質問(23/8/3講義①)

五三郎:
世界体験をしている主体は〈私〉なのかそれとも「私」なのか、どちらなのでしょうか。世界の開けの原点、それがなければ何もないに等しい〈私〉は世界体験に現実性を与えているわけですから、本当の世界体験の主体は〈私〉だと言えるのではないでしょうか。しかし一方、脳や身体を持った「私」が存在しなければ〈私〉だけ存在しても、世界体験の中身が生じてきません。すると、やっぱり世界体験をしている主体は「私」の方なのかとも考えられます(普通、ほとんどの人はそう考えていると思います)。世界体験は、〈私〉と「私」の相続的関係で成立しているわけだからどちらだとは言えないのはわかってはいるのですが、どうしても質問したくなり質問してみました。
もう一つ、記憶は「私」に属するものなのか、それとも〈私〉に属するものなのでしょうか?これも記憶とは〈私〉と「私」の相即的関係があって、初めて成立するとも思うのですが、質問させていただきます。「私」が死んだら、記憶は全て消えてしまうのでしょうか。それとも〈私〉へ引き継がれていくのでしょうか。〈私〉の定義からすると、それはありえないとは思うのですが、これもあえて質問させていただきます。

永井
世界体験をしている主体は〈私〉なのかそれとも「私」なのか、という問いは意味をなしません。現実に体験するのは〈私〉だけだ、といえるだけです。「本当の世界体験の主体は〈私〉だと言えるのではないでしょうか。」は、「本当に」がこの問題に特有の意味での「現実に」の意味であればもちろんそう言えます。が、それはいわば自明のことです。
〈私〉と「私」という二種類の違うものが存在しているように表象されてしまうとまずいです。「記憶は「私」に属するものなのか、それとも〈私〉に属するものなのでしょうか?」については、「私」にであるといえます。これもいわば定義上の事柄なので、自明にそうです。「私」が死んだら記憶はが〈私〉へ引き継がれるといったことは起こりえませんが、それも仰るとおり定義上の事柄です。

晃太郎:
「〈私〉は存在しないこともありえた」がゆえに〈私〉は偶然的な存在であり、デカルトの問題と永井先生の問題は区別しうると仰っていた点についてです。
「〈私〉は存在しないこともありえた」と私が言えるのはなぜか、と思いました。「江戸時代に〈私〉は存在しなかった」という意味では存在しないこともありえたのでしょうが、それは結局「私以外は〈私〉ではない」と言っているにすぎないのではないかと思いました。
本当に〈私〉が存在しないこともありえたのならば、「私は〈私〉ではない」と言える可能性がなければならないのではないかと思います。もちろん、「私は〈私〉だ」と言っている人が実は〈私〉ではない、というかたちで〈私〉が存在しない可能性があった、と言うことはできるとはいえ、もし「私は〈私〉である」と結局は言わざるをえないのだとすれば、「〈私〉は存在しないこともありえた」という発言はこの私の口からは出てこないのでなければならないのではないでしょうか。一方では自分のことは絶対に〈私〉だと譲らないのに、他方では「〈私〉は存在しないこともありえた」と言うことに疑問を感じました。
いつも興味深く聴講しております。何卒宜しくお願い致します。

永井
「〈私〉は存在しないこともありえた」のは、「江戸時代に〈私〉は存在しなかった」から、ではありません。現に今、江戸時代と同じように、〈私〉が存在しないことが可能だから、です。晃太郎さんは存在しても、それはただのふつうの人で、〈私〉ではなかった場合が想定できる、という意味です。しかし、当然のことながら、その人は、「私は〈私〉ではない」などとは言いません。そんなことが言える人は存在しないからです。これがすなわち「風間くん問題」で、われわれが論じている問題の核そのものです。

そばがき:
7月13日講義から。風間質問について。風間質問をよりよく理解するための質問です。講義では風間質問への言及はありませんでしたが、〈私〉の存在の問題とは、
・けっして他人と共有できない。
・ある意味で共有出来てしまう。
という輻輳したあり方をする問題である。
という問題のあり方は、つまりは「風間質問」ですね?
風間質問とは、この輻輳したあり方のことを指している。という理解でよろしいでしょうか?

永井
それは風間質問の含意するところのある側面(ある捉え方)であるといえます。直前の晃太郎さんの質問へのお答えで書いたことのほうが風間質問そのものだともいえますが、本質的には同じことだとも言えますね。

スラベス
黒本35頁で、デカルト哲学における「私」の認識の確実性と、永井哲学における〈私〉の存在の偶然性の議論に触れられていました。
この2つの関係または無関係について考えたいのですが、これは前回までの講義で解説されていた〈私〉と「私」の対立(独在性と超越論的構成の対立)とどう関係していますでしょうか。

永井
これは別の問題(無関係と言ってしまうと言い過ぎですが)ですね。もし関係づけるとすれば、デカルトが真ん中にいて、その捉え方(したがって批判の仕方)をめぐって、永井(独在論哲学)とカント(超越論哲学)が対立しているとも言えます。それゆえまた(その永井から言えば)、〈私〉と「私」の対立(独在性と超越論的構成の対立)の観点から見れば、デカルトと永井は同じ独在性の立場にある、ともいえます。

