種族社会の内部では──太古の時代のことだが──、生存している世代はつねに前の世代に、とくにごく初期の、種族の基礎を築いた世代にたいして、ある法的な義務を感じるものである」
2. ※この地点によれば、例えば戦後世代に対して現在世代は義務を感じる。しかしそうではない部分(例えば環境問題)が明るみにでれば、関係は逆転し、むしろ未来が過去に債権を求める。このようにヨナス的な「責任」論を債務-債権関係で捉えるのは面白いところ。未来も現在もどちらも完全な債務者にも債権者にもならない
3. 祖先=債権者の力は年代を重ねるたびにどんどん強くなり、儀礼や服従への支払いはどんどん強力になり、最終的にその恐怖から神に姿を変える。というロジック。

20 キリスト教と負い目の感情
1. いよいよ本筋、という感じ。
2. 「これまでに登場した神のうちでも最高の神であるキリスト教の神が登場したために、地上において最高度の〈負い目〉の感情が生まれることになった」
3. 「無神論が広まっていれば負い目の感情から解放されるかもしれないのである」 ※甘い見通しでしたね、と言わざるを得ない。現代、それこそ万人が万人に対して負い目の闘争を行っているように見える

21 キリスト教の神と人類の負債
1. 上に述べたことがそのまま。キリスト教信仰は弱まったが、道徳心の内面化は残って負い目を再生産する
2. 「贖罪の不可能性」→原罪があるかぎり無限に負債を返し続ける必要がある
3. ここでキリストの犠牲がある → 贖罪 = 神が負い目を払い戻した=罪という借金をチャラにした

22 神と疚しい良心
1. 「この深淵をあまり長い間のぞき込むのはどうしても禁じなければならない」ここでの「深淵」とは、これまで述べられてきたもの、人間が神に対して無限の債務を持っているとして、それを支払うために自分自身を拷問にかけるという解釈。より恣意的に解釈するなら、ここでの「深淵」は自分自身に属するもの。
2. ※これでも、この語がクトゥルフ的な「狂気」みたいな解釈をされてることを考えると実は全然違くて面白い。むしろこの深淵をとっつ構えて解放すれば、パリピ的な、ウェーイ的な存在に(表面的には)なるのではないか。

23 キリスト教の神とギリシアの神
1. ギリシャの「高貴な」神は、キリストと正反対に「疚しい良心」を遠ざけるために利用している
2. キリスト教の神は罰を引き受けたが、ギリシャの神は罪を引き受けた、という解釈

24 未来の人間の到来
1. まとめ。良心と対決しよう。穏やかさ、協調、善き人々と対立しよう。
2. 大いなる健康さを得よう…戦争、勝利、征服、危険、苦痛、崇高な悪意。
3. 反キリスト者、反ニヒリスト、神と虚無を克服する者…
4. ※ここで言われる「反キリスト」が、イメ―ジされる悪ではなく、「反-キリスト教によって保たれ再生産される道徳心による抑圧」であることは明確。
5. ※例えばセックスピストルズが「俺はアンチ・キリストだ」とうたうとき。(直後に俺はアナーキストだ、と続くのに爆笑しそうだが)

25 ツァラトゥストラへ

第三論文 禁欲の理想の意味するもの

1 禁欲という理想の意味
1. 宗教者にとって禁欲は「権力をふるう最高の手段で、権力掌握を赦す思考の是認」
2. ①人間は一つの目標を意志する存在 ②何も意欲しないよりは虚無を意欲する

2 貞節と官能 ヴァーグナーの場合
1. ワグナーの『ルターの婚礼』は貞節の賞賛であり、官能の賛美でもあった。これは矛盾しない
2. 「不幸な豚どもが貞節を崇拝するような状況」が訪れ二つは分離対立した

3 晩年のヴァーグナーの変節
1. 晩年のパルジファル=キリスト教的なものへの批判。「自らの否認・抹殺」と捉える
2. 晩年の著作にはキリスト教への改宗の願いが垣間見えている

4 芸術家の過ち
1. 「芸術家とその作品は切り離して考えるべき」
2. 芸術家自身にとっても自身の「リアル」な部分と断絶していた方が良いという話。とにかくパルジファルが嫌い

5 ヴァーグナーの変貌
1. ワグナーがショーペンハウアー哲学へと「転向」したこと。ただ芸術家にはそういう防御システムが常に必要
2. ともあれ、芸術家個人の思想は忘れるべき →作品と切り離そうぜ、の話か

6 ショーペンハウアーと美の効用
1. カントは芸術家側ではなく、美学を鑑賞者側から考察(共同の認識・普遍的に妥当する美)
2. 自己の経験・関心を関わらせずに美を定義する美学者たちを批判 → スタンダールの反対の定義
3. ショーペンハウアーは一種「芸術の昇華で性的欲望を抑える」といった効用を主張。
4. ショーペンハウアーはカント美学てゃ関わらないのではないか?

