2.ワタシは「私」をみつめる
子どもの頃ワタシの見ている「赤」と他人の見ている「赤」は同じ「赤」なのかな? と思ったことがある。
友達に聞いてみたがその答えは解らなかった。
他人の見え方がワタシには解らず、ワタシの見え方が他人には解らないのだから。
ずっと時間がたってから別のことを考えた。
ワタシが思っている「私」と、他人が見ている「私」は同じなのかと。
一体他人に「私」はどう映っているのだろう?
「私」の名前は毒多、日本人、学卒、男、中肉中背、つーふー、
・・・鬱陶しい、優しい、気難しい、ブサイク、生意気、ギター弾き、
いろいろな「私」が、映し出されている。
多くの他者はそれぞれ違う「私」を写しだし、それぞれが映しだした姿を「私」だと言う。
ワタシは他者に映る「私」をみて、「私」を確認しているのか?
ワタシは思う、
あいつに映った「私」は「私」ではない。
こいつに映った「私」は「私」に近い。
ヤツに映った「私」が「私」に最も近い。
何か違う。
それぞれに「私」を映し出す他者に対してワタシは叫ぼうとする。
本当の「私」はこうなんだ、と。
え、ちょっとまてよ、本当の「私」はどうなん? それよりも
一体、本当の「私」はこうだ、と叫ぶワタシとは誰なんだ?
本当の「私」の姿を考えるワタシは一体誰なんだ?。
もしワタシが「私」であるなら、「私」を見つめ考えることはできない。
ということは、ワタシと「私」は別者?
ワタシはどこにいる?
ワタシは「私」にこう在るべき、という意識?
ワタシは魂? それともワタシは神?
いずれにしろ、ワタシは「私」ではなく、
“本当の「私」”を「私」に追求させることができるものらしい。
つまりワタシは自由なのだ。
ところが逆に「私」のヤツがワタシを束縛しようとする。
「私」はワタシを否定しようとする、、あるいは、ワタシに気づきもしない。
「私」のヤツは、自由なワタシをおそれ、不自由にむかいたいというのか?
「私」とは厄介なヤツなのか?
そんな「私」でもワタシが在るとわかれば、なんとかなる。
きっとワタシは自由であることに気づく。
そして「私」も自由になりたいと思うはず。
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