質問(23/8/3講義②)

みや竹:
白本(復刊本)26頁の、「痛み」という言葉の意味の習得過程に関する議論についての疑問

1.超感覚生物の例
(1)仮に人類が、「哲学探究2」261頁後半で想定されているような、例えば他人の体に手を当てれば他人のその部分の痛みが(手を通じて)直接感じられる生物(超感覚生物)だったとする。
(2)そのような生物において、「痛み」という言葉の意味はどのように習得されるか。一歳児が転んだ時、親が駆け寄り、子供の膝に手を当てると、確かに痛い。これを確認したのち、親は、この子に「痛い」という言葉を習得させる機会だと考え、「あなたが感じてるその感覚、それを「痛み」というのよ」との意味で、「痛いね、痛いね」と言い、子供は、「ぼくが感じてるこの感覚、これを「痛み」というのか」と理解し、「痛み」という言葉を習得するだろう。
(3)ここに第一次内包が登場する余地はない。ある感覚は直接指示され、名前が与えられる。例えば親が、子に熱や外傷や・・・が一切ない状況下で、たまたま子の頭に手を当てた時、そこに痛みがあることを発見すれば、その痛みを直接指して、「痛いね、痛いね」と言い、子に「痛み」という語を習得させることができる。

2.子育てロボットの例
これに対し、たとえば育児の一切を任された(自身は感覚を有しない)子育てロボットが、(通常の人類の)一歳児に「痛み」の語を教える場合は事情が違う。子育てロボットは、人間の感覚が分からないから、子が痛みを感じているであろう状況を捉えて、痛みという語を教えるほかはない。たとえば子が転んだ時に、「私はこの子の感じている感覚がどのようなものか全く分からない。全く分からないが、ただ、このような状況下(転んで擦りむいた)で、この子が膝に感じているはずの感覚を「痛み」と言うのだから、そのことをこの子に教えよう」と思って、「痛いね、痛いね」と言うのである。

3.我々は、この問題においては、超感覚生物類似である
人類はどちらか。明らかに前者だろう。転んだ子供を助けた親は、別に懐疑論者ではないのだから、「私はこの子の感じている感覚がどのようなものか全く分からない。全く分からないが、ただ、このような状況下で、この子が膝に感じているはずの感覚を「痛み」と言うのだから、そのことをこの子に教えよう」と思って、「痛いね、痛いね」と言うのではない。「この子も、このような状況下では、自分が感じるであろうあの感覚を当然感じているだろう」と疑いなく考え、その感覚を指して、「あなたが感じてるその感覚、それを「痛み」というのよ」との意味で、「痛いね、痛いね」と言うのである。そして子供は、「ぼくが感じてるこの感覚、これを「痛み」というのか」と理解し、「痛み」という言葉を習得する。「痛み」を直接指してなされる言語コミュニケーションは最初から問題なく成立している。

4.講義に対する疑問
(1)8月3日の講義では、
「子供は「ぼくが感じてるこの感覚、これを「痛み」というのか」と理解するが、親は、(その子どもの脳や神経の状態を認識したわけでもないのと同様に)その子どもが感じている感覚そのものを体験したわけでもないのだから、「転んで擦りむいたときに膝に感じる「それ」が痛みなのだ」、と教えるほかない(結果としてそのように教えたことにならざるを得ない)。感覚語の導入時には、状況に依存して教えるほかはない」
という趣旨のことが述べられた(と私は理解した)が、それは上記ロボットの例であって、人間は、上記の超感覚生物と同様、特に疑うことなく、子供も同じ感覚を持っていると信じている(そして通常の意味でそれは正しい)のだから、第一次内包はどこにも登場することなく、その感覚を直接指して、子に、「痛み」という言葉の意味を習得させることができるし、実際習得させているのではないか。
(2)要点を整理すると、
第一次内包を介することなく(つまり、状況に依存せず、その感覚を直接指して)「痛み」の意味を教えることは、
①超感覚生物においては可能であり、
②ロボットには不可能であり、
③我々は、偶然的な生物的条件から、たしかに結果として状況に依存しているようには見えてしまうが、超感覚生物と同様に、その感覚を直接指して、子に「痛み」という言葉の意味を習得させることは可能であり、実際に習得させているのではないか、
という疑問である。

