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6限目:地方の大学生向けの講義(フォトリーディング、ソフトスキル向上、思考の読書、速読術)

前回の5限目に続いて、最終回の6限目です。ビジネスパーソンの桐島です。

さて、1限目に、日本の現代の教育は、デジタル化時代に対応していない、オワコンだ!と指摘しました。


しかし、一方で、読書はこの時代にこそ有用であり、読書の仕方を身に着けることが、ますます必要不可欠なソフトスキルです。

アメリカ留学中に、大学院でソフトスキルを鍛える授業を取れと言われて驚きました(詳しくは3限目で紹介済)( ゚Д゚)

アメリカの大学(学部)を卒業した人からしたら、”That makes sense and there are also some classes you can pick in undergraduate."という感じで、
「まぁ、当たり前の感覚よね♪」という感じでした。

私が所属していた、大学の一般教養課程でも、経済学部でも、ソフトスキルを教えてくれる授業はありませんでした。

なぜ、読書なのか?

それでは、
数あるソフトスキルのなかで、なぜ読書(速読術)なのか?

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それは、読書が学問(学び)の基礎だからです。

いまの大学は、レジャーランド化してしまい、(希望すれば)進学率100%という感じになってしまい、大学に行くことに特別感は無いでしょう。

確かに、高校はN高(通信制のN高等学校)、大学は起業するために、慶應SFCにだけ籍を置きつつ、起業をメインで考える。
Youtuberとして、高校の時から自分の趣味を発信して、多くの共感を得る。

というような、大学まで待たずとも、やりたいことを見つけて突っ走り始める、若者が増えつつあるなか(といっても絶対数は少ないですが)、いまこの瞬間やりたいことが見つからない人や、普通の能力の持ち主は、大学という場所で、学びを通して視野を広げることが、社会に出る上で重要な生存戦略です。

それには、大学の先生の授業を聞くのも1つですが、知識や思想を読書で手にいれる方が圧倒的にコスパが良いのです。

①読み書き>聞く話す

読むことは、書くためにも重要です。そして、読むことは、実は、聞くことよりも圧倒的多くの情報量を手にできます。

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内田樹さんは、英語教育の文脈ですが、読み書きは、聞く話すよりも断然重要と断じています。

本を読むというのは、知にアクセスするために必要不可欠です。
だからこそ、過去の多くの植民地では、宗主国(支配者)が、植民地原住民に対して、読み書きの教育は施しませんでした。

原住民が、知にアクセスして、賢くなってしまうと、支配者にとって都合が悪く、支配しにくいためです。

 植民地では、子どもたちに読む力、書く力などは要求されません。オーラルだけできればいい。読み書きはいい。文法も要らない。古典を読む必要もない。要するに、植民地宗主国民の命令を聴いて、それを理解できればそれで十分である、と。それ以上の言語運用能力は不要である。理由は簡単です。オーラル・コミュニケーションの場においては、ネイティヴ・スピーカーがつねに圧倒的なアドバンテージを有するからです。100%ネイティヴが勝つ。「勝つ」というのは変な言い方ですけれども、オーラル・コミュニケーションの場では、ネイティヴにはノン・ネイティヴの話を遮断し、その発言をリジェクトする権利が与えられています。ノン・ネイティヴがどれほど真剣に、情理を尽くして話していても、ネイティヴはその話の腰を折って「その単語はそんなふうには発音しない」「われわれはそういう言い方をしない」と言って、話し相手の知的劣位性を思い知らせることができる。
 逆に、植民地原住民にはテクストを読む力はできるだけ付けさせないようにする。うっかり読む力が身に着くと、植民地の賢い子どもたちは、宗主国の植民地官僚が読まないような古典を読み、彼らが理解できないような知識や教養を身に付ける「リスク」があるからです。植民地の子どもが無教養な宗主国の大人に向かってすらすらとシェークスピアを引用したりして、宗主国民の知的優越性を脅かすということは何があっても避けなければならない。だから、読む力はつねに話す力よりも劣位に置かれる。「難しい英語の本なんか読めても仕方がない。それより日常会話だ」というようなことを平然と言い放つ人がいますけれど、これは骨の髄まで「植民地人根性」がしみこんだ人間の言い草です。「本を読む」というのはその国の文化的な本質を理解する上では最も効率的で確実な方法です。でも、植民地支配者たちは自分たちの文化的な本質を植民地原住民に理解されたくなんかない。だから、原住民には、法律文書や契約書を読む以上の読解力は求めない。

引用元:内田樹の研究室「英語教育について」2019-05-31 
http://blog.tatsuru.com/2019/05/31_0824.html

皆さんの大学でも、「本を読むよりも授業をしっかり聞きなさい!」とか、「英語学習はリーディングよりも、スピーキングが重要です!」と言っている、無能な教師がいたら、気を付けて下さいね♪