ぷらにつぁーちぇり:
質問(7/27の講義分)です。
黒本29~30Pにかけての、<私>は痕跡を残せないので永井が鳩山になっても痕跡が残らないため変化したと言えないとの話の部分についてです。
逆に痕跡が残って変化したことを検出できるものが記憶以外でもあれば、それは<私>(あるいは<今>)ではないと言えるでしょうか?
例えば思考実験として、仮に何らかの観測データで中心性と唯一性(と確率分布で表現される位置や時点)を持つI_φの痕跡が見つかって、その分布変化に沿って<私>が転移したとします。(講義の枠から少しずれた言い方をすれば、I_φは『哲学探究2』p218の話で出てくるI_1の変化版で、I_1に「複製不可能性」「唯一性」「確率分布」を持たせた思考実験)
この場合は転移によって記憶の残存に頼らずに変化になったように一見思えてしまいますが、それが起こっても転移が起こった本人が転移現象に気づくことができないのでI_φとの結びつきに気付きえないという意味で、I_φは<私>(あるいは<今>)ではないと、言えるでしょうか?

永井
最後の問いに対してならば、言えるでしょう、と答えられます。しかし、この質問は、少々複雑な問題に触れているように思われます。というのは、〈私〉の存在の問題とその持続(すなわち記憶)との対立の問題(言い換えれば、独在論哲学vs.超越論哲学)は、それ自体がいわばメタフィジカルな問題で、そのどちらに関しても、それらの物質的基礎は想定されていない(無いという意味ではなく考えられていないという意味で)からです。それを想定するにはどうしたらよいか、という独立の問題が、どちらについてもありえ、それぞれ別の意味で、非常に難しい問題のように私には思われます。

真彦:
8月3日講義についての質問です。宜しくお願いいたします。
① 白本p.35、註20、6行目の「(また他のようにして)端的さを抹消し、…」の、「他のようにして」とは、何のことを指しているのでしょうか? 何か特定のことを含意していますか?
②白本p.35、註24、「入不二氏はこれが起こりうると考えて、そこに「マイナス内包」の存在を認める。私ならば抹消記号(✕)をつけた「痛み」を使いたい場面である。」とありますが、「抹消記号(✕)をつけた「痛み」」とは、どういうことを表現・意味しているのでしょうか?〈私〉や〈今〉に付されている抹消記号(=山括弧)は内容的規定部分を抹消し、もって無内包であることを示すけれども、これに対し「抹消記号(✕)をつけた「痛み」」では、抹消記号(✕)が「痛み」の概念を抹消するが、その結果、無内包が示されるのではなく、またマイナス内包といったものに繋がるのでもなく、(有意味なものは)何も残らない、ということが表現されている、と考えてよいでしょうか?

永井
①とくに何も指していません。「このようにしてであれ他のようにしてであれ」という意味です。
②「痛み」と言った言語表現が使えないという意味です。その後は、そのように考えていただいてよいです。

greatminer:
 以下のとおり質問させていただければと思います。時期を逸しているかもしれず、大変恐縮ですが、よろしくお願いいたします。質問自体が整理しきれておらず、大変恐縮ですが、以下の点をお伺いできればと思います。
1 私(人称)、今(時間)、現実(様相)のどれが根底的か、というお話があったかと思いますが、
 (1) 事象内容的には同じことであり、現にそうであるかどうかのみが違う、というのが最も重要なポイントだとすれば、それに最も直接的に対応するのは様相の問題である、ということにはならないでしょうか。 (私や今の場合、どうしても他者や他時点との対比が入ってきて、現にそうであるかどうかのみの問題に付け加わったものがあるように思われるため。
また、否定の問題についても同種のことが当てはまるのだとすると、文の内容は全く同じであり、ただ肯定であるか否定であるかの違いのみ、ということになれば、他の文との対比を考える必要はないように思われました。このような否定との関係でも、現実であるかどうかのみの違いという様相の問題が最も根底的ということにならないでしょうか。)
(2) それとも、様相の問題は、それぞれ内容を持った複数の可能世界がある(少なくとも考えられる)ことを前提として、それらと現実世界との対比という問題であって、他のものとの対比という点では私や今と特に違いはない、ということになるでしょうか。(もしそうであれば、(1)の内容は誤解であり失礼いたしました。)
2 また、①欧米では子どもが最初から「I」「You」を使い、しかも親から学ぶ(親は自身を「I」と言う)という点で最初から矛盾を学んでおり、②これに対して日本では親も子どもも自身を含めて名前等で呼んでいる、という点で根本的な世界観が異なるのではないか、というお話があったかと思います。この点は、1の問題に何らかつながるところがあるでしょうか。
具体的には、日本のような言葉の学び方(自身や他人の身体を含め、個別の物と、それが現れる世界の開けの原点(場?)との対比のみが最初に学ばれる?)から出発しても、結局は私(人称)の問題は欧米と同じように存在し、それを学ぶこともできるということになると思われますが、そうであるとすれば、私(人称)の問題は必ずしも根底的なものではない(他の出発点から説明できる)、ということにはならないでしょうか。
それとも、私と他人に同じ「I」が当てはまるという矛盾自体が出発点だ、ということになるでしょうか。

永井
1(1)なる、と言えると思います。
    (2)おそらく、それは後から描かれた絵(描像)であると思われます。
2 上の(2)と同様に、人称もまた後から描かれた絵(描像)であるとも考えれたら面白いのですが、そこまではかんがえられそうもないですね。

※『〈私〉の哲学をアップデートする』(黒本) 序章、および『〈私〉の哲学を哲学する』(白本)序章


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