質問(22/7/29講義)①

拓:
7月29日の講義で、岸田総理が「私」を使って自己言及する例を用い、単なる(自己)再帰性と真正な自己再帰性の区別を説明されていたと思います。その際、(私の聞き違いでなければ)岸田総理の「私」は岸田文雄という人物(Person)を指すものではない、と述べられていたかと思います。それを額面通りに受け取った場合、段落11の例文1aの「私」が永井均という人物を指すことにはならず、例文1bおよび2と同列に比較できなくなってしまうのではないでしょうか。また、仮にそれが「世界がそこから現れる唯一の原点」といったものを指すとした場合、それは人物に並置されるような実在的な存在ではないでしょうから、それを「私」という語で指すことは難しいように思います。それではいったい「私」の指示対象は何であると理解すべきでしょうか。

永井:
「私」の指示対象はもちろんそれが発語される口のついた身体を持つ人物です(この話は何度も書いており何度も話しています)。


みや竹:
1.「分裂前に、(分裂後に)自分はどっちになるのかな、という話はナンセンス。必ず両方になる。」について
質問:すぐあとに「分裂後Bが〈私〉だったケース」が想定されていますが、ならば、「分裂前に、自分はどっちになるのかな、とドキドキしていたけど、Bになったんだ!」というふうに、「分裂前に、(分裂後に)自分はどっちになるのかな、という話」は、Bの純プライベートな話として、有意味なのではないでしょうか。

永井:その時点においては、もちろんそうです。

みや竹:
2.「未来の私とは、現在の私のことを自分の過去として思い出す人のこと」について
質問:未来の私とは、未来の世界において、「なぜか現象している唯一の人」のことではないでしょうか。

永井:そうも言えて、その二つの捉え方は矛盾します。しかし、「なぜか現象している唯一の人」のほうがいえるのは、あくまでもその時点において、です。

みや竹:
3.「分裂後Bが〈私〉だったケースで、Bが死亡後に、「Aが〈私〉に「なる」ことは「可能」」」について
質問①:分裂後Bが死ぬまでの期間がどれほど長くても可能なのでしょうか。

永井:これはそう「いえる」かどうかが、文字どおり程度問題となります。アルツハイマーになると、過去の自分について覚えていることが少なくなり、だんだんとその人でなくなっていきます。

みや竹:
質問②:「哲学探究1」85頁後ろから5行目に、「第二の「そんなことがありえようか」のほうは、二つの基準の独立性を認めるならば、奇跡が起こらない限りはありえない」とありますが、この「哲学探究1」での話と今回の講義の話は別の話なのでしょうか。それとも同じ話で、ただ、「可能」とも「不可能」ともいえる、ということなのでしょうか。

永井:
講義で話したことは『哲学探究3』の「終章」の議論の一部です。10月の始めに出る予定なのでお楽しみに。

※関連リンク「哲学探究3 第9回」

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