変にバカにしてプライドを傷つけてしまって関係がこじられると面倒ですので、先生の言うことは聞かないで、読書を通じて知にアクセスして下さい


②社会的地位を高める by福澤諭吉先生

福澤諭吉先生は、大分県の中津出身で、身分が低かったので、イジメられまくりました。私は、中津の福澤記念館にいって、福澤先生の「周りを見返してやろう!」という執念をヒシヒシと展示物から感じました。

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あの有名な「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」という台詞は、生まれは人間は平等なのに、社会的な地位の高い人と低い人がいるのは、学ぶか学ばないか、の違いであると、きっぱり断言しています。

では、如何に学ぶのか? という点に対しては、書物を読むことだけではなく、実生活、実際の経済、現実の世の中の流れを察知するのも学問である、と言っています。しかし、大前提となるのは、人の話を聞いたり、書物を読むことです。

 学問とは広い言葉で、精神を扱うものもあるし、物質を扱うものもある。修身学や宗教学、哲学などは精神を扱うものである。天文、地理、物理、化学などは物質を扱うものである。いずれもみな知識教養の領域を広くしていって、物事の道理をきちんとつかみ、人としての使命を知ることが目的である。知識教養を広く求めるには、人の話を聞いたり、自分で工夫をしたり、書物を読むことが必要だ。(現代語訳 学問のすすめ 齋藤孝訳 ちくま新書 P22)

というわけで、社会的な地位を高めるには、書物を読むことは、必要です。

近代日本の礎を築いた、福澤諭吉先生が言っているので間違いありません。

③近代日本の知の基盤(書籍>大学)

日本の日本語出版文化の間口の広さは大きく、特に新書は、読書を始めるのにお勧めです。また、近代日本の知の基盤は、大学ではなく出版だったということもポイントです。教育界のプロの苅谷剛彦先生、吉見俊哉先生の対談本「大学はもう死んでいる?」から抜粋します(そういえば、この本も新書です)

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吉見 活版が入ってくる前の木版本の時代から、本を読んで書くという中でものを考えていく文化が、日本には根付いていましたね。これが、明治維新と日本の近代化を支えていたことは間違いありません。寺子屋があり、藩校がある。これは、現代の塾があり、大学があるという構図と連続的です。日本の大学は、ひょっとすると欧米のようなユニバーシティなのではなく、今でも藩校なのかもしれない。この大衆的な読み書きの活動が明治に入ってますます盛んになり、出版と結びついた読書文化が日本人の知の生成活動の根底をなしてきたのです。ですから近代日本の知の基盤は、大学ではなく出版でした。
 そうした出版文化の中で、近代日本の大学論の嚆矢である福沢諭吉の『学問のすすめ』が出版されます。あの中で福沢は、「政府なんて信用できないんだから、当てにするな」「学問をベースにして民で立て」と私学を枢軸とした日本の大学教育を構想しています。(P251)

近代日本は、知の生成活動の中心に書籍があったのです。日本としての書籍を使わないわけにはいきません。また、次の箇所は、新書の魅力についての記述です。

苅谷 大学の先生たちは学歴取得者としての学生を輩出すれば良いとなれば、大学の中の生産の役割というのは教育を結びつかなくていいわけです。そうすると、出版との結びつきにおいて、もっと一般読者向けに自分の知の生産をしたほうがいいということになります。その生産自体は翻訳文化だったという問題は残りますが、少なくとも日本語圏では知の生産者として承認されていくわけです。けれども、そこで知識を求める読者層がいなくなってしまえば、日本型知の生産でさえ枯渇するようになっていくかもしれません。
 逆説的なのは、出版というのは当然日本語の読者層を対象としていますから、さっきから言っている日本語の壁ということによって、世界に出ていかない独自の知を形成するんです。ある意味ではこれは豊かさとも言えますし、日本がこれから世界に貢献できる知の宝庫だと僕は思っています。自分たちば日本の大学で生産してきた知を背負って、日本の大学が出版界と一緒につくってきた知の体系にアクセスするとなった時、日本語ができるということが強みになるんです。海外の日本研究の拠点は蓄積された日本語の出版物にある程度依存していますから、それをどう使うかというのはチャンスなんですよ。そこから新しい知の体系を生み出していくポテンシャルも生まれていくと僕は思います。
 たとえば僕がいるオックスフォードの現代日本研究所やハーバードのライシャワー日本研究所のように、非日本人に日本研究を教えたり、そこで実際に研究するというとき、当然ながら日本語が読めないといけないわけです。その時、最初にとっつきやすいのは新書で、少し日本語を読める外国人学生にとってはすごくいい入口になるんですね。これをたとえば英語でやろうとすると、最初からアカデミック・ペーパーを読ませるしかなくなってしまうと考えると、この日本語出版文化の間口の広さは大きな利点ですね。(P272、273)

ハーバードやオックスフォードで日本語を学ぶ外国人が、読む上で、入門し易いのは、新書だと言います。やはり、新書は、安く良質な知にアクセスするための、コスパの優れた書籍です。

