質問(23/7/27講義)
リョウ:黒本p.11「われわれの世界構成のカテゴリカルな要求である」に関連して。
webでの連載(哲学探究3 の第1回/カントの誤謬の第1回・第2回)を拝読しました。「いかなる事実も、したがって心理的事実も、このような超越論的関係の上に乗ってしか成立しえない」、したがって、カントに従えば「その問題を考えること自体が誤りである」とされるものがあると理解しました。「世界構成のカテゴリカルな要求」や「言語的世界構造」も、そうした、有効な問いを規定する条件のような性質のものだと理解しています。こうしたものに対する疑問です。言語的世界像というある種「ゲーム」について、「ゲームの内部」に存在していながら、「これ以上は問うことができない」というような「ゲームのルール」に言及することには、議論の「不思議さの原因」が背理法的にそこに帰着するような不都合の原因となっている事態があるのではないでしょうか。
つまり(質問①):私(超越論的関係の主張者=カント)が、私ではない他者(カント以前の人間)が構築した言語的世界像、に立脚しつつ、言語的世界像の存在とは別の「端的な事実としての世界」に対して、言語的世界像以外にも妥当する主張をいかにしてなしえるのか。
そして(質問②):そうした「ゲーム内部からゲームのルールに言及する」ようなこと、をここではどのように扱うか。
黒本テキストの本筋とは離れているかと存じますが、ご教授いただければ幸いです。
永井:質問①:
カントは、理性は他の可能性のない普遍的なものなので、私ではない他者(カント以前の人間)が構築したものとは考えないと思います。その意味で言語的世界像の存在とは別の「端的な事実としての世界」は「物自体」のことに当たるでしょうけれど、それにも妥当する主張はなしえない、と考えるでしょう。それは「語りえぬもの」だと。
そして、質問②:そうした「ゲーム内部からゲームのルールに言及する」ようなこと、をここではどのように扱うか。ゲームの内部からそのルールそのものについて語ることがなぜできるのかについてのカントの主張は、演繹論にあたると思います。とりわけ第二版のそれ。答えになっているかどうかはともかく、それをについて検討すべきでしょう。
みや竹:「〈私〉の哲学をアップデートする」22頁後ろから6行目「この二つの考察は、人間(という世界の中に存在する客観的存在者)のもつ性質の違いによって、どれが私でどれが私でないかが決まることはない、ということを示すためのものである」についての質問
1.同じことを別の面から言っているつもりですが、両思考実験の本質的効能を、「それぞれ別のタイプの「〈私〉の存在に気づかない人」に正しく気づかせる効果」と言っても良いでしょうか。理由は次のとおり。
2.〈私〉に気づいていない人が、〈私〉に関する、公共言語による語りを聞けば(読めば)、まずはそれを《私》や「私」と混同することが、ある程度の確率で起きてしまうのは自然だと思われる。
3.「私」との混同と「分裂の思考実験」
(1)混同のひとつの典型として、〈私〉と「私」が癒着してしまい、問題の所在が分からない(〈私〉などどこにも「無い」と考える)人がいる。
(2)具体的には、「両親××と××の間に×年×月×日に生まれた人間、それが私である。それ以上のメタフィジカルな、スーパーナチュラルな事実などどこにもない。」と考えるタイプの人である。
(3)「勝手に付け加えますが、ビッグバンから始まる宇宙の発展を説明し、生物誕生から人類の進化を説明し、現在いる全人類の由来を説明しても、この文を書いている人物がなぜ「私」なのかは説明できません。独在性とはこういう問題です。」(エレア・メビウス@mobius774さんの2018年10月17日のtweet)に対し、同日「ビッグバン以来、地球の誕生、ヒトの進化があり、かくかくの先祖からこの親を経て生まれた植村恒一郎という人間がいます。植村恒一郎も、他の人と同様、言語で自分を指示する必要があるから、「私」という言葉をしばしば使います。これがすべてで、それ以上何もありません。というのが「説明」では?」と応答(引用リツイート)した植村恒一郎@charis1756さんは、この典型例に見える。
