言葉に宿られる

ぼんやり何かが浮かぶ。

それは頭のなかに浮かんでいるのか、
心のなかに浮かんでいるのか、
解らないけど、ワタシのなかのどこか奥底に浮かんでいる。
なにかモヤっとした、白い霧のようなもの。
その正体を知りたい。
知るためにワタシはそれを表現しようとする。
ながめて、観察して、考察して、
なんとかして表現しようとするとき、、、
頼るのが「言葉」
ワタシにとってはやはり言葉なのだ。

やがて言葉を紡ぎはじめる。

どの言葉が最適なのか?
どう言い表わせばいいのか?
どういう順序で組み合わせれば解るのか?

だんだん作為がはいる。

どう表現すればウケるのか?
どう言葉を組み立ててれば洒落ているのか?
どの単語をつかえば賢そうなのか?
どんなプロットなら笑ってもらえるのか?
どう奇をてらえば売れるのか?
どうすれば、
どうやれば、、、

でも、、、

言葉は自分(「私」が)で書いては駄目、らしい。
つまらぬ作為がはいっても駄目。

言葉にして語らしめないとホントのことは表れない、、らしい。
自分(「私」)の作為ではなく言葉に操られ、知らぬ間に綴っている、らしい。
自分(「私」)がつくったとは思えず、ふわっと綴れる、らしい。
ワタシを通して何かが書かせている、、らしい。
そんなものらしい、、、、

そういえば、むかし、、、、随分昔にいちどだけ、、、
言葉を綴って綴って綴り続けていて、そんな感覚に陥たことがある。
最初は考えながら綴っていたのだけど、ふと気が付くと知らぬ間に指が動いていた。
そこに表れた言葉はワタシが書いたとは思えなかった、でも、ワタシが書きたかったことをワタシ自身が思いつきもしない言葉で綴っていた。
結構不思議な体験だったが、あんなようなことを言っているのだろうか?

きっと言葉に宿られる「方法」などないんだろうな。
今日、言葉に操られようとして操られることはできない気がする。
それは考えて、探って、求めて、書いて、書いて書き倒して訳がわからないくなったとき、
ふと訪れることなのかもしれない。


(文中「〜らしい」は、大峯顕・池田晶子対談集「君自身に還れ」より)


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