12. 死を自覚する

「死」というのは「生」があっての観念だ。
「死」と「生」は表裏である。
つまり「死」を自覚しなければ、自覚的な「生」を生きることはできない。

なんてことを言われて、

「自覚的な死」を意識して、
「自覚的な生」を生きてみようと思うのだけど、
死の自覚というのが、はたして本当にできるのかどうか?

この「身体」が、感知し伝わる感覚、
視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚、自覚できない何かしらの感覚まで含め、
感じ、集約し、思索し、再構築し、
言葉もしくは絵でも、音でも、、、
しっくりするまで練り上げて表現。
そして、noteする。

noteするには、また「身体」に頼ることになる。
感知し表現する「身体(含む脳)」が機能しなくなることを「死」とする。
例えば、病、事故、殺さる、、、寿命、いろいろあるが、いずれ死ぬ。
死ねばnoteの掲載もストップする。
明日noteしようと今日を生きても、明日は死んでいるかもしれない。
明日でなくても、必ず死ぬ。
誰にも例外はない。
そう「私」も当然例外ではない。
間違いなく死ぬ。
ほんとうに自覚できているのか自問。
明日死ぬ自覚、いつか死ぬ自覚。
考えて解っていてもそれが本当に、マジで、真剣に、
自覚的な死(つまり自覚的な生)になっているのか?
なんとなく明日も生きている、、、
いつまでも生きている、1か月後も、1年後も生きている、
ような、気になっている気がしてたまらない。

そこで考えてみた、
この「身体」が病に侵され、半年後生存率は20%と診断されたら、、

1. noteを続けるか?
2. noteなんてやっている場合じゃないと思うか?

さて1.の場合どのように続けるか・・・

1. いままでのように続ける
2. これまでよりも濃く、深く、何かを遺すためにつづける

ここでも2.の場合は、何故、何かを遺そうと思うのか?
という命題がつづくのだけど、とりあえずは、

なぜ半年生存率が20%といわれて、始めて死の自覚ができるのか?
いわれないと自覚できないのか?
そんな風にしてスルーしていていいのか?
明日死ぬかもしれず、何も遺せないかもしれないのに。
と、こう思索してもなかなか自覚できないのが「私」の「死」。
自覚しないうちは、自覚的な生もできないというのに。


よろしければサポートお願いします