質問(23/8/10講義)

リョウ:
「超越」の場面における言語の役割について。
黒本「アフターソート」(pp194-)を拝読し、p204までの内容を以下のように理解しました。そこでは、客観的世界、他者、〈私〉を成立させる(立ち現れる)ための条件が述べられています。
【A】
①客観的世界は、他者と〈私〉の2種類の異質だが同型の主観を「同種」のものとして、
そしてカントの主張では、②〈私〉は、異時点を同種のもの(持続的自己)として、それぞれ超越することが必要である。
そして③他者は、客観的世界の成立と相即不離なものとして成立する。
【B】
①・②・③の成立が同じことの側面である。(本文の順序としては①と③、①と②の2組を比較されていました)
【A】では、同型異種のものが「備給源泉」となり、ある種の「飛躍」(超越)を行うことで、〈私、他者、客観的世界〉が成立すると理解しました。(これらの対象はすなわち〈現実、現在、私〉の3つとして理解しております。)
この理解の下で、質問は次の通りです。【A】における「超越」の場面における言語の役割に関してです。「飛躍(超越)」とはつまり「ヨコ問題」が無くなる、すなわち事象内容を同一にしか表現できなくなる、つまり黒本p36-40で記述されているプロセスが働くと理解しております。端的には、「言語的世界把握においてその種の存在論的な差異は必ず抹消される」(p.40)、この言語的世界把握であると理解しています。
(ご質問)
このように、言語的世界把握に基づいて超越が行われているのであれば、我々が言語を使用している以上、言語の解明が独在論議論にある種先だって行われない限り、それはある種の論点先取りと言える側面があるのではないでしょうか?そうであれば、論点先取りという言語学上の誤謬を乗り越えるだけの論理が知りたいと思いました。
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以上です。多分に誤読を含み、こじつけになっているのではないかと危惧しつつ、今後も独在論を考えていきたいとの思いがあり、現時点で(自分でも理解が怪しいことを認めつつ)気になっている事を勇み足でご質問させていただきました。永井先生の著書の多くを拝読しないまま中途半端な状態で質問してしまい申し訳ありません。お手数をおかけしますが、ご確認のほどよろしくお願いいたします。

永井
成功しているかどうかは別にして、それはまさしくカントの『純粋理性批判』がやっていることだといえるでしょう。それに対する私の考えは、web春秋の連載でこれから書いていきます。

はにかむ
この人がこの人のまま〈私〉でだけなくなるなどの想定について。この想定が想定可能であり、したがって論理的に可能であるとしても、これは概念としての〈私〉に過ぎないという直感があります。つまり、過去や未来においてこの人が〈私〉だった・であり続けるということがいえるとしても、それはその人にとってはその人が〈私〉であるのと同じ水準においてであり、現に与えられているのは〈今〉の〈私〉しかないだろうと。これは一面では疑う余地のない真理だと思いますが、他方で、〈今〉の〈私〉が存在していたという事実は(その痕跡がどこにも残らないとしても)未来永劫なくなりえないという直感もあります。
質問は次です。過去や未来の〈私〉は、通常の繋がりの原理が働かない状況においても、結局〈今〉の〈私〉に繋がっていることとしてしかその現実性に意味を与えることはできないでしょうか。言い換えると、世界構成の手前?で〈今〉でない〈私〉を考えることは意味をなさないのでしょうか。
また、この問いは、先日Twitterで谷口さんが「A変化は〈今〉の独在性に属するのではなく、超越論的構成の側のものなのではないか、という疑い」を呈し、永井先生が「〈今〉に関してそれを分けることはできない」と答えられたのと同じ問題であるといえますか。

永井
おそらく、過去や未来の〈私〉は、通常の繋がりの原理が働かない状況においても、結局〈今〉の〈私〉に繋がっていることとしてしかその現実性に意味を与えることはできないでしょう。だからおそらく、世界構成の手前で〈今〉でない〈私〉を考えることは意味をなさない、と思われます。

※『〈私〉の哲学をアップデートする』(黒本) 序章、および『〈私〉の哲学を哲学する』(白本)序章


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