質問(24/7/4講義)

真彦:
①連載第5回/第8段落
「本当に、という問いが立てられるのは、身体との関係において、正しい記憶であるかどうかのほうだけである。私の記憶は、記憶違いである(客観的事実とされるものとの関係で偽である)ことはどこまでも可能だが、その根幹的内容がじつは私のものでないということはありえない。その内容こそが私が誰であり何であるかを決定しているからである」について。
・身体に関係する記憶内容は、「私のものでないということはありえない、その内容こそが私が誰であり何であるかを決定している」ところの、記憶の「根幹的内容」にはなりえない、と理解してよいでしょうか?

永井:
もちろん、内容的には、身体に関係する記憶内容が、「私のものでないということはありえない、その内容こそが私が誰であり何であるかを決定している」ところの、記憶の「根幹的内容」と重なることは十分にありえますよ。
しかし、それが「私のものでないということはありえない、その内容こそが私が誰であり何であるかを決定している」ということはない、という話です。

真彦:
・また、どういうものが「根幹的内容」とされうるのか?何が「その内容こそが私が誰であり何であるかを決定している」ということになるのかは、本人の恣意的な印象・感じ、によるのでしょうか?妄想、思い込みとどう区別されるのか?

永井:
ここには「本人の恣意的な印象・感じ」とか、「妄想、思い込み」というものは存在しません。それを区別する基準自体がない、という話ですから。

真彦:
②連載第5回/第10段落
「「私は考える」という「表象」を「純粋統覚」「根源的統覚」と呼ぶ」と言われ、一方、「純粋統覚」「根源的統覚」は「「私は考える」という表象を産み出し、それゆえにあらゆる意識において同一であって、いかなる他の表象によっても伴われえない自己意識」であると言われている。

永井:
前者はカント的学的な捉え方の説明・導入であり、後者はカント哲学を前提として「私は考える」の実態を説明していますね。

真彦:
③連載第5回/第11段落
「それは、いま直接的に思い出されなくてもよい。たまたまその時は伴っていなくても、それはかまわない。」とされているが、そのように、「私は考える」が伴っていない状態の、かつ、意味的なつながりのないものと、第4段落の「何とも結合されずにすぐに消えてなくなる」もの(同段落の註*で、「カント的には、それらは私が表象したともいえない」とされているもの)との差異はどこにあるのか?
実際に思い出されれば、さかのぼって、「私は考える」が伴いうるものだった、ということになるのに対し、結局、最後まで思い出されなければ、そのようなものは私の表象ではない(というより、そもそも存在しないことと変わりない)ということでしょうか?

永井:
そうですが、そうであってもそのような考察がなされる以上、「私は考える」が伴いうるものではあることになりますね。

※テキスト『〈カントの誤診――『純粋理性批判』を掘り崩す』第5回、第6回


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