死ぬのそんなに怖くない

いつか死ぬことを考えると虚無感に苛まれる、といった趣旨の話を聞いて、私も自分が死ぬ日を思って泣いたことがあったなと思いだした。

死ぬのが怖いとして、その理由は何だろう。
私の命と同時にこの世界が終わるのなら、私は死ぬことにそこまでの恐怖を感じない。
私が本当に怖いのは、私が死んでも、何事も無かったかのような顔をしてまた同じような朝がくることだと思う。

誰が亡くなってもやがては日常に戻ることができた。祖父が亡くなったとき、同級生が亡くなったとき、その経験を肉や骨としながら、泣いて喚いてそれでも受け入れてきた。
忘れたことも沢山あるだろう。美化した記憶だってきっと山程ある。
そして夜は明けてしまうから、無理やり朝食を胃に押し込んで外に出る。

死を考えるとき、命の価値についても考える。いつも流動的で不確かで、極めて主観的な値踏みが為される。平等なんて大嘘だと叫びたい夜を何度過ごしただろう。
価値などなくても呼吸はできる。わかっているのに、靴擦れだらけの足を引き摺ってまで追い求めたくなるのは、それが生きる意味や理由だと言い換えられるような気がするからだ。

いつか私が死んだとき、あのときと同じ、或いはもっと軽いノリでやってくる代わり映えしない夜明けに、人生をかけて探していた自分の価値みたいなものを無かったことにされるような気がするのだ。
お前の人生こんなものですよ、なんて言われても、死んでからでは否定もできない。
そしてその朝日が、人生をかけた血の雨が、私にだけ降り注がないことも虚しく思える。

でも同時に思う。
自分が終わることが悲しいか、自分が終わっても始まる日々が悲しいのか。
さして区別がつかないのなら、区別など必要がないのなら、生まれ、生き、死んでいくこと全てが、光だと言い切ることができるような気がしてしまう。
死は陰りか、終焉が本当に終焉だとして、襲ってくる感情をいつか整理できることに対する悲しみに今更何の用があるか。

命に価値などない。
ただ、これまでの日々がいつか完結する自分の世界の中で光へと変えていける確信があるのなら、自分の価値などを確かめなくとも、心から自分を愛せるように思う。
その愛する気持ちすら変わってゆくものでも、死んだあと誰に忘れ去られようとも、私が生きているというだけで既に光の中にいると信じていてもよいのではないだろうか。

虚しさに内包されることもなく、とうに満たされたこの日常で紡ぐ価値もその空気に溶け出していく。そしてその全てが光だと思えるなら、私が死ぬことも、それに伴わない夜明けも、また始まる日常も、そんなに怖くなかったりする。

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