質問(24/1/11講義)

晃太郎:
超越論哲学の示す認識を単なる心理的事実としてしか理解できなければ「ヒュームの経験論哲学と本質的には変わらない」とされていますが、一方で因果関係をわれわれの心の習慣にすぎないとみなしたヒュームの議論を「もっともな議論」であるとも書いています。
にもかかわらず超越論哲学を心理学化して理解することをここで戒めているのは、その読解があくまでカントに即していないからにすぎない(つまり、心理学的に、あるいは「二重に」読む方向もありうる)、ということでしょうか?
私がそう思ったのは、言語的世界把握というときの「言語」は、そうした世界把握の中で両親から教わった(心理的事実の)「言語」とも捉えられると考えたからです。

永井
カントに即して答えるならば、言語的世界把握というときの「言語」は両親から教わった心理的事実の「言語」ではなく、その世界把握方式しか原理的にありえない、普遍的で超越論的なロゴスの型、ということになると思います。それが本当に言えるかどうか、すなわちヒュームが正しいかカントが正しいかは、原理的に決着をつけることができない問題だと私は思います。しかし、カント的に考えることで初めてわかる事柄、というのもあるので、この講義(というか連載)では、そちらに注目しているわけです。

ぷらにつぁーちぇり:
12段落で「法則性なき因果性や因果性なき法則性はありえないのだろうか」と記載があり、ありえると思う例として、前者に関しては1回きりの事象を、後者に関してはヒュームの恒常的連接が例としてありました。しかし15段落によれば、カントはそれを否定するとのことでした。その点について2点質問があります。
1) 上記に対して、カントではどのような反論で上記の例を退けられるのか、あるいは退けようとして失敗しているのか、単にカント側の考慮漏れなのか、よく分かりませんでした。この点についてお聞かせいただければ幸いです。
2) さらに私には講義で例とならなかった追加例として、前者には「Aが原因となってBが70%の確率で起こるが、その確率には原因がありえない(量子論上の確率など)」ケースや「A, A2, A3, … A99999 が Bを引き起こしているので、Aだけでは法則性が見えない」ケース*、後者には「Bが起きればCが常に起きる法則性はあるが、BとCの間には何の因果関係もなく共通原因であるAがBとCの両方を引き起こす」ケースが思いつきます。しかし、さすがにここまで多く思いつくと多すぎるようにも思います。どこか私が読解を誤っているのでしょうか?
注*)このケースはAがBの原因と言えるかどうか判断が分かれそうですので、あまり適切なケースではないかもしれません(例えば、その引き起こし方によっては、物理では因果とし因果推論では因果としないことが起こりうる点で)

永井
1)カントにおいては法則性なき因果性はありえない、これは認識論的に不可能であるがゆえに存在論的に不可能になる、という超越論的哲学の認識論的起源に由来する結論ですね。でも本当はあるかもしれない、というその本当性の存在をゆるさない、という。その意味では因果性なき法則性のほうは、法則性の側が与えられているのですから、あってもよいように思えますが、カントは「因果性」という概念をアプリオリとみなしているので、今度は逆にそのそのアプリオリズムの側から恒常的連接があればそれを必ず因果的に解釈するというように考えたと思われます。しかし、後者はある意味からするとはっきりと偽ですね。たとえば昼の後には夜が来、夜の後には昼が来ますが、昼が夜を引き起こし、夜が昼を引き起こしているわけではない、ので。昼も夜の別の因果連関がもたらす現象にすぎないでしょうから。
2)後半は上のお答えの最後の例と本質的に同じですね。前半は(量子論上の確率についてはカントはもちろん考えていませんが)、「A, A2, A3, … 」のほうはそれが検証可能ならばそういう因果法則があるということになる、と考えるであろう思われます。

※テキスト『〈カントの誤診――『純粋理性批判』を掘り崩す』第2回


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