質問(24/1/4講義)

スラベス:
段落24に「おそらくはこの遠い由来によって、段落7及び8で指摘された、「感性」や「直観」のもつ二つの意味もまた繋がっているだろう。」
とありますが、この「二つの意味」をうまく捉えることができません。ご教示いただけますと幸いです。

永井
段落8の冒頭にあるように、感性と悟性の区別を個別的なことと一般的なことという(存在論的な)区別と見る場合と、感じられることと理解されることという(認識論的な)区別と見る場合があり、これが感性と悟性の二つの意味です。

スラベス
また同段落に「どこからでも左右や過去未来が開けてる「ヌエ的」な世界」とありますが、「ヌエ的」はここではどのような比喩でしょうか。正体不明なもの、あいまいなもの、または紛い物というような含意かと思いましたが。

永井
〈私〉と〈今〉はどこにも存在しないのに、いたるところにそれらが存在する、という二面性を持った世界という意味です。

だいたい全部学ぶ:
カントの誤診第一回の段落5に関する質問です。そこで述べられているように、我々は同じ一つのことを視覚によっても触覚によっても確かめることができます。あるいはむしろ、視覚によって得られる情報と触覚によって得られる情報とが連動している、という事実を足がかりとして、ある種の「同じさ」が作り出される、とも言えると思います。
質問1:上記の事実が、同時に、視覚と触覚とが同じ「感じること」として取りまとめられることにも役立っている、とは言えるでしょうか。

永井:
言えません。その事実が存在しない、(例えば)視覚と聴覚とも同じ「感じること」として取りまとめられるので。

だいたい全部学ぶ:
また、視覚と触覚は連動していて、聴覚と嗅覚は連動しているが、視覚と聴覚とか触覚と聴覚とか……は全然連動していない、ということもありえたのではないかと思います。その場合、視覚と触覚は世界Aに対して開けていて、聴覚と嗅覚は別の世界Bに対して開けている、というような具合になると思います。

永井:
視覚と触覚は連動していますが、聴覚と嗅覚等々、その他はすべて連動していません。ここで「連動」と表現されているのが「同じ内容を異なる感覚によってとらえる」という意味であれば。

だいたい全部学ぶ:
質問2:それならば、われわれの認識の源泉が感性と悟性とに分けられるのも、世界のたまたまの在り方に由来している、と言えるでしょうか。それとも上で述べたような想定のもとでもやはり感性は感性として一括りにされるべきなのでしょうか。

永井:
カントはそう考えていませんが、私は世界のたまたまの在り方に由来している側面があると思います。そのことはこれから大いに論じられます。

※テキスト『〈カントの誤診――『純粋理性批判』を掘り崩す』第1回


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