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パンツ一丁で、「ピーピーピー」

名古屋市熱田区の白鳥庭園正門から、堀川右岸沿いの「千年プロムナード」を南に下る。国道一号線に架かる白鳥橋の下をくぐり、しばらく歩くと、忽然とコンクリートの塊が出現する。「熱田空襲跡の碑」である。昭和八年に築造され、平成四年の「マイタウン・マイリバー整備事業」の新たな護岸の設置により、撤去された堀川の旧護岸壁の一部である。

君は、「熱田空襲」を知っているか。

終戦を間近に控えた昭和二十年六月九日朝、名古屋市熱田区にある愛知時計電機・愛知航空機、住友金属などの軍需工場を標的に行われた、名古屋で最大の犠牲者を出した空襲である。
堀川に良質な木材が集積する立地条件などから、名古屋市熱田区船方周辺で、航空機の製造が始まったのが大正九年。昭和十三年に「国家総動員法」発布。帝国議会の承認を経ずに労働力や物資の統制運用を行うことが可能になった。熱田の航空機産業は、周辺の人々約二万二千人を勤労動員して、日本全体の約六割の生産高を占める巨大産業に変貌をとげる。この地は、アメリカ軍による空襲の格好の標的になった。
当時、戦略爆撃機B二十九は、日本本土を空襲する場合、東京を標的する時は「富士山」を、名古屋・大阪を標的するは「琵琶湖」を目標にして本土に来襲した。名古屋を空襲する時は琵琶湖上空から東南方向に向かい、大阪・神戸を空襲する場合は西南方向に向かった。
昭和二十年六月九日朝、琵琶湖方面に向かうアメリカ軍爆撃機百三十機を発見した旧日本軍東海軍管区は、名古屋に空襲警報を発令。その後、百三十機の内八十五機の爆撃機は琵琶湖上空を西南方向に向かった。百三十機すべての爆撃機が、大阪・神戸に向かうと判断した旧日本軍東海軍管区は、午前八時三十四分、空襲警報を解除する。白昼の惨劇を招いた、誤判断である。
残り四十五機の爆撃機は、琵琶湖から東南方向に進路を取り、名古屋に向かう。その日、名古屋は、梅雨の晴れ間、見事な快晴。爆撃をするには、最適な条件だった。そんな言葉は存在しないが、まさに「爆撃日和」であった。
誤判断による空襲警報解除後、工場の外に非難していた人々が工場に戻った午前九時十七分、突然、爆撃が始まる。わずか八分あまりの間に、百二十発・二百七十八トンの爆弾が投下、本土に空襲では初めて高性能二トン爆弾が使用された。二千人を超える多くの命が瞬時に奪われ、数千名ともいわれる重軽傷者を出した。堀川の川面は一面死体で覆いつくされたと聞く。工場で働いている人は、みな民間人。まさに、無差別な殺戮である。

君は、「学徒勤労動員」を知っているか。
 
昭和十二年に学生による「勤労奉仕」が始められる。当初は軍人遺族、出征留守宅を訪問するものであった。戦局の悪化にともない「勤労動員」へとその性格を変えていく。終戦の前年の昭和十九年「学徒勤労令」発布、翌年「決戦教育措置要綱」閣議決定。中学生以上の生徒を、有無を言わさず、軍需工場へ勤労動員することが可能になった。特に、愛知県の学徒勤労体制は全国の先駆け的存在であり、約十二万以上の学生が、教室を追われ、戦争へ巻き込まれていった。将来を担う若人から、学習の場を奪い、教育を放棄した恐るべき制度である。愛知県の空襲による学徒の死亡者は、悲しいかな、全国一と言われている。

さて、父の話。

昭和三年六月三日生まれ、昭和二十年当時十七歳。名古屋市中川区に住んでいた。当然のごとく、近くにある熱田区の軍需工場に勤労動員された。貴重な青春の日々は、工場勤務の日々。
六月九日「熱田空襲」の朝を迎える。一週間前にセブンティーンの誕生日を迎えた父の将来の夢は、「教師になること」であった。しかし、貧乏家庭の八人兄弟の長男であるという境遇を考えると、それは、まさに「夢」でしかなかった。その日も将来の不安を胸に工場に向かった。工場に着くとすぐに空襲警報が発令された。二万あまり人々はあわてて工場の外に避難。何事もなく、一時間後に警報は解除。工場の外に避難していた父は、同級生の仲間と話をしながら工場に戻った。その直後、突如爆撃に遭う。突然、目に前に爆撃による大きな穴があいた。すさまじい爆撃の中逃げ惑った父は、誤って、その穴に落ちた。穴に落ちた時は、もうダメだと思った。穴が深く、這い上がって逃げることができない。それが幸いした。爆撃の穴が、塹壕のような役割をはたした。爆撃は続いた。父曰く「周りにいた友人は、みんな死んだ」。父も爆撃の破片を全身に浴び、病院に運ばれる。救急車などはなく、工場のトラックである。トラックの荷台から見た薄れゆく記憶。「道端に多くの人が寝ているな」。寝ているのではなく死んでいたのである。それまでの経験に道端に人が死んでいるのを見なかった父は、寝ていると勘違いした。さもありなん。諸君、道端に人が倒れていて、それが死人だとすぐに想像できるか。これが、戦争である!と知ったかぶりもできない、「戦争を知らない子供たち」。
父は、一週間近く、死の淵をさまよった。穴に落ちた分、直撃の破片が少なく、まさに「九死に一生」を得た。しかし、爆撃の無数の破片は、父の体に残った。当時の医療事情では、小さな破片を取り除くのは無理だった。