7 哲学者と禁欲的な理想
1. 彼の「敵たち」が彼(ショーペンハウアー)をこの世に引き留めたのだし、生存へと誘惑したのである
2. ※坂口安吾の太宰に対する言葉を思い出すところ。
3. 「哲学者は官能に憤慨している」
4. 哲学者は「自由に=自分の力が最大限に発揮できる条件を求める」ので結婚したくないし子供も欲しくない
5. 「自由を妨げるすべてのものを否定し、どこかの荒野に向かって旅立つ者」を賞賛する

8 美と官能性
1. 禁欲的になるのは…哲学者が自分が静穏な世界で省察していたいから。自身の欲望の産物
2. 聖人的・隠遁者的な、社会から離れた場所にいるような哲学者象への攻撃
3. 感情的で理性を乱すような要素を哲学者は恐れるという話。
4. ※ここでいう話と別に、相手の「メタに立つ」という営みを行うために、他社よりもより客観的になるという帰結がニーチェのいう「禁欲的」な立ち位置に導くのでは?

9 哲学というヒュブリス
1. ヒュブリス=傲慢。哲学者の禁欲によって自然的であろうとするような姿勢は傲慢である。
2. 「因果律」ここでは科学も、真理も…客観的真実であろうとする姿勢に実は主観的な目的が潜む
3. 「結婚」はかつて共同体の法への侵犯と見られていた(初夜権)
4. 「苦悩は徳、残酷さも徳、偽装も徳、復讐も徳、理性を否定することも徳。反対に幸福や知識欲や平和は危険」
5. ※後の相対主義批判につながるようなところだが、ただし幼稚というかシンプル過ぎる地点は批判できない。ただしボアズの言うような「反-反相対主義」のような議論があったとき、ニーチェなら結局その根拠を疑うだろう。
6. ※しかしニーチェは「以前はこうだった」と言い、「今道徳とされているものが絶対的なものではない」と言っているが、それがすなわち「以前の価値の方が正しい」ことにはつながらない。それを踏まえて今我々は何を徳として選び取るのか、どのように選び取れるのか。そもそも正しく選び取ることが可能なのか、という問い。

10 哲学者の前身
1. 「観想的」な人間、ここまで語ってきた哲学者象に一番合いそうな一語。バラモンとの比較。
2. 哲学者は自分に対し「畏怖」を抱いてほしかった。まさに宗教家と同じ構図。苦行を経て超越化する
3. 哲学者は「この世を否定し、生に敵対的であり、官能を信用せず否定した超然的な態度をとること」
4. ※非常に卑俗な意味でだが、例えばネットやメディアで「激怒する」思想家が今どのように見られているか、感じられているか、を考えると、このニーチェの話がもっと構造的なものであるような気がしてくる。感情をあらわにすることが「愚か」に見えてしまうことはなぜか? 戦闘的であること、軽蔑的であること。ニーチェならばそれこそが道徳による構造と批判するだろうが、それだけだろうか? 何かより心理学的な構造があるようにも思える
5. ※一方で、この宗教者の立ち位置と哲学者の在り方が似ている、という指摘には分かるところがある。例えばケストナーがかつての文学者は「サイン会などしなかった」「読者と打ち解けて会話などしなかった」と語るとき、その魔術性は肯定的に語られるが、果たしてそれは単純に肯定だけで語ってよいものか?

