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『幼年期の終わり』アーサー・クラーク ◆SF100冊ノック#01◆

 『幼年期の終わり』アーサー・クラーク,1953,光文社古典新訳文庫

あらすじ(ネタバレなし)
 2001年、突如現れた異星人「オーヴァーロード」は、強大な科学力で地球を平和と統一へと導く。空に輝く銀色の宇宙船から、姿を見せずに指示だけを行うオーヴァーロードに、不安や反感を抱く人々もいた。ただ一人、彼らとの交渉を許された国連事務総長ストルムグレンも、オーヴァーロードを信頼しながらも、彼らの姿を見たいと感じていた。人間の中の抵抗勢力と出会う中で、その願いが具体的な形を取り始める…
 第二章:遂に姿を見せたオーヴァーロードを招いたパーティで、ある手がかりを手にした天文学者ジャンが彼らの謎に迫っていく。
 第三章:平穏の中で失われた「文化」を保とうとするコミューン、ニューアテネのある家族をめぐり、謎とされてきたオーヴァーロードの目的が明かされる。

◆1 物語とテーマ

 SFの「原風景」ってやつが、いくつかあると思うんですよ。その一番古いものの一つが、「地球の都市を覆う円盤」ってやつ。最近だと『ワンパンマン』とか『第九地区』とかでもありましたよねぇ。下の写真は、最初のテレビシリーズの映像らしいです。

 SFの分類としては「ファースト・コンタクト」もの、つまり宇宙人との「出会い」を描く物語。もちろん『ウルトラマン』だってそうなんですが、僕らが知ってる「宇宙人もの」と言えば、対話よりも戦争が多いわけです。やつらは美しい地球を「支配」しに来ている、と。そりゃ物語的にも絵的にも盛り上がりますし。早くも1898年にウェルズが『宇宙戦争』っていう火星人が攻めてくる小説を書いてる。

 でも『幼年期の終わり』は、人類を超えた超知性が登場して、地球を平定する物語。人間の「上位存在」としての宇宙人が描かれる点がまず最初の面白さです。割とないのよね、こういう「理性的な」ファースト・コンタクトもの。『地球が静止した日』とかかなぁ。

 しかも、物語が予想もつかない方向に転がっていく。松岡正剛も「予想が出来なかった」って話をしてたけど、特に1部・2部・3部はテーマも描きたいものもバラバラで、短編集と考えることも出来そう。

 とはいえ、ほかの様々なSFを読んでからここに戻ってくると、安心するというか、シンプルな作品だよなぁ、という感想にもなる。「すげー科学力で人類の問題はがっと解決されました」っていうようなまとめ方がやたら牧歌的に感じるんですね。ちょっとこの辺りの話を書きます。以下、ネタバレします。

◆2 未来のヴィジョンとニューエイジ・オカルト

 さて、小説の第三部で「幼年期」という言葉がようやく分かるわけです。人類は「滅亡」というか「進化」して、集合的な精神体=「成体」へと超進化を遂げるわけだ。僕がこれまでで触れたアーサー・クラーク作品と言うと、映画『2001年宇宙の旅』で、これもまた人類の急激な進化が冒頭と終わりで出てくる。そこに「ツァラトゥストゥラはかく語りき」って曲が使われてるわけですが、これはニーチェの超人思想の本のタイトルですね。

 『幼年期の終わり』は、特に二部で、やたらと「ユートピア」的な世界が事細かに書かれてる。経済はこうなった、ロボットが生産し犯罪はなくなり、人々は娯楽とスポーツにいそしみ……みたいな。上でそんな未来のビジョンを「牧歌的」って書いたのは、どうも1900年ころ、世界大戦前のころにチェーホフ『三人姉妹』や児童文学の『秘密の花園』で描かれていた、「理性と科学の時代」のイメージを感じてたからです。

人生は苦しい。それはわれわれ多くの者にとって、出口も希望もないものに見えるが、それにしてもやはり、次第次第に明るくなっていくことは認めざるをえません。そして、人生がすっかり光明に包まれるときも、そう遠いことではないようです。 (三人姉妹)

 ※同じくチェーホフの「かもめ」の劇中劇が、「20万年後の地球に残ったすべての存在が混ざり合った霊魂」を描いてることも付け足しとこう。ちなみに発表年はウェルズ『タイム・マシン』と同年の1896年。

