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森本薫の台詞・世界の奇妙さについて

これまでの記事では『女の一生』というひとつの作品について書いてきましたが、今回はその作家である森本薫について紹介し、さらに森本薫の台詞・世界の奇妙さについて書いてみます。

森本薫とは?

森本薫は第三高等学校(後の京都大学)在学中から劇作を発表しはじめ、のちに岩田豊雄(獅子文六)の薦めで文学座に入座、数々の作品を執筆します。1946年に34歳という若さで逝去したため、作品数はさほど多くは有りません。牧羊社の『森本薫戯曲全集』は一冊本として刊行されています。生れは1912年ですから、学生時代から執筆を始めた森本薫の劇作活動はいわゆる十五年戦争といわれる時期とほとんど一致していることになります。

森本薫の作風

森本薫はノエル・カワード、サマセット・モームらのイギリス風俗喜劇に影響を受けて劇作を行いました。ウィキペディアには「機知に富んだ心理描写にすぐれた作品」と書かれていますが、一般的な評価としてそれで間違いはないでしょう。森本薫の作品は文学座への加入を契機として、前期と後期という風に大きく分けられることが多いのですが、前期の代表的作品である『華々しき一族』の冒頭はこんな感じで始まります。

  川に臨んだコテージ風の住居の一部分。
  川を見下ろし、二階への階段をもつ。
  六月の末、その晴れた一日、午後四時過ぎ。
  須貝、未納、二人共軽装。
須貝 (椅子に掛けて、ラケットをいじくりながら)兎角(とにかく)、一遍でいい、陽に向って勝負をしたまえ、それから、あなたの打ったような球を留めてみ給え、それからの話だ。
未納 だって、勝とうと思ったら、誰だって……難しい球打つわよ。
須貝 僕があんなボールを打てないと思ったら間違いだぜ。わざっと打たないだけの話さ。
未納 (窓の傍で)御覧なさい。須貝さん。
須貝 何が見えます。
未納 そんなところで、何か言ってないでさァ。
須貝 言い給え。
未納 用心深いのね。
須貝 猫がいる! それとも犬か?
未納 お洗濯の連中よ、また引っ張られてくらしい。
須貝 珍らしくもない。
未納 珍らしいものなんて、言ってやしないわ。
須貝 一晩睡(ねむ)ると、また、バケツを提げて集って来るよ、きっと。
未納 ああ言うのは、仕方がないのね。
須貝 連れてく方でも持てあましてるんだろう。
未納 直ぐ還して貰えるもんで、馴れっこになってるんだわ。
須貝 尤(もっと)も、有り余ってる水だから、洗濯もしてみたくなるか。どうだろう、あの川、泳げるかしら。
未納 泳ぐつもり? 須貝さん。
須貝 風致保存区域だって、泳ぐぶんには差支えないだろうな。

映画監督が住むコテージ風の住居で繰り広げられる恋愛ゲームの物語を「華々しき」と形容しているのですが、彼らの会話はいまの感覚からするとライトノベルかなにかに登場しそうな会話に感じます。ここだけの会話を読んでも、森本薫の台詞が、まったくバタ臭くなく、清涼な空気が流れている、とてもモダンな物だということがお判り頂けるかと思います。『華々しき一族』が書かれたのは昭和10年です。

リアリズムの裏にある奇妙さについて

森本薫の台詞はリアリズムのひとつの到達点として評価されていますが、そのリアリズムがどういったものだかを示すとても特徴的な話題があります。以下は大笹吉雄『ドラマの精神史』からの引用です。

『華々しき一族』や『みごとな女』、あるいは『かくて新年は』や『退屈な時間』で描かれたような家庭に関して、かなり有名なエピソードがある。京都の読者は東京にはこういう家庭があるのだと思い、東京の読者はその逆のことを想像したが、実はそんな家庭など日本のどこにもなかった、というものである。

森本薫のつくりあげる世界は、どこかに有りそう(リアリズムに感じる)なのにも関わらず、「日本のどこにもなかった」。つまり、森本薫の台詞や世界は、実はとても「人工的なもの」であるということです。これが森本薫の戯曲の奇妙さのひとつです。

その「奇妙さ」のとある側面――岸田國士の評価

その「奇妙さ」のゆえんはどのあたりにあるのか。
森本薫は『劇作』という雑誌にいくつかの作品を発表しますが、『劇作』のブレインであった岸田國士は「森本薫君について」というエッセイの中で、「森本君のリアリズムが、最も近代的な感覚の領域に足を踏み込んでゐます」と書きつつ、最後にこう評しています。

作品の冷たさといふものは、いろいろの原因がそれぞれの作家にあるでせうが、森本君といふ人は感情の豊かな人ではなかつたやうです。むしろ感受性の人だつたと思ふ。彼の作品の魅力は、理智的なものと、鋭くて柔軟な感受性のアヤであつて、ほとんどといつてよいほど感情は湧き出してゐない。冷静といふのでは決してありません。いらいらしたもの、好奇心といふやうなものは、むしろ非常にある。感受性がいつもピクピク動いてゐる。いろいろの対象によつてその感受性が動揺してゐて、何時でも何かの反応を見せてゐるので、冷静とはいへないわけです。普通われわれが俗に使つてゐる言葉でいふと神経質、あるひは神経過敏といふものに近いものがあると思ふのです。

感情は湧き出しておらず、好奇心が非常にある――。

いままで何度か岸田國士「森本薫君について」を読んでいましたが、この最後の部分に引っかかっていませんでした。このあたりの「奇妙さ」を今回の上演では意識的に取り扱ってみようと、いろいろ試行錯誤しています。

台詞のレベルで言えば、「異様なほどの語尾の長さ」と主語である「私」のつかい方にヒントがあるように考えていますが、そのあたりはまた別の機会に。

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ドナルカ・パッカーン
日本文学報国会による委嘱作品
「女の一生」
―戦時下の初校版完全上演―
作:森本薫 演出:川口典成
2019/11/6-10 @上野ストアハウス
https://donalcapackhan.wordpress.com/

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