質問(22/5/20講義)③

のりぴけ:第2回(18~)19段落に関する質問です。
人称に関する累進構造図の最上段は〈私〉-〈他者〉であり(これは正しい把握でしょうか)、それを〈現実性〉-〈可能性〉の累進構造図に重ねるとしたら、19段落に出てくる「可能世界の私(これを●で表します)」は、累進構造図の2段目の現実性に重なるでしょうか? つまり、最上段を①、2段目を②で表せば、〈①現実性〉-{〈①可能性〉-②現実性/②可能性} において、●は「②現実性」にあたるでしょうか? (分かりやすく書き表せず申し訳ございません。)
これに対して、最上段にある〈他者〉もまた「可能的な私=《私》」(これを○で表します)であり、以上が正しいとすれば、少なくとも2種類の「可能的な私=《私》」が存在します。
(すでに質問をしていますが、さらに)そこで質問が2つあります。

1つ目です。●と○の意味が分かるためにはどちらを先に理解できていなければならないでしょうか? たとえば、○(=他なる〈私〉=《私》)をただの物体としてではなく、心や感覚などを持つものとして理解できるためには、先に●を理解できていなければならないでしょうか。●が理解できたうえで初めて○の意味(など)が理解できるのでしょうか(○にも第一基準を適用して理解できてしまえるのは、●をまず理解できているから)。あるいはその逆で、○の意味が理解できて初めて●を理解できるでのしょうか(こちらの理路は無理筋っぽいですが)。あるいは、このような理解とはまったく別の仕方での理解でしょうか。

2つ目です。いわゆる「独我論」と言われている論は、「●は認めるけれど、○は認めない(あるいは、理解できない、理解できてはならない)」という立場でしょうか? もしそうであれば、累進構造図の2段目以降の「可能性」や「私」のみを認める立場となりそうですが、そのように最上段の一部は飛ばすけれども2段目以降のそれは認める立場なのだとしたら、かなり「ユニーク」な論であり、理解の仕方にいくらかの「欠陥」がないとこの立場には立てないように思います。

永井:1つ目に関しては、その二つは区別すべきではない(あるいはじつは区別できない)というのが、おそらく私の見地であろうと思います。なぜ「おそらく…であろう…」などと曖昧なのかと言えば、想定を正しく理解しているかどうかがわからないからです。2つ目に関しては、そこから自ずと明らかだと思います。

〈神〉と夢についての質問は、その想定は意味は理解できますが、どのような哲学的な意味があるのか(=どのような哲学的問題を解明する手掛かりとして使えるのか)がわからないので、回答できません。たぶん何にも使えないように思われます。

※関連リンク「哲学探究3 第2回」


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?