見出し画像

2020.04.12

本当なら今頃はコンサートの余韻に浸ってるか、5万5000人の波に揉まれ疲れて意識を失ってるか、のどちらかだったはず、なのに。

私は今、別の疲労感に包まれながら暗い画面をのぞいている。

『外出自粛』というパワーワードにも驚かなくなるほど、この数ヶ月で世界は変わってしまった。今は愛する人に直接触れることもできない。みんなで集まって楽しさを共有することもできない。
見えないものと戦うには、あまりにも多くのエネルギーを必要とする。
週に何度か行くスーパーからの帰り道、何度もカートやドアノブを握った手を見つめては見えないけど存在するであろう"そいつ"に睨みをきかせた。

1ヶ月前にコンサートが当たって浮き浮きしながら申し込んだチケットは、チケットの形にもなれぬまま消えてしまった。なんだか紙のチケットじゃなくなった時にも「デジタルチケットって、私の心の中とデジタルの世界にだけ存在するみたい」って思ったけど、今度はデジタルにも存在せず、完全に私の心の中にだけ存在している。

デジタルな世界のように簡単には消えてくれないアナログな気持ちがぽつり。

4/11 18:00〜 東京ドーム
4/12 18:00〜 東京ドーム

私はこの状況でも開催してくれたら喜ぶかと言うとそうじゃない。この判断はどっからどうみても正しくて、英断というべきものだ。
だって彼らの健康と、たくさんの人の健康を守るはず、だから。はずと言ったのは、それだけが毎日の希望だった人もいると思うから。そして私もその1人なのだから。
本人たちは言った「こればっかりは仕方ない」。うん、仕方ない。誰のせいでもない。みんなのことを考えたら仕方ない。
私はこれに駄々こねるほど子供ではない。でもこれを素直に受け入れて、彼らの言う「その次」をすぐに見つめられるほどポジティブでもない。
私にはもう少しこのぽっかり空いた場所に吹く、隙間風のようなものをじっくり味わう必要があるみたいだ。

私は今までどれだけ安全と安心に満ち溢れた世界だけを想像して生きてきたのだろう。
コンサートの帰り道には、燃え尽きた身体の重みを感じながら決まって大きなドームを横目に「次来るのは来年かあ」などと思い、車に揺られて帰るのだった。それが私の当たり前に信じれる"当たり前"だった。

「来年はなに着て行こうかな」「来年の今頃はどんな自分でいるだろう」「来年こそはいつも混んでるカフェに行ってみよう」「来年はこの部屋の荷物を捨てなきゃ」
来年は..........

私は無事でしょうか?
元気にしてますか?
私の愛する人たちは一人もかけることなく、今もそこで笑っていますか?
そもそも来年には、すべての不幸が終わっていますか?

考えたら泣いちゃうな。
普段あんまり暗い気持ちになりたくないから考えないようにしてるけど、このささやかな願いがどうか願い事で終わりませんようにと強く強くまた願ってしまう。

その次がこんなにも遠い4月、今年はあと8か月もない。
いつもよりすこし寒い気がする4月、早く身もこころもあたたかな春が訪れますように。

当たり前のことを当たり前にできる世界に、私はちゃんとあらゆるものへ感謝しているだろうか。それがどれだけ幸せなことかも、またすぐに忘れてしまうのだろうか。そうやって、忘れてきた私が重なって今の私がいるのだろうか。
でも、本来の当たり前はそんな刹那的なものじゃなくて、ちゃんと永遠を感じられるものだったはずだ。
それなら、永遠の道筋にこの寒さがあるのなら、ぜったいに絶対に私たちまた会おうね。

当たり前に会って愛を叫べるその次を見つめられるそのとき。
それまでもう少しだけ、私はこのつま先の冷える風を感じていようと思う。つま先を包み込む手のあたたかさがしっかりと感じられるまで。