質問(23/2/8講義)

湧希
講義の内容それ自体からは少しズレますが、現実性の二重性について質問させて頂きます。「何が見えていようとそれは私に見えている」という独我論的言明においては、現に見えている光景の現実性と、可能的な光景の現実性が重なっているように思われるのですが、この光景(対象)の側の現実性の二重性と「もし安倍晋三の心が現にむきだしに存在しているなら、それが、それだけが現に私の心である」というような主体(心)の側の現実性の二重性には何らかの関係があるのでしょうか。もしあるとすれば、それはいかなる関係でしょうか?

永井
それらは、この議論の文脈においては、何らかの関係があるどころか、全く同じことです。


晃太郎
本文では、なぜか存在してしまっている唯一者を範型(モデル)にしなければここで書いていることは理解できない、とされています。ですが、私は他者から言語を教わったのであり、私の誕生以前の日本語にも独在論を語る力があったはずです。したがって、この唯一者をモデルにしなくとも独在論は概念的に理解可能なのではないでしょうか。

永井:概念的には理解可能です。しかし、それはまさにこの私の存在のことなのだ、と理解しないと正しい理解にならない、という点が肝です。

※哲学探究3 終章 第一節


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