親の心子知らず

幕末四賢侯の一人である松平春嶽の孫、松平永芳は靖国神社の宮司となり、昭和53年、A級戦犯合祀を行い、昭和天皇から親の心子知らずと評されました。お父様は初代宮内府大臣の慶民。昭和23年にお亡くなりになっておられます。親の心子知らずとは深謀遠慮で知られる親の子が軽挙妄動を犯した時に使われる言葉です。王侯将相寧有種乎と言われる通り、名馬の子なら名馬になるとは限りません。名馬の子が名馬になるのは、必ずしも種だけでは無いのです。育成環境、そして適切な訓練が肝心です。それと同じで家を維持するのは容易ではないのです。春嶽ほどの賢人であっても、孫の代には、天皇陛下から大馬鹿と評されるまでに落ちぶれてしまうのです。実際、永芳は靖国に政治が介入するのを嫌いましたが、永芳が行ったA級戦犯合祀、をすなわち東京裁判に反対する行為は正に政治です。靖国を自ら政治問題化してしまったことに気がつかない永芳に対する昭和天皇のお言葉はまさに正鵠を射たものでしょう。

藤田東湖は水戸の両田の一人で、斉昭公の良き参謀でした。攘夷運動の過激な思想家として知られる東湖ですが、斉昭公が幕府の海防参与であったことから分かるように海外の情報にも通じるようになっていたはずです。聡明な東湖なら過激な攘夷であくまでポーズで、腹心には開国し、富国強兵に勤め、日本国を夷狄から守ると言う目論見があったはずです。当時の水戸は門閥派(後に諸生党)と改革派(後に天狗党)に分かれ、その調整にも東湖は腐心しています。例えば改革派のトップでありながらも、斉昭公の謹慎を画策したとして幽閉された門閥派の重鎮の結城寅寿の切腹には頑なに反対しました。藩が内紛していれば攘夷どころではありません。敵対勢力には戦うだけでなく、徳をもって当たることを実践していたわけです。東湖は水戸藩や幕府を超えて日本全体の将来を見据えておられた方で、東湖の死の前年、その腹の中をうかがった西郷は深く感銘を受けたそうです。実際、その後の歴史はほぼ東湖が予言した通りになりました。

東湖亡後、その抑えが無くなりとうとう我慢ができなくなった斉昭公は結城寅寿を切腹させました。実際は惨殺でしょう。子の種徳も獄死。そして斉昭公の死後、燻り続けた門閥派と改革派の争いに息を吹きかけたのが東湖の子の小四郎です。東湖が没して8年後、文久3年(1863年)、若干22歳の小四郎は将軍家茂のお供として上洛した藩主慶篤(斉昭公の長男、慶喜の兄)の家臣として同行し、そこで長州の尊攘の志士たちと交流しました。なにせ父親は尊皇攘夷の志士達の偉大なヒーローです。小四郎の天狗の鼻がますます高くなったことは想像するに難くありません。その頃にはすでに水戸と長州の尊攘派の間には成破の盟約が結ばれていました。それは水戸が捨て石となって騒乱を起こし、目的は長州が果たすというファンタジーでありましたが、その実行を桂小五郎らに強く促されたことでしょう。

桂小五郎は東湖の墓参のために小四郎と水戸に向かいますが、その途中、江戸により、天狗に軍資金を提供しています。おそらく軍資金は後の大村益次郎、村田蔵六が長州藩の金蔵から用立てたのだろうと思います。小五郎は千両と言っていましたが実際に小四郎がもらったのは500両ですから、多分蔵六が値切ったのでしょう。翌年の元治元年(1864年)、小四郎は筑波山で挙兵。これによって諸生派と血で血を洗う内ゲバが始まります。勿論、父東湖が存命ならこのような藩の存亡に関わる軽挙妄動を許すはずがありません。仕掛けられた諸生党は怒りのあまり天狗の家族を殺戮していきます。これで斃れて後已が攘夷ではなく内ゲバで行われることになりました。さらに若い小四郎には慎重さが欠けていました。単なる内ゲバなら幕府は諸生を支持できません。しかし若き小四郎の統率に綻びが生じます。田中愿蔵のような不埒な軍資金調達をするものが現れ、幕府に天狗追討の口実を与えてしまうのです。これで天狗の命運が尽きることになりました。

天狗争乱は幕府権威の失墜に大きく貢献したのは確かです。幕府が天狗追討の責任者である若年寄田沼意尊を抑えていれば、そして慶喜公に人の心が少しでも有れば、敦賀で降伏した天狗は武士として扱われ、斬首でなく切腹となり、討幕は決定的にならなかったでしょう。しかし天狗に対する幕府の徳の無さが顕になり、これで薩長は完全に幕府を見切りました。薩摩が長州征伐に協力しなくなるのも当然です。

天狗は不埒な方法で軍資金を集めた。このように書くと、悪いのは天狗で諸生は正しいかったと思われる方もおられるかもしれません。しかし諸生がやったことも人でなしです。政争で斬り合いをしても、家族の根絶やしまではやってはいけません。例えば耕雲斎の水戸に残された家族を女子供妾に至るまで斬首、妻には敦賀から水戸まで運んだ耕雲斎の首を抱かせて斬首です。まさに猟奇的殺戮です。耕雲斎の孫、武田金次郎を復讐の鬼にしてしまったのは諸生です。敦賀で年少の為許されて帰藩した金次郎に諸生が斬り殺されたのは自業自得でしょう。最後に何かと存在感のない茨城県の皆様には不遜を覚悟で申し上げますが、皆さんを愚か者の末裔にしたのは天狗と諸生です。愚か者の末裔同士仲良くするしかありません。

水戸藩の血で血を洗う内紛は明治政府にとっては良い教訓となりました。幕府の要職にあった者を粛清せず、明治政府においても要職に留めた例が沢山あります。例えばあの田沼意尊までが千葉県の前身である小久保県の知事になっています。さらに大物で言うと慶喜が逃げて大坂に残された榎本武揚でしょう。土方歳三と一緒に五稜郭で幕府で戦い、そこ捕縛。しかしその後、外務大臣にまでなっています。