雑考うまぴょい伝説:誰の愛馬だ?
こんぬつは。異常カブラヤオー愛者のTofuです。
まあ盛り上がっておりますウマ界隈。なにも馬券が飛び交っているのではなく、ジュエルが飛び交っているのです。というのも、現在ウマ娘はローンチ三周年。めでたい。オルフェーヴルのキャラクター像については賛否ありますが―私の周囲では圧倒的に否ですがそれはおいておきましょう―ともかく、このコンテンツが長寿なのは馬産界においても僥倖です。ウマが女だとオタクが金を落とすからな!ガハハ!
中小牧場が苦しい中で、かつて(血統が現在より洗練されていなかった昔)の名馬がよみがえることは、何よりもうれしいことでしょう。かつての栄華がしゃべり、動き、金をおとすわけですから。
さて、ゲームプレーヤ―としてトレーナーである我々が目指すのは「うまぴょい伝説」です。このうまぴょい伝説、いかれた歌詞と秀逸なメロディ、各キャラクターの巧みな歌いわけによって今なお人気を博しています。
はて?だれの愛馬なのでしょう?むろん、我々が育て上げ我々が愛しているのだから我々の愛馬なのでしょう。
しかしです。現実の「皆の愛馬」であるところのキーストン、テンポイント、ミホシンザン―父シンザンは現役時は負けることを望まれていたので―、ミスターシービー、トウカイテイオー…彼らは「だれ」の愛馬だったのでしょうか?
まず、第一に愛していたのは、ほかでもない厩舎でしょう。人気によって振り向いたり振り向かなかったり、競馬ファンは風見鶏です。
そして、その風見鶏たる競馬ファンが熱狂を作り上げます。あるいはテンポイントのように、卓越した詩人の存在によって芸術に昇華されることもあります。
このような卓越した譬え―いうまでもなく左がトウショウボーイで右がテンポイントです―は、皆の愛がなければ、熱狂がなければ生まれえなかったでしょう。
さて、この場合、「だれ」の愛馬なのでしょうか?
「ウマ娘」では多くの場合、育成シナリオでウマ娘と「わたしたち」の交流が、それも密な交流が描かれます。「わたしたち」が育て上げるんだからね。ウマ娘のファンは、いくら望もうとも、「わたしたち」とウマ娘の間に割って入ることなどできないのです。
ウマ娘のファンがぎっしりと詰め込まれた観客席に向かって投げかけられる言葉は、正確には「わたしたち」に、よりはっきりというと「画面の前のユーザー」に向かって発せられるのです。
しかし、です。
…ここにあげた例はいささか極端すぎるかもしれません。しかし、権力欲の多寡、目的遂行への意思のあるなしにかかわらず、彼女たちは自分の目標に向かって走っているのです。「わたしたち」関係なく。
むろん、ここに挙げたエアグルーヴは「女帝たるためのサポート役」としてトレーナーを―「わたしたち」を必要としてくれます。しかし、あくまでサポート役。その先を想像することはわたしたちには容易ですが、この世界において語られることはありません。
「わたしたち」の独占欲、ステージの下に詰め込まれたファン≒現実のわたしたちの欲する彼女たち、そしてどこを向くのかわからない彼女たち。
ファンたちが彼女を突き動かすこともあれば、「わたしたち」が彼女を動かすこともある。
「ウマ娘」というコンテンツはここが肝です。
テンポイントは有馬の前に寺山修司の詩を読むことなどありません。ミスターシービーは寺山の予言など聞きません。キーストンは観客席の悲鳴より目の前の人間を見ながら死んだのでしょう。
馬には意思がありません。
しかし、人間体になると、だれかの意見を聞き、だれかに愛されることを自覚します。
そして彼女たちが自分の生きざまを見せ、センターに立つと、こういった問いが生まれるわけです。
あなたは、誰の愛バ?
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