質問(23/7/13講義②)

AD:昨年夏の講義でも同様の質問をしたのですが、いまだによくわからないので再度お聞きします。
先生がよく言われる、「〈私〉はそこから唯一世界が開けている」および「〈私〉は百年前以前(百年後以後)には存在しなかった(しないだろう)」から、〈私〉がいない世界(百年前以前および百年後以後)があることになり〈私〉から唯一世界が開けていることと矛盾するのではないか(これが以前の質問の趣旨)と思っていたのですが、例えば、(1) 世界があること(存在論)と私から世界が開けること(認識論)は別のことなので、過去から未来に続く世界の中でこの約百年間だけ「私」が存在していた(2) 「〈私〉からだけ世界が開ける」は端的な事実(独在論)であり、「世界がある」はものごとの理解の基本的形式に従った記述である、と理解する。(1) は全く凡庸な理解と思われますが、(2)では〈私〉の存在と世界の存在の関係を考える必要がなくなる(ので矛盾は生じない)ということではないかと。よろしくお願いします。

永井:どこが質問なのか、読み取りにくいですが、お書きになっていることをそのままただ素直に読めば、特に何の問題もないので、その通りです、ということになります。

nt:白本の註1に関する質問です。終わりの方で、「一人(一つ)しか(い)ない場合、問題の意味は最も純化された形で理解されるはずだが、にもかかわらず理解は非常に難しい仕事となるだろう」とありますが、たしかに自分がそのような世界にいる場合のことを想定しても、問題(なぜ現に世界が見えているような人間がいて、しかもそれがあの人間ではなくこの人間なのか)を理解できるか怪しいです。「私」という語を獲得した現時点からたとえば無人島に行った場合を想定すると、問題を理解するのは容易ですが、はじめから世界に一人しかいない場合を想定すると、問題を考えることすらできないのではないかと感じます。そのような世界で意識的に考えるということがどのようにして可能なのかわからないからです(翻って、この世界でいつの時点からか物事を意識的に考えられるようになったことを不思議に感じます)。
前置きが長くなりましたが、質問としては以下になります。

1. そもそもそのような世界で生まれ育ち、物事を意識的に考えるということが可能なのでしょうか。可能だとすれば、どのようなプロセスで可能となるのでしょうか(たとえば、周りに何らかの物体があることは必要な条件でしょうか)。
2. (もし物事を意識的に考えることが可能になったとして)どのような想定をすれば、私の存在に驚くことができるのでしょうか。
3. 「可能世界」というものを考えると、同じような状況にもかかわらず、容易に理解がなされているように思います。つまり、我々は一つの世界しか経験していないにも関わらず、「なぜこの世界がないのではなくあるのか、そしてなぜあの世界ではなくこの世界に現にいるのか」と比較的容易に理解できています。この理解の容易さの違いは、言語の習得が可能にしたものでしょうか。

永井
1. 可能ではないでしょう。しかし、それは経験的事実の問題なので、特に哲学的問題ではないと思います。
2. 私の存在に驚くということが、こいつが存在することにではなく、それとは区別された、そいつが〈私〉であることに、であれば、驚くことはできないでしょう。他者というものが存在しないので、対比が成り立ちがたいでしょうから。これもまた事実問題にすぎませんが。
3. 言語の習得が可能にしたものだと思います。しかし、そういう問いが理解できない人も論理的には可能で、たぶんかなり実在するとは思います。 

※『〈私〉の哲学をアップデートする』(黒本) 序章、および『〈私〉の哲学を哲学する』(白本)序章


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