バタースコッチの亡霊

"震災の時は如何でしたか?"

 お天気の話よろしく、2011.03.11以来の俺につきまとう、初対面での会話のキャッチボールの5投目くらいか。うんざりするけれど、良い話の取っ掛かりになるのだから仕方がない。

 世の中、記憶力の良い人もそんなにいるわけでもなし、頭の良い人はそんな他愛のない会話で貴重な記憶メモリを消費したりはしないだろう。それに、被災した人は大勢いる。このキャッチボールはしばらくテンプレート化され続けると思う。すくなくとも震災ベビーが二十歳そこらになるまでは。だから、いくら俺が懸命に話したところで”紛れる”だろう。そんなわけで俺はこのキャッチボールになると臨機応変に、その人の胸にめがけて良い加減なエピソード、コメディチックに誇張したエピソード、真面目なエピソード…etc. ホントの話なんてしたら、俺のほんとの話なんてしたら、忘れられてしまいそうで。

 ”存外、私は平穏無事でした”だなんて話で、あの震災で被害を受けなかった人に話せるのか?話していいのだろうか?俺の、その話だけが、その人にとって生で触れられる震災の事実だとしたら、それで満足してしまって、滅茶苦茶に悲惨な目にあった人が忘れられてしまわないか?そう思うんだ。

 とはいえ俺含め親族も家屋も幸いにも無事だったから良いものの、これで、もし俺が身内を亡くしていた場合に、この質問を受けたらどう思うのだろうか?ウンザリしていると言う割には俺だってウッカリこのボールを投げている。俺が平和だったばっかりに。震災については話したくて堪らない人もいるだろうし、一切触れられたくない人もいるだろう。俺が震災時の自分の状況に嘘をつくのは正直思い出したくもないし、一切合切が夢だと、今でもそう思いたいからだ。

 ちなみに悲惨なそれをタネにしてでメシを食っていく人もいることだろう。生きていくとはそういうもんだから。生き死にしなかったやつでもそうだろう。俺よりもっとひどいウソを、悪びれもなくつきながら。
 震災で生き残ったのに死んだ人もいるだろう。死ぬ理由になった人も。はたまたそれが生きる糧になった人も、社会的に生き返った人もいるだろう。東日本大震災と名付けられたその一撃のアタリっていうのは、そらもう、もの凄い。震災がなかったなら、俺は正直、紛い物だって言われているこの景気だってきたのかさえ怪しいと思っている。

 早いもので7年近く経つんだ。その後も色々なところで災害が起こったね。チャイナシンドロームとシン・ゴジラはよくできた映画だね。日々変わっていくことについて、日々そのことに気がついて生きていくことは難しいね。

 あの頃、書き殴ったメモ帳にこう書いてあった。

 ”この世の中の人、日本人に対して失望だ。主たる要因は義務教育とはなんぞや、ということだ。知っていた気がするけど。まるで子どもだ、子ども以下とは言わない、子どもだ。だが子どもではない彼らを許せない。これからも許せと言われても一生許せる気はしない。”

 「許し」とは諦めのことだろうか。慣れのことだろうか。それとも目を伏せるということか、または鼻をつまむということだろうか。俺が死ぬその時までということだろうか。この文面を書き殴った俺は今以上にガキくさかった。2011年3月の俺は2017年12月の俺になるとは考えていただろうか。

 鳴り止まない地鳴りと古臭い電池式ラジカセから流れてくるNHK、電気が復旧してテレビを点けたらハリウッド映画のように津波という名の絶望に飲み込まれていく生活のようす、流れる福島県民歌。自衛隊ヘリコプターの原発散水作戦、そして爆発、避難生活。蝋燭の火の灯りと、放射能を気にして、いつまでも干せない埃っぽくてカビ臭い布団、それにセブンイレブンのバタースコッチパンの匂いと味。そして線量計と息遣いのない土嚢だらけの営みの場所。

 何もなかったかのように生きて、都合の良い時だけ、すこし思い出す。今みたいに。こんな風に。そうすれば少しずつ減るのかなと思いながら。

”あの時に死んで新しい自分になったつもりで”だなんて決心もしてはみたけれど、結局は都合よく、俺も言い訳にしているだけ。もしも俺があの時に死んだのだとすればまさしく、俺が誰かに投げ返す震災エピソードよろしく、できの悪い冗談で分かりやすい嘘みたいだ。

忘れたいけれど、忘れられたくない、まるで亡霊のような…

思い出は水分が抜けていくようなもので、すっかり悲惨で忘れてしまいたいようなこと、うっかり一粒でも水が滴ちたら、溢れてきてしまうものなんだということ。
ハッキリと覚えているようで乾いているようで。そこに水を滴として見たら案外ボヤけてしまっているような。3.11。不完全なフリーズドライ。

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