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『カビリアの夜』(1957)

すごい映画だと思った。

主人公 カビリア(ジュリエッタ・マシーナ)は、ローマの外れの、荒野みたいな所のあばらやに住まう娼婦であり、冒頭では悪い男に騙され、川に突き落とされる。地域住民に救われて一命をとりとめるんだけれど、ちっとも感謝することなく、憤然として家に帰り、男の写真を燃やして泣き崩れる。現代で言う所の、ボーダーラインというか、恋愛体質というか、なんとも情緒不安定な人だ。ただ、泣きながら(猫とか、犬とかでなく)鶏を抱きしめる姿に、なんともいえない愛おしさを感じる。

ローマの通りで、娼婦仲間とマンボを踊り(その踊りの、妙なキレの良さが、なんだか、すごいのだけれど)、侮辱されれば、鼻血を流しながら乱闘する。その姿の生命力、画面から溢れかえるような、猥雑なエネルギーには、息を呑むような迫力がある。

そんな、低俗の極みのような所にありながら、どこか純真さを失わないカビリア。サーカスで催眠にかけられ、その純粋さを期せずしてさらけ出してしまうシーンの美しさには、太宰治言う所の、「俗天使」という感じがある。

「俗天使」「聖なる白痴」的なモチーフの類型として、ラース・フォン・トリアー監督の『ダンサー・イン・ザ・ダーク』とか、『奇跡の海』を思い出したんだけれど、『カビリアの夜』では、フェリーニ監督の、野太い生命力そのものというか、『8 1/2』の、「人生はお祭りだ/共に生きよう」的なメッセージが根底にあるのを感じる。

個人的には、断然こっちのほうが好きだった。

『ダンサー・イン・ザ・ダーク』や『奇跡の海』を観た時、そうか、芸術においては、必ずしもラストに「救い」がなくてもいいんだな、と思ったものだった。実際、思春期などにおいて、人は、「救いのなさ」を描く芸術、というものに惹かれがちではないだろうか。あるいは、「救いのなさ」を祝福するような作風だってあるだろう。インスタントで、紋切り型の「救い」に溢れた表現が氾濫しているのだとすれば、「救いのなさ」を描く方が高尚な感じがするし、そういうのに、(逆に)救われる人もあるのかもしれない。

ただ、年老いた今思うのは、むしろ、「救いのなさ」の方が、非常にありふれたものではないだろうか、ということだ。

純粋なカビリアは、その純粋さが故に傷つけられ、湖のほとりで、「もう生きていたくない」と、うめきながら、のたうち回ることになる。『人間失格』の「神に問う。信頼は罪なりや。果たして、無垢の信頼心は、罪の源泉なりや。」という一節を思い出すような展開だ。思えば、フェリーニの『道』も、ザンパノが浜辺で、あまりの悲しみに、のたうち回るショットで終わったはずだ。なんという悲しい話だろう…と思うんだけれど、一段落すると、カビリアはよろよろと身を起こし、山道みたいな所に出る。すると、そこではたまたま結婚式の後のパレードみたいなことをやっていて、期せずして、そこに紛れこんでしまう。結婚式の楽団の演奏と、ニーノ・ロータの慈しむようなストリングスの音色に載せて、カビリアはそっと微笑んで、こちら側を見つめる。

カビリアのほほえみ

そのラスト・シーンでは、結局、何も解決していない。カビリアは、もともとの悲惨な状況から、一連の出来事を経て、さらに悲惨な段階に落ちているように見える。そこにはある意味、全く救いがないのかもしれない。ただ、話はそこでは終わらないということ。そこでは、救いの可能性が、カリビアの表情と、音楽と、ショットだけで示唆されている。

これぞ、映画だ。マーティン・スコセッシ風にいえば、This is Cinema!だ…と思わされる。

あと、その「救いの可能性の提示」が、サーカスめいた楽団の演奏というか、お祭りっぽい雰囲気で行われるのがいいな、と思った。

思えば、先週、夏祭りがあったんだけれど、中年のおっさんたちが、神輿をかついで、ワッショイワッショイ言いながら眼の前を通り過ぎていくタイミングがあって、それはすごい迫力だった。そこでは、聖なるもの(神様が入っている(?)という神輿)と、俗なるもの(半裸で上気したおっさん)が、ぶつかりあっていた。結局馴染めずに、家に帰って映画(『テオレマ』)を観ていたんだけれども、それでも、素晴らしいと思った。「人生はお祭りだ/共に生きよう」とは、こういうことなんだな、と思った。

もっとフェリーニの映画を見ようという気持ちになった。






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