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藁にもすがる思いで本屋になる PASSAGE日記 #9

本屋になってもうすぐ一年になる。
本屋とは少し言い過ぎかもしれない。正確には神保町の共同書店PASSAGEで一棚店主になって。

PASSAGEで一棚店主になる際に「一冊も売れなかったらどうしようと思ってはじめました」と言うのは嘘ではない。でも本心をオブラートに包んだよそゆきの言葉だ。

一年前の自分を私はうまく思い出せない。
それは今の私とはまったく別物だった。
PASSAGEを見つけて、よくわからないまま、ただただ申し込んだ。どうやって申し込んだかは思い出せないが、無我夢中だったあの感覚は残っている。本当に藁にもすがる思いだった。

あの頃の自分について思い出したくもないし、語りたくもない。
今になって思い返してもれば、当時私は限界を超え、はっきりとした自覚はないものの、自身がこのままでは破滅することをうっすら気づいていた。

一日のうち、どのくらい働いていたかわからない。
起きている時間で、働いていない瞬間はほぼなかった。
当然の帰結だが、体は悲鳴をあげ、次々と不調があらわれ、市販薬では抑えきれず病院に通いながらなんとか毎日をやり過ごした。
何ヶ月かそんな生活をした挙句、案の定起き上がれなくなった。

PASSAGEの一棚店主にすべりこみでなったのは、そうなるほんの少し前のことだった。
これ以上仕事だけをしていたら、自分が自分でなくなってしまうという恐怖心から、私はPASSAGEの棚主に申し込み、その後のことなど何も考えていなかった。
自分の人生に本の場所をつくりたかった。仕事以外の大義名分が私には必要だった。

寝たきりの私がベッドの上で後悔したのは、本を読まなかった日々だった。
仕事以外のことをしなかった日々のことを心底悔やんだ。
私は働きはじめた時、明確な優先順位があった。
私は私が好きなことを行うために労働をする。つまり本を読み、映画を見て、学びたいことを学ぶため、労働はそれに必要となる金銭を稼ぐ手段に過ぎないのだと、私ははっきりと理解していた。
しかし働きはじめて十年以上が経つと、仕事にあらゆるものが奪われていった。
「できるから」それだけの理由でどんどん仕事が降ってきた。おかしいなと思うことはあった。もっとフェアな分担をと求めたこともあった。けれど最終的には、仕事はできるところにやってくるという呪いで、そこにフェアネスはなかった。

寝たきりになって、生まれて初めて、心底自分に価値を感じた。
誰かができる仕事で評価されたところで、それが何だったのだろう。
あの時間、私は働くのではなく、本を読むべきだった。
私が本を読むことが何よりも価値がある。私が本を読み何を考え、感じるか、その時間を私はとても軽視していた。私ごときが何かを考えるより、そこにしなければならない仕事があるのならば、それを引き受けなければと、襲ってくる仕事にどんどんと従順になり、鈍くなり、最後には隷属していた。

ぽきんと折れてしまったそれを戻すのには、時間がかかる。
思い通りにならない体に今も苛立ちを感じるけれど、体を酷使し続けたのと同じ時間、もしくはその倍くらいの時間は回復にかかるものだと言われて、どのくらい長いこと私は私を酷使してきたかを振り返った。

寝たきりになった時、神保町の本棚を申し込んでしまってどうするのだろうと思った。
こんな状況では申し込んだだけで、満足に本の補充もできない。なんて間が悪かったのだろうと。
だが奇しくもこの神保町の本棚が私の人生の支えになることに、私はまだ気づいていなかった。

起き上がれるようになると、鍼治療の帰りに神保町に寄るようになった。
本の搬入、PASSAGEにいる人との短い会話。滞在時間はとても短かったが、私にとっては大仕事だった。家に帰ると疲れ果てたが、それは心地の良い疲労だった。仕事では感じることのなかった充足感のある疲労だった。
PASSAGEに行くことを繰り返す度に、自分の中に本の居場所が確固たるものになっていくような気がした。

こんなことは今まで話したことはなかった。
けれどPASSAGEで出会った人たちとの何気ない会話に私はとても救われた。世の中にこれほど本を支持する人がいる。
長いこと労働に染まりきってしまった私は、自分一人だけでは、本に価値があると信じきれなかった。本を愛する人たちの存在は、私を励まし、一人ではないのだと勇気づけてくれた。

PASSAGEがなかったら、私は今こうして生活できていたのだろうかと思う。
仕事に復帰しながらも、もう嫌で嫌でたまらないのに、夜中まで働く生活に逆戻りをして、また体を壊しての繰り返しだったかもしれない。

私は今後、働きすぎることはないだろう。
私はもう、本を読まない人生を生きるつもりはないということが、明確にわかってしまった。

一年が経ち、私は本屋さんになったと心底思う。
平日の昼間は働くけれど残業はしない。夜は本を読む時間だ。
週末はPASSAGEに行かなければだから、体調を崩して寝込んでいるわけにはいかない。
私の人生には本があって、私の心は本屋さんだ。
この一年で、私は自分の人生を取り戻したのだ。
私は生還したのだ。本とPASSAGEのおかげで。

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