 さて、時代の話をします。大戦期の前は、この「科学と理性が世界を良くして、やがて地上の天国へたどり着く」ビジョンが信じられてたように思うんですね。もちろん懐疑的な視線もあったわけですが。ドストエフスキーとか。これが、二度の大戦とナチス、そして冷戦が始まって、こんな夢は見ることが出来なくなるわけです。『1984年』みたいなディストピア世界の方がありえる未来として出てくる。哲学・思想の見直しも始まって、人間の「賢さ」が単一方向に、「進歩」に向かってく、みたいな見方は説得力が薄くなる。だからこそ、宇宙人、SFという道具立ての中でそれを描いた、という印象があるわけです。

 過去からその「理性・ユートピア」のビジョンを引っ張ってきた一方で、70年代を先取りするように、いわゆる「ニューエイジ・ブーム」に関連づけられそうな話もたっぷりある。二部の「降霊術」(「キューピッドさん」と思えばよい)だったり、さまざまなオカルト的なものを、新人類、あるいは超人類への進化という枠組みで捉えられてるんだけど、その描き方は、フィクションに終わらず「大マジメ」だったことが、「前書き」に紹介されてる。

 驚いたな! まったくそのままだよ! 『幼年期の終わり』で描いたのはまさにこういうことなんだ……。ゲラーをペテン師だと呼んでいるマジシャンやジャーナリストは、そろそろ口を閉じたほうが自分たちのためだと思うね。(アーサー・クラークの言葉)

 僕たちはこうした「オカルト」的なものをガチで排除する、という身振り・言説を取ってる気がするけど、文学なり人文書を呼んでると、どうもこれはそんなに古くからのことではないことに気が付く。1995年のオウム事件を象徴的に見るひともいるけど、僕はもうちょっと複雑だという気もしている。格差、9.11、ネット……

 とはいえ、アーサー・クラークが「まえがき」で延々とそれ=オカルト的なもの、に触れていることを無視は出来ない。少なくとも刊行当初の彼は、フィクション「以上」のものとしてこれを読んでもらいたかったのだと思う。けれどいまの僕らはフィクションとして「のみ」この本を読む。一方クラークはすべてを捨てていない。

超常現象の99パーセント(すべてがナンセンスであるとは思えない)(まえがき)

 1970年代、「精神世界」とかヒッピー文化、ユリ・ゲラーもそうだけど、オカルト的なものの大きな流れがあった。ビートルズのメンバーもインドで修行してた。(すぐ幻滅して帰ってくるんだけど)オカルト的なものについては、森達也の『スプーン』が印象に残ってる。「信じる」のではなく、「疑う」のでもなく、「超能力者」を彼らの/著者個人の二つの視点で眺めたドキュメンタリー。

 長々と何が言いたかったかというと、どんなに2016年に読むこの本、そして「人類の進歩」がフィクションにしか見えなかったとしても、1969年のアーサー・クラークや、ほかの多くの人々が、一度はそれらのテーマを「真実」として読んでいたことを覚えておきたいということ。

◆3 オリジナリティ・SF的想像力

 これも完全にネタバレだけど、「悪魔」の姿をしているオーヴァーロード、その理由が、未来=21世紀に人間が異星人に出会ったときに感じた恐怖のビジョンが→時間を逆行していって、太古の人類のイメージへ影響した、という「記憶の時間遡行」というアイディアは(ツッコミどころはあるが)面白い。

 上に述べた通り、現実で描くことが難しくなった「ユートピア」的、理性と科学が勝利した社会を、SFの道具立てで描くことで説得力を高めている、というのはこの形式でしかできなかったことだろう。クラーク、真面目。

 「ファースト・コンタクト」に付随するあれこれ面白い場面も沢山書かれている。文化が衰退し、カウンターの形で文化を保全しようとする「ニューアテネ」が三部の舞台になるところは楽しい。

 「小説と演説」というテーマが好きなんだけど、本書でもラスト付近で地球総督(異星人)カレランの大演説が炸裂する。名演説だ。

◆4 キーワード

#ファーストコンタクト

・異星人、政治、オカルト、ニューエイジ、冷戦、植民地

 ところで「ファースト・コンタクト」って言葉は文化人類学の用語が最初らしいですね。本書でも「人類学」「植民地」なんて言葉がよく出てきますが、かつて西欧の帝国がアジア・アフリカ・アメリカの各所で「未開人」たちに遭遇したシチュエーションは、未だない「宇宙人との遭遇」のひな型として捉えやすいものなんでしょう。

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