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「自分らしさ」の罠

「自分らしく」「他人と比べずに」みたいな言葉が最近若者にウケている楽曲にはよく入っているように思う。

「自分らしく」「他人と比べずに」といった言葉の言いたいことは理解できなくはないが、このような言葉を耳にして「あ!そうなんだ!」という薄っぺらい感覚で「自分らしく生きよう」とかいう人を見るとどこか危険だなと思ってしまう。

「私は私」「自分らしく」「他人と比べずに」この3つはそれ単体で見るとそれっぽく見えるのだけど、3つの言葉をつながりで考えると違和感を感じるのは自分だけだろうか。

まず思ったことは「自分らしく」とは「他人と比べる」ことを通してしか確認することが出来ないのでは無いか?ということ。

「自分らしく生きよう!」となんかそれっぽく言っている人に「じゃあ、あなたの『らしさ』って一体なんなんですか?」と聞くと、だいたい答えられない。

**なんか浅はかじゃないですか? **

だって、自分とは何かを知らずに「自分らしく」とか言っちゃうんですから。

私は、「自分らしさ」というものは他者と真剣にぶつかり合い、そこで出会った言語化できない感情と自己とを向き合わせ、苦しみながらも言語化したときに現れるものだと思っている。

そういった過程を経ずに「自分らしさ」「他人と比べずに」という言葉を鵜呑みにするのは『自己欺瞞』だと言わざるを得ない。

有名な古今和歌集「仮名序」にはこう書いてある。

やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれにける。世の中にある人、事業(ことわざ)、繁きものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり。


まさにこれは私の言いたいことを端的に表している。

私たちの心を植物の種として、地中にある見えないものが心であり、それを言の葉として地表に芽として現れた時に心というものが目に見えるようになる、と言っているのだ。

自分のものにするというのは、言葉にできるということだと私は考えている。

つまり、言葉に出来てないものはその実態を把握出来ていないのと同じであるということ。

だからこそ私たちは常に他者と、時には自分自身と向き合い、そこで感じたものを言葉にする作業を行わなければならないのだと思う。

言葉にすることが出来た時に、あなたは自己をあなたとして認識するのであり、それ故に私は私であると言いきれるのだから。

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