質問(22/6/3講義)①

ad:
本日の講義内容にもありましたが、〈私〉は100年前にも100年後にも存在しなかった(しないだろう)という表現を最近よくされますが、一方、そこから世界が開けていてそれがなければ何もないのと同じという、別の〈私〉の説明と少し矛盾がある(=前者では100年より前および100年より後には〈私〉がいなくても世界が存在する?)ように思われるのですが。
あるいは、「そこから世界が開けていて‥‥」は認識論的な表現で、「100年前にも‥‥」は存在論的な表現なのでしょうか。

永井:「それがなければ何もないのと同じ」とはあくまでも「のと同じ」ということで、単純に何もないということとは違います。もちろん、ここ「矛盾」を見て取ることもできます。それは世界に内在する矛盾です。

大登:哲学探究3第4回の7段落目の最初で、〈 〉がウィトゲンシュタインが『青色本』で提示したチェスの駒に被せられた冠の比喩ときれいに対応していないとありますが、〈 〉と冠の比喩が対応していないのはどのような点かがいまいちつかめていません。
今回の講義で〈 〉とチェスの冠がそれが働く内部(言語ゲーム)でいかなる働きもなしえないという点で対応していることは理解できたのですが、どの点できれいに対応していないのかをご教示いただければ幸いです。

永井:冠には「それがなければ何も(この例で言うならばチェス全体が)ないのと同じ」という要素がない点です。

康真:永井先生の単著は全て拝読しておりますが、「第0次内包」と「《私》」の異同について今回よく分からなくなってしまい、ご質問させていただきました。
 第4回段落2では、”(第0次内包的な)直接的認知”の存在が認められれば、そのことによって”他者における「端的な現実」”(《私》のことだと理解しております)の存在が認められる、と書かれているように読めます。
 しかし、例えば、外界を感知するセンサーと、内的な状態を保持する器官と、その状態を表現する口を備えた動物(ロボットでもいいと思います)には、それだけで(「端的な現実」なんぞ関係なく)第0次内包の存在が認められる可能性があるのではないでしょうか。つまり外的な文脈(第一次内包)から切り離された内的感覚が自立すればいいわけで、例えば、掃除ロボットが「ダストボックスが一杯です」と発話し、しかし実際にはダストボックスが一杯になっていなかった、という場合、「ダストボックスが一杯であるという感覚(満腹感のようなもの?)」をそのロボットの第0次内包として認める余地があるように思います。もちろんロボットの場合は始めから内部構造が分かっているので「それは回路の故障ですね」と第二次内包側から逆襲され得ると思いますが、しかしそれは、何も食べていないのに満腹感を感じる人が「脳の異常ですね」と医者から言われるのと同じでしょう(その場合でも満腹感そのものは認められてよいし、「ダストボックスが一杯であるという感覚」も認められてよいのでは?)。
 つまり私が何を疑問に思っているのかと言いますと、第0次内包は<私>や《私》を想定しなくても、のっぺりした世界にも存在するはずではないでしょうか?
<私>はおろか人間というものがいない、上記のような掃除ロボットだけが(なぜか)存在するような世界にも第0次内包の存在を認める余地があるのですから。であれば第0次内包の存在を他人に認めることと、《私》の存在を他人にみとめることは別の話ではないのでしょうか?

永井:そう考えることもできると思います。哲学的に本質的な論点は、その場合、そのような「感覚」に不可謬性(訂正不可能性)があるといえるか、です。もしないとすれば、感覚の不可謬性は《私》の存在に由来することになります。(しかし、この議論は非常に高度な問題を含んでいますので、ここではまだ議論できません。第9章、第10章、終章あたりの議論をお待ちください。)

真彦:「質問(22/5/27講義)②」の中の3番目の質問に関し、応答いただいた内容について改めて質問です。
1)頂いた応答内容から、改めて以下のように考えました。このような理解でよいでしょうか?
【A事実は、概念規定上は、(本質として)動きがあるとかないとかいうことはない。だから、動きがあってもなくてもよい。これが「動き(があるかないか)には関係しない」の意味。しかし、実際には、事実として、動きがある。】
2)しかし、動きのあるA事実とは、つまり、「動く〈現在〉」に他ならない。けれども、一方で、(第2回の第15段落にあるように)動く現在は《現在》であって、〈現在〉ではない。この後者の考え方からすれば、〈現在〉の方は動かない、A事実は動かないということになる。結果、A事実=〈現在〉は動く、かつ動かない、ということになる。ここはどう解すればよいでしょうか?矛盾のままに留まることになりますか?

永井:第2回の第15段落のどこにも、動く現在は《現在》であって〈現在〉ではないなどとは書いてありません。〈現在〉のほうは端的に現実の現在であることを意味すると言っています。ですから、それが動いても動かなくてもそのことはその意味(その概念の本質とは)とは関係ないということです。繰り返しますが、とくに哲学に関係ない単純に日本語の意味理解の問題にすぎません。

※関連リンク「哲学探究3 第3回」


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?