小さな窓を持ち歩く。

今日はiPhoneを家に忘れてきた。

私は小学校一年生から所謂"キッズケータイ"というものを持っていて、携帯歴(途中からiPhoneだけど)は10年以上になる。なぜそんな小さい頃から携帯を持たせたのかというと、私の住む街は治安が悪いわけではないが、治安がよろしくないところもあるといったところで、ざっくり言えば変質者の出現が多いのだ。だから両親は一人っ子である私が、1人で帰っても大丈夫なようにと持たせてくれた。初めて持った携帯の色は確か水色だった気がする。自分でシールなどを張ってデコレーションしていたような(時代を感じる)。それから何台も買い換えて今に至るわけだけど、私の人生の半分以上は携帯と共に歩んできたと言える。
そんな私が、iPhoneに変えてから初めて家に忘れてきた。家から最寄りの駅まで歩いている最中に突然「…忘れた!!!!!」と気づいた。しかし今から戻っては予約していた病院に間に合わないため、諦めるしかなかった。でもこれの出来事が私に様々なことを気づかせてくれた。

病院の待合室(スマホが使える環境の場合)ではいつもiPhoneで調べ物やTwitterで情報収集をしているのだが、今日はその相棒がいない。手持ち無沙汰を感じつつも、ただぼーっとしていた。でも(たまたまかもしれないけど)不思議と退屈じゃなくて、受付の人と患者さんの対話とか、周りの患者さんたちの対話などが自然と耳に入ってきて、この受付の人はこういう話し方をしてあげるんだなとか、いろいろ人間観察ができた。できたって言っても勝手にしてるだけだけど、毎回来ていても気づかないことが多いのだと知る。

病院が終わって母と合流して、3つほど離れた駅まで出かけた。この駅は大きいため、いくつかお店が入っている。母と雑貨屋や洋服屋などを見て、最後に本屋に入ることにした。が、ここで問題があった。その頃にはすっかり私がスマホを忘れてきたということを、私たちは"忘れて"いた。だから本来なら待ち合わせ場所を決めたり、店内ではぴったりくっついているとか、そういうことを考えなきゃいけないはずなのに、考えなかった私たちは案の定お互いを見失った。狭い店内で、どう見失うのかは自分でもわからないけど、同じところをぐるぐる回ったり、店の前をうろついたりと、その姿はか・な・り不審だったと思う…ほんとうに。30分以上お互い探し歩いて、向こうの道から歩いてくる母をやっと見つけ、落ち合うことができた。こっぴどく母から叱られたけど、こういうこと、携帯がない時代は割とあったことなんだろうなってぼんやり考えた。

伝言板?掲示板?みたいなものが昔駅に常設されていたことは母から何度か聞いたことあるし、あんなもの誰が書いたかわからないじゃないかなんて思っていたけど、スマホなし状態の自分から考えてみれば、案外重要な存在だったのではないかと思った。そうやって昔の人たちは不便さを楽しむことが出来ていたのではないだろうか。不便さゆえのアクシデントなどはあっただろうけど、その中で生まれる自然な時間は本来あるべきものだったのかもしれないと思う。その自然な時間っていうのは、俯きながらスマホをいじる時間ではなくて、隣にいる人と話す時間や電車が来る瞬間を見つめるとか、行き交う人の群れをぼーっと眺めるとか、温かい飲み物を啜るとか、そういったことだと思う。実際帰りの電車では母との会話に花が咲いたし、私の手元にスマホがあれば、私は俯いて適当に話を流してしまっていたかもしれない。そう思うと便利な存在はそれが当たり前になった時、小さいけど大切な時間の流れを感じられなくなってしまうのかもしれないなとハッとした。

文明がある程度開花された時代に生まれたものとして、その便利さ快適さ豊かさには、日々とても助けられているし、心から感謝している。だけど一方で、それが打ち消してしまうものがあるのかもしれないということを、今生きる人々は知っておかなきゃいけないのだと思う。便利さに付け込まれ、特にネットに関してはそのリテラシー問題など様々な問題を抱えている。

今日の出来事は、その大きな世界を手元で見れる小さな窓を持ち歩く私たちには、少しその窓を閉め、窓自体を手放す時間が必要なのかもしれないと気づいた。それと同時に、帰宅してやっと会えた相棒に対して、すぐに飛びつく自分に少しどきりとした。

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