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記憶の中にある廃れない色に、名前なんてないんだ。

特に花に興味があるわけじゃない僕にも、好きな花が2つある。

ひとつ目は、やっとあたたかくなった頃、気持ちのいい春風とともに花びらが町中を泳ぎ、儚く散りゆく桜。入学式に満開の花を咲かせ、卒業式には別れを惜しむかのように散る…これが理想だけど、実際は入学式にようやく花がちらほらと咲き始め、卒業式に満開を迎えることのほうが多いように思う。正門に植えられた桜の木も、今は雨に濡れてじっとこっちを見ている。

ふたつ目は、今、僕がいるところからも見えるあじさい。ピンクや水色など場所によって色が違うのはpH、つまり酸性度によって色のつき方が違うことが理由で一般的には酸性だと青、アルカリ性ならば赤になる。またあじさいは花が咲いてから日が経つにつれ、更に変化する。その様子からか、花言葉は「移り気」「冷酷」「無情」などあまり良い意味じゃないものもあると前に読んだ本に書いてあったのを思い出す。

でも僕はなんだか、その綺麗なだけではない奥の深いものを持つあじさいに、桜よりも魅力を感じていた。


「あじさい、綺麗だね」

「えっ?ああ、あじさいか。うん、そうだね」

青だから酸性の土なんだ、なんて考えながらも保健室から見るあじさいは学校の白い壁によく映え、いつもより色濃くみえる。

「…どうしたの?相沢くん変だよ」

「いや、ちょうどあじさいのこと考えてたから」

「そうだったんだ!じゃあ相沢くんの心の声、聞こえちゃったのかな?」

斜めに首をかしげて照れ笑いする吉田さんの、きちんと揃えて切った前髪がまばらに動く。

「そういえばこれ、書き終わった。」

「あっ、ごめんね?テスト近いっていうのに日誌書かせちゃって…」

「別に大丈夫。これも保健委員の仕事だし、吉田さんは学級委員の仕事もあるでしょ?」

「うん。今書いてる学級委員のもまだ終わってなくて…本当に助かったよ。ありがとう、相沢くん」

吉田さんは優等生ということもあって、こういうめんどくさい仕事を押し付けられがちで、この保健委員の仕事も立候補する人がないからって理由で引き受けているのを僕は知ってる。校則を守り少し長めのスカートが吉田さんの性格を表しているようだった。

「今回のテストで高校生活最後の前期定期テストか」

「そうだね。私はあとちょっとでテストとおさらば出来る嬉しさと、もうこの学校でテストを受けるのも数回なのかって寂しい気持ちもあるなぁ…相沢くんは嬉しい?」

「僕はなんとも思わない、かな。大学に行けば、またテストはあるわけだし。吉田さんなら今回のテストも楽勝でしょ?」

「ううん、いつもより範囲大きいし全然楽勝じゃないよ。」

首を横に振る仕草は二つ結びにされた髪をさらさらと悲しげになびかせる。

「ごめん。僕、なんかすごく失礼なこと言っちゃったね。」

「別に謝ることじゃ!私がただ単に頑張りたいだけだから。」

「そっか…。」

床を見つめる僕と窓を眺める吉田さん。僕たちの居心地の悪い変な間をかき消すように、チャイムの音がふたりだけでからっぽの保健室に響く。雨も降り始めたようで、雨音とチャイム音が交じり合った。吉田さんのリップのようなものを塗る姿はなんだか大人っぽくて、口を開いたら心の声が今度こそ聞こえてしまいそうで、僕にはじっと後ろ姿を見つめることで精一杯だった。

「どうしよう…。」

「どうしたの?」

僕は保健委員の仕事が終わったので、帰りの準備をし始めていた。朝、天気予報を見て持ってきた折りたたみ傘が役に立ちそうなので今のうちにリュックから出しておく。

「傘、忘れちゃった。」

「…じゃあ、途中までだけど入る?」

言うしかなかった。だって、もう僕は手に折りたたみ傘を握っていて、この状況で言わざる負えないヒトコトだった。

「ごめん、ふたりで入ったらいろいろ誤解されるし、今のは…」

「入れせてもらってもいいかな…?」

日誌をテーブルに置いて昇降口をでる間もずっとおかしいくらいドキドキしてて、真面目な吉田さんはそんな事考えてないんだろうけど、もしクラスメートに見られたらとか、先生に見られたらどう言い訳しようとか色々考えてるうちに一歩一歩進んでて、正直数秒前にふたりで傘に入ったわけだけど、もうあんまり覚えてない。でもただただずっと失くならないと信じたい一秒だった。

「本当に今日は相沢くんに頼りっきりだなぁ。もっとしっかりしなきゃね」

「そう、かな…みんな頼り過ぎなんだよ。吉田さんがいくら優等生だからってさ」

「相沢くんは、私がただの優等生だって思ってる?」

「え?まあ、そりゃあもちろん」

ずっと前を向いていた吉田さんが髪を束ねているヘアゴムに手をかけて、ゆっくりと解いていった。なんだか見ちゃいけない姿に思えて目をそらそうと思ったけど風が吹き、黒い艶のある長い髪が自由に動き出す様子があまりにも綺麗でみとれていた。彼女の唇があじさいのようにさっきよりも色づいていることに気づかず。そしてこの先の出来事は、ずっとずっと僕の中で廃れないただひとつの色として残っていくのだと確信した。


僕は油断した。

音とともに息がかかる距離から離れていく吉田さんの表情には、今は僕しか知らない色があった。時間経過はじっとりと進んでいく。まるで写真の中で生きているかのように。

「わざと、傘を忘れたって…言っても?」

あじさいの葉には毒があるって、君が教えてくれたんだ。