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「宇宙と芸術展」感想

1部 人は宇宙をどう見てきたか?

 最初に提示される「銀河」の図面…僕らが最初にこうした図に初めて出会ったのはいつだっただろうか、ということを考える。もしかしたらスターウォーズの映画、いいや、きっと宇宙を舞台にしたSFアニメじゃないかな。ガンダムマクロスのロボットたちと共に宇宙を飛び回って、パイロットの視点から輝く星々を眺める。テレビの表象の中で現れる様々な銀河、それは研究者たちが、すばる望遠鏡ハッブル望遠鏡で撮影した銀河図を見て抱いた感覚とは全く異なっている。まず、宇宙の表象、イメージというのを「絵」として提示して、最初の異化を行っている、というのでコンセプトが見えた気がする。

 かと思って一歩進めばそこにはマンダラ! 文化人類学には「コスモロジー」って言葉があって、まあ「宇宙観」とか訳されるんだけど、大事なポイントは「コスモス」という言葉に一種の秩序が含意されてるところ。自分の存在なり地球なりが中心にあり、様々なものがーそれは様々な天体に限らず、地獄や天国、神々や悪魔、時間なんかもー「あるべき場所」に配置されている、という感覚。その意味では、この1部はもっともっと世界中にある「宇宙観」というか想像力のほんの氷山の一角でしかないってわけ。僕らはキリスト教のOT図も知ってるし、エラトステネスの地球を測った実験も知ってるし、アリストテレスの天球概念も知ってる。ユグドラシルとフェンリル狼の世界も、エジプトやメソポタミアの歴法への興味も知っている。世界中からもっと多くの宇宙観を集めてきてこの場所を埋め尽くすことも出来るだろう。(でもその想像力―要素=神話素に限られた「構造」がある、って言ったのがレヴィ=ストロースの『神話論理』かもしれない)

 とはいえ、科学的視点の萌芽もかなり早い段階に始まっている。「観測」による中国の緻密な星図に目をみはる。最近『歴史でわかる科学入門』という本を読んでて、前半はほとんど医学と天文学にページが割かれてるわけなんだけど、ガリレオを待たなくても、相当に正確な観測が行われていたことが明らかにされる。四大文明にギリシャ。中世以降は中東世界でも膨大な観測が行われ、その記録はヨーロッパへと引き継がれた。アストロラーベという天体の角度を計測する機械に感動。望遠鏡が出来る前から「天文台」という施設はあって、そこではこうした道具を用いて観測・記録が行われてた。その手つきは現在の科学に通じるという印象。

宣伝:最近「SF創作講座」というのに非公式にかかわってるんだけど、そんな偉大なる天文学者たちを題材にしたSF、「チコとヨハンナ」の太陽という作品が面白いので、展示を見た方ぜひどうぞ。アストロラーベも出てくるぞ! http://school.genron.co.jp/works/sf/2016/students/chimpsha/375/

 さて、望遠鏡の発明がどれほどのインパクトなのか、ということを強く感じさせてくれたのがさっき挙げた『歴史〜』の本。美しい装飾を施されたガリレオの望遠鏡を見ていると、これが魔術の道具って気もしてくるのだから不思議。科学と「研究用の道具」の関係は科学史なんかで気になるポイントの1つだ。そういや『百年の孤独』でも望遠鏡が面白く登場したっけか。


2部 宇宙という時空間

 僕としては、この展示、1部はインプットのおかげでそこそこ楽しみ、2部には感銘を受けた。けど、3・4部はあんまりに「芸術」「人間」に寄り過ぎていて、スケールが小さくなってしまったように感じた。そうだ、2部には人間の影が見当たらない。はなっからグルスキーのカミオカンデの写真で始まるところがたまらなく良くて、多次元構造の膜だかブラックホールの構造宇宙やら物理・数学モデルに影響された作品が並ぶ。広い空間に並べられた巨大な絵にも、何か宇宙服のシルエットも見えるけれど、遠い未来の人間が、現代人には全く意味不明な活動をしているようなイメージで、どうしようもなく遠大な断絶をみせつけられる気持ちになる。その人間的価値判断の存在しない世界は、次第にシュールレアリスムみたいに思えてくる。好きも嫌いも無い。それは断絶の向こう側だ。安部公房の未来観を思い出す。

