無地の白封筒探しています
・何かを表現することにおいて、最も大事なのは精度だと思っている。
表現の目的自体はどこにあっても良いと思っていて、ただそれを達成するための手段/アプローチに、精度の低さや不誠実さが伴ってしまうと、良くない批判を浴びることになる。
これに対して「精度の低さも、この表現の目的なんだ」とそれを丸ごと目的として括ることで反論できそうな余地がある。しかしそれなら、そのようなややこしい表現をしているという、目配せや配慮が無ければならない。ここを見過ごしている人が多いなと思う。
例えば、ある人が補助なしで高い梯子を登っていたとして、それを見た人が「補助なしだと危ないよ」と批判をした場合、
それに対して「この梯子はバランス感覚を鍛えるトレーニングでもあるんだよ」と反論することはできる。しかし、それならそもそも、足下に落ちても良いようにマットを敷いてなければならないという話が起こる。もともとマットが敷いてあればそれを見た人も「マットがあるってことは落ちることも想定した何かをやっているんだな」と気づいて、いらない批判を加える必要もなくなるわけで。
SNS上で、悪い意味で目に付く態度を取っている人は、この場合が多い気がする。
露悪的なことをする自分に、批判が来るのを想定して正当化する理屈を準備しているものの、そこに配慮や目配せがなく、どうしようもない隙がある。だから悪い態度をSNSでとるのはやめたほうがいいのだろうな、と思う。その隙を埋めていく作業はかなり途方もないので。
SNSでは、隙があっても、そもそも刺そうと誰にも思われないようにいたほうがよっぽど良いと思う。
どうでもいい話をしてしまった。
・3/27。未明2時。
退勤してから何にもできておらず、このまま寝るわけにはいかないと、退職願いを用意しようと思った。
退職願を準備するにあたり、セブンイレブンでネットプリントをしてきた。字が汚いのでワードでテンプレートをDLして作ることができて本当に助かる。ここしばらく文字の練習ができていない。自分は2年くらい前から、本を読んでいて心打たれた一節を見つけた時、それを写真に残して後日写経するというフローをとって練習の機会を作っているのだが、練習する文章のストックばかりがフォルダに溜まってしまっている。
こういうやろうと思ったことを綺麗に実行できないのは非常にだらしないと思う一方で、人間的振る舞いだなあと叙情に浸ってしまう。でもこれも良くない開き直りというか。こればっかで反省ができない数年な気がする。いい加減叙情の優先順位に気をつけて、しっかりしていきたい気もする。
退職願をプリントした後、入れるための無地の白封筒を買おうと思ったのだが、そのコンビニには郵便番号枠付きの封筒しかなかった。どうやらマナー的にそれだと良くないらしく、他の近くのコンビニもまわって無地の白封筒を探し回った。
コンビニを5件くらい回っても見つからず、ドンキホーテも見たが見つからなかった。こんなに無地の白封筒って無いのか。
深夜の街をこうやって徘徊していると、道に停まっている車の大体は、ゴミを回収する車か品物を納品する車しかないことに気づいた。
神社の横に、白い布で荷台を大きく囲んだ初めて見るようなトラックが停まっていた。産業廃棄物収集の文字が書いてあって、「神社から産業廃棄物なんて出るのか〜」と思った。怖すぎてそれ以上考えないことにした。
気づいたら家に帰る頃には3時15分になっていた。ニューヨークと赤嶺総理のトークラジオを流しながら眠りに落ちた。
朝は少し早めに起きて、見つけることのできなかった無地の白封筒を百均のキャンドゥに探しに行った。出社前に開店している文房具屋はなかった。
しかし見たところ、無地の白封筒は置いてはあるが横開きの洋封筒だけだった。
もうさすがに、腸が煮えくり返してやろうかと思った。
世の中どれだけ人に退職願を出させないつもりなんだ。無地の白封筒が軽んじられすぎている。
世の中には会社の数以上に退職願を出す必要に迫られている人はいるはずだ。それこそコンビニは退職したくなる人なんてメチャ無限湧きのはず。すぐに退職願を描けるように無地の白封筒をなぜ取り扱わないんだろう。目の前にある需要を無視するな。いや、そもそも文房具屋に退勤後に立ち寄れる時間に終わらない弊社がカスすぎるんだよな。ぶちころぶちころ。
結局、会社に出社する途中でコンビニに郵便番号枠つきの白封筒を買った。諦め。妥協。
ジャニスジョップリンの名言に「あなたはあなたが妥協したものになる」というのがあったが、なかなかに普遍的につきまとう認識論だなと思う。
「あなたはあなたが妥協したものになる」というのもいささか妥協した結論だと思うと、また可愛げがある。自己言及のパラドックスに陥らないタイプの優れた自己言及なのかもしれない。
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