ファン・ジョンウン『誰でもない』収録「ミョンシル」(斎藤真理子訳 晶文社)
好きすぎて何度も読み返しているお話。普段はしたことのない読書記録まで残すほど好きらしい。スマフォのメモ帳から転載。ミョンシルとシリーが死を迎えないために。
どんな話
主人公が、死別した恋人シリーに関しての物語を書き始める話。
5W1H
舞台は現代、おそらく2014年4月以降の韓国(セウォル号沈没犠牲者を悼んだ作品であると作者が来日した時に語っていたとのこと)ミョンシルという老女が、恋人シリーに思いを馳せ、シリーに関する物語を書き始めるまでのお話。
あらすじ
恋人シリーを亡くしてからというもの、恋人との思い出に満ちた家で三十年あまり一人で暮らしているミョンシル。過去の記憶を自身に残してはいるが、老いのために、過去の記憶と、現在とを関連づけて考えることができなくなってしまっている。自分の姉や姪のことも、昔の記憶のままの姿でしか認識できない。恋しくてたまらないシリーのことも例外ではない。ある日を境にシリーの写真を缶の中から取り出すことがなくなってしまったのだ。写真の中のシリーをただのインクの染み込んだ紙としか認識できなくなってしまったからだ。記憶の中のシリーと写真のシリーを結びつけられないほど老いがすすんでしまった。
それでも、シリーはかろうじて生きている。一度は肉体的に死んでしまったが、ミョンシルの中で生きている。しかしながら、ミョンシル自身が死を迎えた場合は、シリーは
二度目の死を迎えることになる、真の意味での死を迎えてしまう。
家にはシリーが残した膨大な数の本がある。作家を目指していた恋人は、その本たちに寿命を奪われたと憎むミョンシル。それらの本を読むために睡眠を削り、それらの本に伍する物語を書けないと神経をすり減らし続けたのである。生まれつき肺が悪いシリーにとっては十分な負担であった。しかしミョンシルは今でもその本と暮らしている。本だけでなく、生前シリーが使っていた机と椅子と共に暮らしている。いつかは死んだシリーに会えるという物語にすがって生きている。その物語は生前シリーが語ってくれた物語である。背の高い草原の中で死んだ恋人を待つ女性のお話である。一人ではない、傍らには机と椅子が居る。有るではなく居るである。旅先での失せ物一つにさえ、心を痛めるシリーだからである。自分の財産を失ってしまうために嘆くのではない、失せ物たちは知らない土地で唐突に理由もなく、置いてきぼりにされ風雨にさらされ一人震えているのだから、さぞかし心細いだろう、と心痛めるのである。
あと何度の冬を迎えられるだろうと自問するシリー。シリーはミョンシルに関する物語を書き始める。
この物語が好きな理由
人間の存在のはかなさや無情が美しい文章で描かれている。ただ、うちひしがれるのではなく、そのはかなさ故に人は物語を作り、それにすがって生きてゆくと述べている。ささやかな救いや寄辺が示されている。押しつけがましくなく声高でもないが、説得力をもって語られる。また、痛ましい事故や事件、災害、不幸を乗り越えるために、人は太古から物語を紡いでいたのではという示唆が示されているのではないだろうか。セウォル号沈没事件によって負った作者自身の傷と向かい合う様も示しているのではと想像する。
特に、この物語が好きな理由は、痴呆が進行しているミョンシルの現在の様子と、対をなす、若くて幸福な時代と季節が、淡々と描かれているところだ。淡々と描いているが故に現在のミョンシルとの対比が際立ち、心打たれる。また、痴呆の様子が大仰な出来事でもって描かれているのではなく、日常のなんてことのない言動の隙間に前触れなく、あたかも予定されていたかのように滑らかにあらわれる様が描かれている。この静謐な残酷さにも心惹かれてしまう。
自分に残された時間がないと気づきつつあるミョンシルが、恋人シリーに関する物語を書き始める意味を考えると、胸が苦しくなる。あくまで私の個人的な感想だが、自身の死は受け入れるしかないと諦めたミョンシルだが、恋人の死だけは受容できないのではないか。二度目の死を。真の意味での死を。
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