5.あり得る反論に対する(予防的)再反論
以上の議論に対しては、次の反論があるかもしれないので、あらかじめ再反論を述べておく
(1)仮に「その子どもが感じている感覚そのものを体験したわけでもない」の意味が、経験的事実としての私秘性の意味ではなく、(形而上学的な意味を持った)アプリオリな私秘性の意味だったとしても(つまり、超感覚生物においても最終的には残る私秘性のことを言っているのだとしても)、そのことは私の議論には関係ない。
(2)講義では、「痛み」という語の習得が「言語ゲームからすべてを学ぶ」ことの一例とも言われており、たしかに、そのレベルで言うのであれば、「直接指せる「机」という語でさえその意味は言語ゲームから学ぶほかないのだから、感覚を直接指せることを指摘しても、それが「語は全て最初は第一次内包から習得される」ことの否定にはならない」のかもしれない。しかし、感覚語の習得の特異性がここでの論点と思われるので、このレベルの議論とは無関係ではないか。
(3)「実際に子の感覚を体験できない親が、自分の感覚を根拠に、「感覚を直接指せる」と言えるのであれば、その直接指している感覚とは子の感覚のことなのだろうから、感覚を持たないロボットだって、子の感覚を「直接」指して教えることは可能と言えるのではないか」、という反論もあり得るかもしれない。これに対しては、そうであればなおさら、第一次内包は無関係ではないか、と言いたい。
(4)「超感覚生物の例を出すが、現に我々は超感覚生物ではない以上、実際問題、子育てロボットと同様に、一番最初には、痛みが生じたであろう場面を利用して「痛み」という語を教えるほかないのだから、結果として第一次内包により痛みという語を習得させたことになる」と言われれば、これは違うと言いたい。すでに述べたとおり、親は、(超感覚生物と同程度の確信をもって親子に共通すると信じている)その痛みを指して、「痛いね、痛いね」と言っているのである。状況に全く依存せずに痛みを直接指せる超感覚生物の例を出したのは、状況に依存しているように見える我々人類も実は痛みを「直接」指していることを示すためであり、この例による説明は成功していると私は考える。

永井
以下、私の考えではなく、私の解するところのウィトゲンシュタインの考えに基づいて、反論してみる。
1.超感覚生物の例
(1)のような想定が何を言っているのかは、実は謎。他人のその部分の痛みが(手を通じて)直接感じられるとどうしてわかるのか? 二つを比べようがないのに。
(2)そのような場合に、膝に手を当てると、痒かったり、可笑しかったり(=笑いたくなったり)、…したら、どうするのだろう?
2.子育てロボットの例
3.我々は、この問題においては、超感覚生物類似である
「人類はどちらか。明らかに前者だろう。」には疑問の余地がある。「明らかに」とは言い難いだろう。
「このような状況下では、自分が感じるであろうあの感覚を当然感じているだろう」と疑いなく考えるのであれば、やはり主要な役割を演じているのは「このような状況」のほうで、「自分が感じるであろうあの感覚」のほうは実はどのような感覚であってもよいのではないか。何であれ何かがありさえすれば。「痛み」を直接指してなされる言語コミュニケーションは実は成立していないのではなかろうか。指されているのは自分の「痛み」だけで、共有されているのは状況のほうなので。
4.講義に対する疑問
(1)「特に疑うことなく、子供も同じ感覚を持っていると信じている(そして通常の意味でそれは正しい)」とすれば、それはつまり、実のところは第一次内包が働いている、ということではないか。
(2)だから、この場合にも、「 第一次内包を介することなく(つまり、状況に依存せず、その感覚を直接指して)「痛み」の意味を教える」ことはできていないのではなかろうか。
5
(2)直接指せる「机」という語には、両者に共通の「机」が存在しているので、「状況」が不可欠な役割を演じない。「机」と「痛み」が全く違う点である。
(3)どちらの場合も第一次内包が不可欠であると言える。

私の考えは、ある意味ではみや竹さんに近いともいえるのだが、そのことよりも、ここでは、私がここでウィトゲンシュタインのものとした考えが維持されうるか、維持されうるどころかやはり不可欠で堅固不抜であるかどうか、のほうが重要だと思うので、そちらで応答してみました。


※『〈私〉の哲学をアップデートする』(黒本) 序章、および『〈私〉の哲学を哲学する』(白本)序章


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