見出し画像

「モモ」/ミヒャエル・エンデ

数年前から、「人心が、荒廃している」…と感じる事が多くあります。

特にそれを実感するのが、X(旧Twitter)の「おすすめ(For You)」の項です。

自分は、大学生の頃からTwitterのアカウントを持っていましたが、当時は、友達が、「今起きた」とか、「飯食った」とか呟くのを見て、おぉ、そうか…と思うだけ、という非常に小規模なものでした。ただ、それによって、生きることの孤独感がまぎれる、というような効能があるような気がしていて、こりゃ、画期的なSNSやがな…と思っていたのですが、いつ頃からか、大規模な災害が起きた時に有用性が話題になったり、「朝起きてながめるTwitterのタイムライン、それこそが、その人にとっての『朝刊』なのだ」みたいな事が言われるようになって、それはまぁ良いとして、終いには、イーロン・マスクが参入し、いつ頃からかデフォルトで画面を開くと、フォローしている人たちではなくて、「おすすめ」のタイムラインが表示されるようになりました。

「おすすめ」のタイムラインも、人によって出てくる投稿は違うのでしょうが、そこに横溢するヘイト、悲惨な事件、剥き出しの自己顕示欲、さらには、自己顕示欲ですらない、インプレッション稼ぎのbot?のようなアカウントの氾濫を見ると、あるコメディアンが、現代の社会の状況を指して使った、「circling the drain」という表現を思い出します。つまり、まさに、キッチンシンクで、ぐるぐると周りながら、速度を増し、排水溝に吸い込まれていく汚水。我々の人間性は、現在、そういった状況にあるのではないか…ということです。

「自分がフォローしている個人的な範囲」だけを見ているのではなく、もっと広い世界に目を向けろ!みたいな考えが、イーロン・マスクにはあったのかもしれません。ただ、結果的に、それで呈示されるのが、こういった悲惨な光景であるというのは、どうしたことだろう。あるいは、イーロン・マスクは、作為的にそれをやっているのではないか。イーロン・マスクこそ、『モモ』における、灰色の男そのものではないか、と思わされました。

また、『モモ』を読んでいると、つい先日(お勧めされて)読んだ、藤原正彦さんの『国家と教養』の資本主義についてのくだりを思い出しました。

「(資本主義発展の最終段階では)精神のない専門人、心情のない享楽人、など無なる人々が、自分たちは人間性のかつて達したことのない高みの上りつめた、と自惚れるだろう」

「ここで具合の悪いことは、経済が独立した事象ではなく、社会や精神にまで直ちに強い影響力を及ぼすということです」

あるいは、なんとなく、宮崎駿監督の作品を思い出しました。(「ジジ」なるキャラクターが出てくるせいかもしれません。)

『君たちはどう生きるか』を去年観て、感銘を受けて、パヤオと養老孟司さんの対談本(『虫眼とアニ眼』)を読んだりしたのですが、そこで、パヤオ(と養老孟司)は、現代の人間像というものに非常に危機感を抱いていて、子どもたちが自然というか、土とか、虫と触れ合うなかで、人間性を回復するような状態を夢想していました。

実際、我々は、宮崎駿の映画で描かれる、『となりのトトロ』の田舎の人々とか、『魔女の宅急便』のこじんまりしたヨーロッパの街で暮らす人々、とかを見て、あぁ、いいな、と思うわけですが、それは、失われた時代への郷愁でしかないのかもしれません。今後、我々がそういった状態に帰ることは絶対にないように思われるからです。

ただ、X(旧Twitter)の「おすすめ」欄をみて、気が滅入ることがあっても、それで人間性全体に幻滅を覚えるとしたら、それは端的に間違っているのでしょう。現実の人間というのは、基本的には、とても魅力的なものだからです。「現実の人間が、基本的には魅力的なものである」というテーゼをどこまで信頼出来るか、ということになってくると思うのですが、人は、「世の中の人間の考えというのは、Xの「おすすめ」欄的にどうしようもないものである」という考えと、「現実の人間は、基本的には魅力的なものである」という考えの間を、永遠に行ったり来たりしているようなものではないでしょうか。という意味では、『モモ』を読んでいるとポジティブな気持ちになります。「モモ」のように人々の語りに耳を傾けることで、何か、より良い地点に行けるような気がするからでしょう。

だからこそ、将来自分の娘が長い本を読めるくらいになったら、そっと『モモ』を差し出したいようにも思いましたが、なんだかな、裏表紙に対象年齢小学5-6年生、って書いてるけど、小5で『モモ』読んで楽しいもんかね、という、疑念を感じました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?