次に、母の話。

昭和八年、自作農家の娘として生まれる。近所でも評判の器量よしだった。
 つねづね疑問に思っていたことがある。なぜ、母は父と結婚したのか。母の実家は、土地持ちの自作農家であった。裕福ではないが、それなりの暮らしであった。それなのに何故、貧乏家庭の八人兄弟の長男と結婚したのか。思い切って尋ねたことがある。答えは、恐るべきものであった。
 当時の結婚は、見合いである。母は、かたくなところある。自分の人生を左右する結婚を、経済的な条件などで決めたくなかった。何度かお見合いして、あっちの人がよかった、いや、こっちの人がよかったと後悔するのが死ぬ程嫌だった。で、最初の見合いの相手と結婚しようと心に決めた。それがどんな人であれ。それが父であった。それまで十数人の見合いを断られている父にとって異存があるはずなく、むしろ「ラッキー」。二人は結ばれ、小生が生まれる。
されど、父の若かりし頃の写真を見ると、意外な「イケメン」。本当のところはどうかわからない。
 
話は、昭和から平成。

写真と旅が趣味だった父は、母と一緒に日本各地の秘島を巡った。写真撮影の対象を求めたのであろう、礼文島、利尻島、奥尻島、佐渡。壱岐、対馬、五島列島・・・。
当然、飛行機を利用する。搭乗する前に、空港の金属探知機をくぐらなければならない。金属探知機に、父の体に残った爆撃の破片が反応した。当然、怪しまれ、身ぐるみをはがされた。文字通り、パンツ一丁になった。それでも金属探知機は「ピーピー」と鳴った。
空襲体験の話をし、身体には爆撃による無数の金属破片が残っており、それが金属探知機に反応することを説明、どうやらこうやら飛行機に乗れた。その後、旅行のたびにこの「ピーピー」は父につきまとった。事前に空襲の体験の話をしても、とりあえず、パンツ一丁にさせられた。凄まじきは、日本の空港の安全管理。
心臓にペースメーカがある、人工関節であるという場合は、医者の診断書があるとパスである。仮に診断書がなくても、衣服の上から触って確認できればオッケーである。父の場合、衣服の上から触っても確認できない。なにしろ本人にもどこにあるのかわからないから、当然である。一度、知り合いの医者に診断書をなんとかならないかと相談したが、医者も、さじを投げた。
父は、平然とパンツ一丁になった。物おじすることは、「みんな死んだ」友人たちに申し訳ない気がした。案外、パンツ一丁が好きだったのかもしれない。夏の暑い日など、よくパンツ一丁で水やりをしていた。
秘島を巡る旅は、団体旅行であった。父の「ピーピー」のせいで、搭乗手続きは遅れ、同行者に迷惑をかける。母はその度、「ペコペコ」同行者に頭を下げた。ペコちゃんである。

平成二十一年十一月一日、肺炎で、父が逝く。享年八十二歳。

葬式は、風景を写し、歌を詠み、書を愛した父にふさわしい、秋晴れの「文化の日」であった。八事の火葬場で奇態がおきる。骨上げの時、母が突然、「ばくだん、ばくだん」とつぶやきながら、父の骨をあさった。一瞬、周囲は、父の死のショックで母の気がおかしくなったかと思ったが、違った。
「ばくだん」は、爆弾のことであった。母は、父の身体に残った、爆弾の破片を必死になって探していたのである。父との楽しい旅をいつも邪魔した「ピーピー」の正体をこの目で見てみたかったのである。母と一緒に「ピーピー」を探したが、結局見つからなかった。それほど小さな破片だったのだろう。
骨上げが終わり、骨壺を胸に抱えながら、母がめずらしく冗談を言った。

「父さんのお骨を持って飛行機に乗ると、ピーピー鳴るかもしれないね・・・」

晩秋の青空が目に染みた。その時初めて、父が逝ったことを実感した。

最後に自分の話。

この冬、勤めていた会社をリストラになった。三ヶ月の失業生活を経て、春、思いかげず白鳥庭園の北にある、キリスト教主義の大学に奉職を得た。「熱田空襲跡の碑」は、通勤路を少しそれた所にある。付近一帯は、桜の名所。花に誘われて、通勤途中、初めて「熱田空襲跡の碑」を訪れた。とるに足らないコンクリートの塊。ところどころにくぼみがある。それが、爆撃の跡。
恐る恐る手を触れて見た。満開の桜の下なれど、ヒンヤリと冷たかった。パンツ一丁の父を想った。その横でペコペコ頭を下げる母を想った。涙が出そうになった。が、あの殺戮を乗り越え、九死に一生を得て、小生を育ててくれた両親を思うと、泣いては申し訳ないような気がした。涙をこらえて勤務先へ急いだ。キャンパスには若い歓声にあふれていた。新入学生が加わって一段とにぎやかな雰囲気である。彼らはすぐ近くにある「熱田空襲跡の碑」を知ることなく、卒業していくだろう。

 「熱田空襲跡」の碑文
この護岸は、昭和八年に築造され、平成四年度から実施したマイタウン・マイリバー整備事業による新たな護岸の設置にあたり撤去したものの一部である。護岸表面に見られるくぼみは、昭和二十年六月九日の「熱田空襲」の爆撃によりできたものである。
平成八年三月 名古屋市

なんとも素っ気ない文章である。「熱田空襲跡の碑」も、護岸撤去の時、どうしても残さなくてはいけないという被害者たちの思いがあり、かろうじて残されたと聞く。もっと父に熱田空襲の話を聞いていけばよかったと思う。しかし、そこは、昭和の父と息子。満足な会話があるはずもなく、今思うと残念でならない。(終)


*この物語は、フィクションです。

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