11 禁欲的な司牧者と生の評価
1. 禁欲は無償のものではなく、哲学者自身に「利益」を与える。
2. 「すなわち地球はそもそも禁欲的な星なのだと」単にキリスト教にとどまらず、様々な文化がこうした「禁欲性」の構造を持っていることを示唆。例えばインド。
3. 「この生に敵対的な種族がつねに成長し、繁栄するということの背景には、最高度の必然性というものがあるに違いない」
4. 逆説。分裂を望む分裂。苦悩を喜ぶというねじれ。それを根源的に求めている構図があること

12 ありえない目
1. この禁欲主義の元で生まれる哲学 → 肉体・生に関するものを軽視する。実在性を否定する。
2. ※この辺り、ニーチェが「実存主義」と語られるゆえんか。新しく「実存」を高めているというよりは、「本質」と呼ばれてきたものが、禁欲主義=生を軽視する世界観の下で生まれたそもそも相対的なものであると引き下ろしているようなイメージ。
3. 「客観性」を「利害関係なき直観」と理解してはならない(カントの話か)
4. ニーチェは「客観性」を否定しているわけではない。現在「本質」とされているものが実際はそれを装った欺瞞的なもので、一つの主観=目的的なものに過ぎないという話をしてる。

13 病める動物
1. 禁欲的な本能はむしろ人間の生を保存するための機能的なものと説明
2. ※この方向性は結構論理破綻しそうで危ない気がするが…
3. 「もっと別の存在でありたい」「もっと別の場所に存在したい」という願望 → 極まって禁欲主義へ
4. タナトスみたいな話? 生への否定がむしろ生への強い肯定を生み出す

14 悪しき空気
1. 人間に対する「吐き気」と「同情」が二つ番うと、人間の「最後の意志」「虚無への意志」ニヒリズムが生まれる
2. ヨーロッパでこれが進行してる。それはまず弱者、病者からやってくる。「自己への軽蔑」があるから
3. ※ここでの「病者」は「弱者」―社会的にも身体的にも、あるいはマイノリティや実際の病人のどれもが含まれてる意味で語っているように思う。この地点でいえばニーチェの言葉は現在に照らせば倫理的に明らかにアウトである。もちろんアウトの有り様が異なる、と擁護できるし、ニーチェ自身であればむしろそれをアウトとする道徳自体を批判しただろうが。
4. ※フェミニスト、マイノリティのアイデンティティポリティクスなどはニーチェにとっては最も批判するべきものと映るだろう
5. 「彼らは道徳的なオナニストであり、自分で自分を慰める輩なのだ」
6. ※このニーチェの議論に反論するには二つの方法を思いつく。一つはより現実的な出来事、統計や心理学などから彼の言葉を検証するということ。もう一つはより哲学的に、というか構造主義的に、むしろその強者―弱者の差異での構造が文化・文明を構築している、という構造を見出すということ。
7. ※僕にとってはニーチェのこの議論は、そもそもがこうした人道主義的なものへのカウンターとして構築された議論のように見える。あるいはこの弱者-強者という切り分け自体が恣意的に行われている…フーコーの病者の理論はそうしたものだろう。

15 司牧者の技術
1. 司牧者…自ら禁欲を内面化しながら、信徒を支配する(無自覚な)権力装置、みたいな理解か。
2. ※これ、例えば日本の「自粛警察」のようなものが「日本特有」と語ったとして、ニーチェならば「それはヨーロッパの司牧者とまさに同じ欲望」と答えるかもしれない。
3. 「司牧者は家畜の群れを守ってやらねばならない―しかし誰から守るのか? 健康な者たちからであることは間違いない」
4. 「苦悩する者は誰もが本能的に、自分の苦悩の原因を探し求めるものだ」
5. 「その原因は……すなわち情動によって苦痛を麻痺させようとする欲求のうちにある」
6. ※この辺りが、ニーチェがかなり文化人類学、特に災因論や因果の過剰といったアザンデ人問題、レヴィ=ストロースの話に通じてくるところ。苦悩や犠牲に意味を与えられるのは超越的なものでしかありえない。そしてこの点から(やろうと思えば)ニーチェを突き崩すことが出来るだろう。
7. 「わたしは苦しんでいる。そしてそれは誰かのせいでなければならないはずだ」
8. ※そのまま、虚無への供物や東の悪の愚かさに通じてくるところ。
9. 「私は苦しんでいる。誰のせいか?」 → 原始宗教「それは悪霊・精霊・神…超越的存在のせいだ」
10. 「私は苦しんでいる。誰のせいか?」 → キリスト教「それはお前自身のせいだが、神がそれを贖ってくれた」
11. 「私は苦しんでいる。誰のせいか?」 → 現代「たまたまです」
12. 「私は苦しんでいる。誰のせいか?」 → 近未来「遺伝子と自己規律」

16 ルサンチマンの方向の逆転
1. ルサンチマンを外側→内側に向かせるのがキリスト教の戦略。これによって自己規律・禁欲に向かわせる
2. 前提:人間の「罪深さ」「魂の苦しみ」等は本来は存在しない、構築されたものだということ