真の未来は、おそらく、その価値判断をこえた、断絶の向うに、「もの」のように現われるのだと思う。

おそらく、残酷な未来、というものがあるのではない。未来は、それが未来だということで、すでに本来的に残酷なのである。
  (『第四間氷期』あとがき)

それは、例えば原発事故が引き起こした悲しい未来とかそういうこととも違う。価値の彼岸にあって、私達が今大切に思っていること、どうしても未来に残したいと思ったもの、愛、希望、ヒューマニズム…などといったものに、砂粒ほどの価値も見出されない彼岸。

たとえ人間が、いや、生物が、いや、有機物が、いや、「認識」を行うものが消えたとしても、宇宙はそのまま、何も変わらずに在るだろう、という実感が押し寄せる。(いや、観測されていないものは存在していない! と僕らは必死に叫ぶ)

の、はずなんだけど、巨大ブラックホール(クエーサー?)を中心とした宇宙を表象するオブジェ(↓)……のこれが、やたら間に合わせの素材で適当に作られている感じはいろいろ考えさせられて楽しい。またレヴィ=ストロースを持ち出すけど、「ブリコラージュ」というか、神様が割とやっつけの大工仕事みたいな感じで宇宙を作ったんじゃね? みたいな気持ちにもさせられて。

 それから、このオブジェ(↓)、いつまでも見ていられる機械仕掛けの天体観測。プトレマイオスだったっけか、必死に天動説を解明しようとして太陽と月と惑星たちにむっちゃ複雑な動きを想定してたんだけど、それの再現だったらアツいな〜……などと思ったら全然違った。

3部・4部

 さっき言った通り、ここでの僕は、なんだか「昭和の宇宙記録」みたいなのを見ているようで(いや、60年代のSF誌が飾られてたからってだけでなくて)冷めてしまって、ひたすら写真で記録を取るマンとなってしまった。それにしても、SF誌「アメージング・ストーリーズ」のたまらないチープ観だ。初期のライトノベルに向けられるような視点があったのかなあ、などと邪推。当時のSFオタクは色々大変だったのでは。でもその抑圧がファンたちの絆をより強く……ってなところまで妄想しました。そんな彼らもおじいちゃんとなり、ティーンの孫たちがインターステラーやスターウォーズ新作に目を輝かせてるのを見てほとんどヘヴン状態じゃないですかね。クラゲ型ドローンは面白かったですね。クローン的人間はキモカワいかったけど、これよりもっと多様な作品が、まさに森美術館で以前にやってた『医学と芸術展』にあったはずだ。

 4章の「ザ・クローラー」は、チャレンジャー号の事件を元にしてるってのが衝撃なわけで、その前で子どもたちが楽しそうに写真を撮ってるのを見て胸が潰れるまでが作品じゃないかと思います。チャレンジャー号事件、推測するしかないのだけど、当時は本当に恐ろしい事故で、全世界にトラウマを植えつけた映像だったと思う。なんだったかな、以前、延々とスローモーションで落下していくチャレンジャー号の残骸を見せるビデオ・インスタレーションがあって、それが現代の文明の墜落のメタファーになっていた。(※『コヤニスカッツィ』という作品でしたが、実は別のロケットの映像でした)まあ、その辺りまでを感じさせてくれる展示だったらな、と思うのだけど、この辺り、1・2部に比べてちょっとコンセプト弱い気がしてました。とはいえ、写真作品も楽しく、ロシアの宇宙開発のアイロニーの筆致で描いた『宇宙飛行士オモン・ラー』を思い出すところ。


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