質問(23/7/13講義①)

みや竹:アップデート本8頁3行目に「現にたとえば江戸時代には起こっていなかった」とありますが、それはなぜわかるのでしょうか。もし「なぜなら覚えていないから」という理由であれば、「忘れてしまっている」という可能性はないのでしょうか。(江戸時代に生きていたAさんが〈私〉であったという可能性はなぜあらかじめ排除されているのか、という質問です。)
のちに「(記憶により成立する)持続する私」と「客観的世界の成立」の相補性が検討される際に「江戸時代にいた(今の私と記憶の繋がりの無い)〈私〉」は否定されると思いますが、この〈私〉の導入の段階でそれが否定されなければならない理由はなく、むしろ、「15世紀でも25世紀でもない20世紀に生まれたこの人間が私である以上、「この期間にだけ起こっている」ことは当たり前ではないか」との疑問を排し、〈私〉の存在の「偶然」性を強調するためにも、この段階では、「圧倒的に不思議なこの〈私〉は、過去にもあったかもしれないし、未来にもいつあるかわからない。」としておくべきなのではないか、という疑問です。

永井:「現にたとえば江戸時代には起こっていなかった」という理由は、普通の人がそう思っている、ということです。本当にそうであったかどうかは、ここでは議論されていません。普通の人が普通に思っていることを前提にして問題の意味を理解してもらうということがここでの主眼です。そこを懐疑する議論をここに(早くも)入れてしまうと、問題の説明ははるかに困難になります。そういう問題は、いったん問題を理解した後に、理解した人に向けてなされるべきものなのです。
のちに「(記憶により成立する)持続する私」と「客観的世界の成立」の相補性が検討される際に「江戸時代にいた(今の私と記憶の繋がりの無い)〈私〉」は否定されますが、その際には江戸時代に生きていたAさんが〈私〉であったという可能性があることが(少なくともひとたびは)理解されなりません。そうでなければその議論は無意味なので。
というわけなので、「この段階では、「圧倒的に不思議なこの〈私〉は、過去にもあったかもしれないし、未来にもいつあるかわからない。」としておくべきなのではないか」というのは間違いで、それはこの(いわば初級の)段階ではなく、むしろいわば中級の段階の問いである、ということになります。

スラベス:白本9頁1行目「論じるべき問題は、じつはその正反対のところにあった。それは、私の提起した問題を別の問題と取り違えず、正しく理解する人がいるのはどうしてなのか、という問題であった。」の箇所で、先生は「この問題は全然哲学的な問題ですね」と仰り、続けて「私が最初に提起した問題、〈私〉という特殊なものがどうして存在できるのかという問題は、解明が不可能かもしれないという疑念を持っている」と仰いました。聞き逃したかもしれませんが、なぜ解明不可能と思われるのでしょうか。問答無用の単なる奇跡、だからでしょうか。
そして、この論点は黒本10頁4行目の「なぜそんなことが可能なのか、なぜそれが可能な構造をしているのか、その理由を知ることは例えできなくても、その構造そのものをより深く理解することはできる」の部分と関連しますでしょうか。「その理由を知ることはできない」という点で。初歩的なことかも知れませんがご教示いただけますと幸いです。

永井:すべて、仰る通りです。 

晃太郎:たくさんいる人間の中から〈私〉を選び出すのに、「本当に感じる痛み」などの感覚を頼らざるをえないのはなぜなのでしょうか?無内包であるはずの〈私〉が「痛み」という感覚によって捕捉されるのは背理ではありませんか?

永井:感覚を頼る必要はありません。むしろ最も重要な役割を演じるのは記憶(精確には記憶印象)の存在です。
しかし、かりに感覚に頼ったとしてもべつに問題はありません。無内包であるのは、〈私〉の事象内容の側でなく、〈〉、つまり「しかなさ」の側だからです。他人たちにもごく普通に「痛み」があることはこの議論の前提です。

※『〈私〉の哲学をアップデートする』(黒本) 序章、および『〈私〉の哲学を哲学する』(白本)序章


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