(4)分裂の思考実験は、このタイプの誤解(者)に対し、まずは分裂前の人物の身になることを強い、次に分裂後のLとRをヨコに並べて比較することを強いることにより、「なるほどたしかに一方が私なら他方は違う」と思い至らせ、以て〈私〉の存在に気付かせる効能がある。「平等な存在者であるはずのRとLのうち、なぜ一方にだけ、無くても良い(無くても良いことは、現に一方には無いことにより示されている)無内包の現実性があるのだ?」と。
(5)興味深いのは、分裂の思考実験は原理的に実行可能な思考実験ではあるが、実行されてしまえばこの効能は望めない、という点である。この分裂を実行してしまえば、たとえば、強固な「癒着」タイプである植村Rは、「両親××と××の間に×年×月×日に生まれ、×年×月×日に分裂した右側の人間、それが私である。それ以上のメタフィジカルな、スーパーナチュラルな事実などどこにもない。」と相変わらず思い続けるであろうからだ。ちょうど、一卵性の双子も、産まれてしまえば、「両親××と××の間に×年×月×日に生まれた双子の片方の人間、それが私である。それ以上のメタフィジカルな、スーパーナチュラルな事実などどこにもない。」と(「癒着」タイプであれば)思うように。
(6)分裂の思考実験は、実行可能ではあるが、決して実行してはならず、実行前に、自分がこれから分裂することを(あるいは火星旅行することを)想定させることによってのみ、はじめて、上記効能を得ることができるのである。
(7)それはなぜかと言えば、分裂前は、言わば受肉前だから、〈私〉と「私」を、癒着させたくてもできないからだ。よって、どうしてもどちらか一方は「私であっても良いはずなのに私ではない人」になってしまい、そこで初めて、〈私〉と「私」の癒着が剥がれる、という構造があるのだ。
4.《私》との混同と「転移の思考実験」
(1)もう一つの典型としては、実在する魂(やそれに類するもの)が〈私〉であると考える人がいる。〈私〉などどこにも「無い」と考えるタイプに対し、〈私〉が「実在する」と考えるタイプと言える。
(2)このタイプは、問題の所在が分からない人というよりも、問題の所在を誤解している人(《私》を〈私〉と誤解している人)と言える。
(3)転移の思考実験は、このタイプの誤解(者)に対し、どうやっても転移が実行できないことに気づかせ(転移の思考実験は、技術的問題さえ克服できれば実行できてしまう「分裂の思考実験」と異なり、思考はできるが決して実行できない(実行しようと思っても何をすれば良いのかが分からない)ことに本質的特徴がある)、以てその想定された魂が実は無内包であることに気づかせる効能がある。「私の魂が岸田に乗り移っても、あれ?、魂に記憶はないのだから、結局何も変わらないぞ。魂なんて実在物はなく、無内包の現実性を実在者に仕立て上げた捏造物に過ぎないんだ」と。
5.以上の理由により、両思考実験の本質的効能を、「それぞれ別のタイプの「〈私〉の存在に気づかない人」に正しく気づかせる効果」と言っても良いように思えるのですが、いかがでしょうか。。
永井:
これは全体として本質的には正しいと思います。とくに4が優れていると思います。こちらの誤解をしている(〈私〉が「実在しない」ということの意味が実はわかってない)人も実は多いので。
NAOKI:
〈私〉が開闢する世界と、〈私〉が存在する以前・以後の世界(その意味では〈私〉の存在とは独立に存在すると思われる世界)では、「世界」の意味が異なりますが、後者は宇宙素粒子物理論によって世界の根源(原初)を探求する営みだと思います。前者は当然形而上学となりますが、後者も人間が感知できる次元を超えた理論(4次元を超えた世界)を打ち出しているために、十分形而上学の名に値すると思われます。カントの物自体のように、物理的〈世界〉そのものも、我々の認識を超えているようです。
質問ですが、永井先生は後者の〈世界〉そのものもの根源性についてご興味はありますか? その際、〈私〉の問題とどのように関係されると思われますか?
永井:
興味はあります。どのように関係するかはまったくの謎です。それがまったくの謎であるということこそがこの問題の根源(起源、源泉)でしょう。
※『〈私〉の哲学をアップデートする』(黒本) 序章、および『〈私〉の哲学を哲学する』(白本)序章
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