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今野勉「一宿一飯」

江戸時代から続いていた炭坑夫たちの互助組織である友子制度において起きた「事件」をめぐる推理劇の体裁をとっている。実際におきた事件を叙事演劇風に描く劇中劇構造を持ちながら、事件当事者たちの子孫たち(それは俳優自体である)がその事件を推理するという誂えである。
叙事演劇においては、ドラマ演劇における登場人物達のキャラクター造形の一貫性や筋の統一から離れることによって、登場人物達の責任の「決定不能性」という要素が介入するが、これらの「決定不能性」を上演の場において表象するために、配役の偶然性や上演時に流れている実際のテレビジョンを見る俳優などという要素が取り入れられている。
だがここで重要なのは、「決定不能性」を表象する仕掛けとして演劇上演の場における「偶然性」を書き込んだことにより、実はその劇中劇と劇、現実の友子制度における事件の当事者と俳優などの間に「連関」が発生している。そしてその「連関」の手抜かりのなさは見事に「決定不可能性」を表現しているのだが、一方で、見事であるからこそ、「連関」が世界の全体性を担保してしまっている。
ドイツロマン主義が標榜したような「無限反省」に近い形での「全体性」だとも言えると思うのだが、つまりはどこまでもその構造が他の要素を自らに回収してしまう自己完結的な構造をしているがために、観客という要素は「全体性」のなかに位置づけられた固定の存在以上の価値は持たない。「可塑的部分」として位置づけられている「部分」は「全体」に対する「部分」でしかない。
しかし興味深いのは、このように脱構築的に「決定不能性」(解説者「(観客と舞台の両方にかけて)ふりかえる時点によって、事実は刻々と変貌して行くということを彼は言いたいのです」)を表現する劇が最終的にたどり着くのは、当事者達による叫び(「顔が喰いとられでいぐーー顔が焼けでいぐーー顔がつぶされでいぐ」)であるという点である。まるで「決定不能性」には耐えられないとでもいうかのように、その叫びはある。
「近代的自我とは淋しいものだ」と言ったのはオウム事件に際しての橋本治(『宗教なんてこわくない!』)だったが、叙事演劇もポストドラマ演劇も「淋しいものだ」なのかもしれない。だとすれば、叙事演劇やポストドラマ演劇に叫び(それは他者への呼びかけではないもの)やメロドラマを導入してしまう演劇の論理的「不徹底」を嘆くよりも、「淋しいものだ」といってそれを肯定してみてもいいのかもしれない、と思わなくもない。
※(『季刊同時代演劇』一九七〇年第二号発表、『現代日本戯曲大系』第7巻所収。)

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