質問⑪⑫

質問⑪

のりぴけ:5/13の講義を過たず理解しているとすれば、主観性の哲学(や超越論哲学)は〈私〉を探究せずに《私》から出発し、世界や他者をいかに構成するかの問題に取り組み、ウィトゲンシュタインは言語の文法的事実から《私》と他者との違いを説明した、とのことでした。彼らが〈私〉の存在に気づかなかったのだとしたら、あるいは、哲学の伝統が〈私〉を扱い損ね続けていた(いる)のだとしたら、それは何によるのでしょうか?〈私〉の存在に対するタウマゼインが足りなかったせいでしょうか? それともまったく別の要因でしょうか(たとえば、言語だったり、他者が自分と同じく心を持っているように見えそれに対する驚きが大きかったり、など)。時間論で言えば、彼らはみなB系列(やC系列)ばかりを扱ってきた、ということになりそうですが、そうだとしたらA系列をとらえ損ね続けてきた「伝統」に興味がわきます。

永井:私もその点は全く不思議なことだと思っています。

質問⑫

のりぴけ:私と他者との違いに関して、「その違いを、ウィトゲンシュタインは文法的な違いだと見なしており、メタフィジカルな違いではないと考えていた」とのでしたが、この「文法vsメタフィジカルな事実」を累進構造(それから、「缶詰め」の比喩)に適用するならば、文法側は最上段を決して認めず途中からの出発のみを認める(「裏表がひっくり返った缶詰め」の存在を決して認めない)のに対して、メタフィジカルな事実側は最上段があることこそが出発点である(「ひっくり返った缶詰め」こそが疑いなく存在する)と考える。このような理解でよろしいでしょうか。

永井:本質的に正しいと思いますが、さらに付け加えればむしろ、「「裏表がひっくり返った缶詰め」の存在を決して認めない」というよりはむしろ、各段階にある段階差として平板に認めてしまうため、最上段という特別なものが認められない、というほうがより正しいように思われます。


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