17 宗教の起源
1. 精神的な抑圧、苦しみを慰めやわらげる機能としてのキリスト教
2. 原因の一つは異質な民族・身分の混濁―ペシミズム等もこの混濁が原因である、という社会学的主張
3. なるべく意欲も願望も抱かないようにする。情動を低く。
4. こうした状態を「睡眠状態」…冬眠のようなものと表現 → フーコーの「眠り」に関連する
5. インド哲学・仏教の悟りについて。基本は宗教=精神安定剤・睡眠薬という構図。またエピクロス的な催眠状態

18 禁欲的な司牧者の処方
1. 「労働の祝福」もまた、鬱状態=禁欲・自己虐待から訪れるものへの対応「トレーニング方法」
2. 機械的な行動・パターンに慣れさせる・服従させること。訓練・規律的なもの。
3. 「あらゆる慈善・奉仕・援助・顕彰には『ごくわずかな優越感』が伴うものであり、この優越感ががもたらす幸福こそは、生理的な調子の狂っている者たちが常用するもっとも贅沢な自己慰藉の方法なのである」
4. 弱者の「たがいに助け合う意志」が共同体を結束させる。
5. ※一つ目のポイント…ニーチェが人間の精神を一種道具的、機械的なものとして見ていること。訓練・馴化させることで価値観を変化させられると考えていたことは現代的に思える。
6. ※二つ目のポイント…「慈善の裏に優越感=軽蔑がある」それによってキリスト教やヒューマニズムは善・やさしさを(無意識に)装いながら、実際は自己の慰め+他者への債権-債務による支配を行っていること。「同情」の語。ここがニーチェの主張のコア部分。
7. ※三つ目のポイント…ここで前面化したのは、「弱者が互いに助け合う」プロセス。経験からも思うが、このプロセスの中で「善」の感覚は批判的根拠を失いながら育っていく。いわゆる左翼的運動が途絶するのはこの地点か。この指摘はもっと掘り下げたいが、ニーチェのここでの指摘は現代に通じるものだと感じる。ここで一種のクラスターが誕生し、カスケードが行われる。かつてはセクト=実際に会った人々の中で行われていたことが、ネット、特にツイッターのようなオープンかつクラスター化しやすいプラットフォームでカジュアルになったのでは。
8. ※ここから、特に抵抗の拠点、コミュニティ、グループの形成を考えると非常に困難に思える。多様性と強さがかならず両立しないように思えてしまう。「連帯を求めて孤立を恐れず」や若松孝二の「個的闘争」の語を思い出すところ。「超人の共同体は可能か?」あるいは「軽蔑の存在しない共同体は可能か?」と問うこと。
9. ※逆に批判的に見れば…当然ながらどの指摘も非常に単純な構図であり細部を指摘できていない。

19 現代人の魂
1. 「─現代の書物には、道徳的な甘美さと虚偽があるからであり、もっとも深いところにフェミニズムが潜んでいるためである。このフェミニズムなるものは、「理想主義」と自称したがるが、いずれにしてもみずからを理想主義であると信じているのである。」
2. 「罪のある」手段=「感情の羽目を外させる」手段 → 「感激」を利用する。
3. 全体的にここまでのリフレインのように見える

20 罪人という病院
1. 「諸君、心を動かす最初のものには用心したまえ、いつでも善良なものだからだ」
2. ※重信先生の「美談」の話に通じるところがある。
3. おおよそ同じ話。「負い目」を利用する→「罪人」にする。内面化して自ら罪を欲するようにさせる。キリスト教

21 禁欲的な理想のもたらす病 舞踏病や夢遊病など実際の精神疾患との結び付け

22 旧約聖書と新約聖書
1. 「もうお分かりのことと思うが、わたしは新約聖書は好まない」「旧約聖書にはあらゆる敬意を払うべきである。この書物には偉大な人物が、英雄的な光景が、地上でもごく稀なものが、堅い心をした人々の比類のない質朴さがみられるのだ」
2. 「この野心ときたら、神そのものも自分がひたすら悩んでいるこの些細な苦悩のうちに巻き込んでしまおうと、疲れを知らないのである。神とのあいだでいつでも〈君とぼく〉の関係を結ぼうとするこの悪しき趣味ときたら!」
3. ルターへの批判
4. ※ニーチェの言葉が現代日本で結構強めに響くのは、日本というキリスト教あるいは信仰心というものが文化的にも精神的にも考え得る限り薄れた国家にあっても、ニーチェの指摘のかなりが有効に思えてしまうところ。二つの考え方がある―現在の西欧世界の人道主義的な価値観を作り上げたのがキリスト教でありその影響かに日本(あるいは多くの国家)があること。もう一つはむしろ文明社会・産業社会・科学的社会…のプロセスがほぼ必然的に一種の民主主義的なものに落ち込んでいくのであって、キリスト教もそうした社会的構造の一部ということ。

23 学問と禁欲的な理想
1. 「禁欲的な理想」がもたらす現代社会こそが最も効率的な-必然的な社会ではないのか? という問いを拒否する
2. 学問の発展がその証拠となるし、そこに客観性があるようにも見える…がそれは偽り。
3. 学問の世界も同様に、禁欲主義の思想の支配下にあるという話

24 真理への意志
1. 学者たちのごくわずかな例外=「究極の理想主義者」について。
2. わたしたち「認識する者」は → あらゆる種類の「信者」に不信を抱くようになっている
3. ※割と重要な指摘に思える。あるフォーミュラ…信念の公式が共有されるような状況それ自体に不信を抱くという話。↑の共同体の話にも通じるところ。ただ、その一方ですべてのものに逆張りし反論していく無頼的な状況にも似たような不信を投げかけられそう。
4. 十字軍→イスラム 「真なるものはない、すべてのことは許されている」アサシン教団
5. 自由と真理はバッティングする
6. 学問的な探求が、理想的世界を追い求めるので現実世界を否定せざるを得ない、それによってキリスト教-プラトン主義と同様なところに落ち込む、というのが批判ロジック
7. ※これに関してはその後の様々な哲学(例えば構造主義とかデリダとか)を考えても甘いといえそう。

25 学者と禁欲的な理想
1. 学問追記…学問は権力の強い影響を受ける。権力側が「禁欲的な理想」を推進させている、という構図
2. 芸術では虚偽が認められるため、学問に比べはるかに禁欲性に抵抗できる。プラトンの芸術への抵抗はこの闘い
3. 「芸術家が禁欲的な理想に奉仕することは芸術家の最悪の腐敗である」
4. 「民主主義が到来し、戦争の代わりに平和の仲裁裁判が訪れ、男女同権が主張され、同情の宗教が登場する時代、生の沈降の兆候となるさまざまな出来事が発生する時代は、善き時代とは言い難いのである」
5. ※繰り返しになるが、当然このニーチェの「善さ」はブーメラン的に根拠を問われる

26 歴史と禁欲的な理想
1. 「あの反ユダヤ主義者たちも好まない」
2. 「力強いが狭量な「ドイツ、世界に冠たるドイツ」という原則」

27 無神論の意味
1. キリスト教の神にたいして勝利を収めたものは―キリスト教の道徳そのものである
2. 同情・誠実さという概念が洗練され倫理性が高まり歴史を再解釈しキリスト教を変貌させた

28 虚無への意志
1. 「人間は自分の存在にどのような意味があるのかという問題に苦悩したのである」
2. 「人間は何も意欲しないよりは、むしろ虚無を意欲することを望むものである」
3. ※最終的な結論として、①人間に生きる意味は存在しない ②意味が存在しないことに苦悩し「禁欲的な理想」ベースの意味を作り出した ③これが本質的な意味と欺瞞化され、これによって新たな苦悩がもたらされたが、意味への苦悩は防げた
4. ※ここからニーチェの主張はどこへ向かうのか? まず ①この欺瞞を知れ が一つ目であり、それを解決するためには ②超人たれ あるいは ③永劫回帰に生きよ となるだろうか。

まとめ
- 基本的には、キリスト教の道徳=同情=禁欲的な理想=生への嫌悪・軽蔑=民主主義における平等主義=情動の麻痺…を欺瞞的に内面化させている大衆=人々=「家畜」に対する批判。
- また、それがどのようにして誕生し、洗練されていったかの歴史=系譜を明らかにするもの。この説明でおおよそのところはつかめている。
- 様々なメモの繰り返しになるが、ここで考えることは
1. 現代の論説、特にアイデンティティポリティクス、ジェンダー論、ネット論談等に見られる同様の構図
2. ニーチェ主義的なものへの再批判・ニーチェ主義者への論駁…メタ的思想の無限後退
3. 心理学・脳科学あるいは文化人類学やフーコーとニーチェの関係
4. 共同体とその形成者の関係の困難

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