④バカにされない(文化資本)

「この田舎もの」と思われないことが重要です。

先ほどの、②社会的地位を高めるの逆の観点から言えば、「本を読まない人は、社会人失格!」という考えの人がいます。

僕が社会人になった頃は、課内の雰囲気として、日経新聞さえ読まない奴は、国家公務員失格という雰囲気させありました。上司の朝の会話は、だいたい日経新聞の1面か3面の記事が主でした。

そのため、大学時代から、少しずつ本を読むことを習慣にすると、社会人になってから、バカにされずに済みます(笑)

厳しい現実を言えば、本を読む習慣というのは、フランスの社会学者ピエール・ブルデューが提唱した「文化資本」と関係します。

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読書習慣・環境、博物館訪問や観劇、文化的授業、課外活動、親子間の文化についての会話、文化や文学への態度、家庭の教育的資源などの文化資本総量というのは、「文化資本」として、親から子に遺伝して、学力とも関係してくるという現実です。

子どもの読書習慣というのは、親からの「文化資本」の遺伝でもあるため、読書習慣が無いことで、育ち方自体をバカにされてしまうリスクが潜んでいます。

「大袈裟だな!」、「そんな分からないでしょ!」という指摘もあると思いますので、実証研究をしている松岡亮二さんの「教育格差」(ちくま新書2019)という本から引用します。

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文化資本には3つの形態が存在する。具体的には、本や美術品などの物財を示す「客体化された文化資本」、学歴資格など制度に承認された「制度化された文化資本」、そして、言語力、知識、教養など、簡単に相続されない「身体化された文化資本」である。これらの文化資本は、主に家庭において時間をかけて親から子へと相続される。そして学校教育の中で評価される文化資本を持つ子は、高い成績や教師から好意的な評価を受け、結果として家庭の文化資本の差によって教育達成格差が生じる。(P113)

詳細な分析の結果によれば、①世帯収入などを調整しても、高学歴であればあるほど父母は読書をしていて、②父母が読書量を増やすと子の読書量も増えるー 読書習慣の世代間伝達が起きていると解釈できる結果が得られている。どのような親の下で育つのかが子の読書習慣という身体化された文化資本の形成を左右することを示唆している。(P117)

厳しい現実です、、、

しかし、学生の皆さん、ここで、「俺(私)の親は●●だったから、ダメだ!」と言い訳してはいけません。20歳(成人)になったら、皆さんは、自分の人生に対して、自分で責任をもたなければいけません。大人になったら、もう親からは自立しているはずですので、自分の人生には自分で責任を持つことになります!!!

そもそも、皆さんは、少なくとも、大学にまで来れているわけですから、あとは、大学時代から、読書を愉しく習慣化すれば、社会人になってから、読書習慣が出来ていて、人生の糧になることは、間違いありません。

そうすれば、社会人になってから、「お前、日経新聞さえ読んでいないのか!」と、私みたいに上司に叱られることはありません(´・ω・)

それでは、これにて、今回の一連の講義は終わりです。

こういった講義をしても、実践してくれる生徒は、ほんの一握りに過ぎません。それでも、ほんの一握りが実践して下されば、その人達が周りに良い影響を受けて、だんだんと大学の授業やゼミや仲間の雰囲気が変わってくると思います。

今回の講義を受けて、「読書が愉しくなりました♪」、「読書するようになりました♪」、「他の人に対しても是非とも講義して欲しいです♪」などあれば、是非とも、気軽にお声掛け下さい。

201222_ゼミ用 Adventure through and among books

大学生の貴重な時間は、「あっ」と言う間に過ぎ去ってしまいます。

時間を見つけては、本を読んで、愉しんで、実践して、自分の人生を切り拓いていって下さい。

退屈な授業を仕方なく聞いている暇、周りの空気を読んでいる暇があれば、その時間を本を読むことに使って下さい。

応援しています!!!

See you soon.

【2021年2月8日(月)追記:長崎県立大学の学生のフォローアップ】
2月7日(日)20時~22時で、6人の学生のフォローアップを実施しました。

しばらく時間が経過した後、授業の効果と生徒の継続状況を検証しました。以下のようなフィードバックをいただきました。
皆さんがしっかり授業内容を体得しているようで、ホッとしました (笑) 学生の皆さんの将来が楽しみです。

次回は3月7日(日)にフォローアップ予定です。

A君
●投資を意識して、読書量が増えた。読書、研究、就活の3つを同時にやっているなか、少し無気力感が出てきてしまっている。
●集中して机に向かうのが難しい。(先生からのアドバイスにあったので)カフェに行ってみたが、なかなか集中できないため、カフェ辞めることにした。
●iPhone7のTime Lapse機能を使って、勉強していると意外と集中が続く。
1人言が多いので、その際には知識アウトプットを意識。

Bさん
●本に対する抵抗感減った。文章が苦手だったが、興味を持った箇所だけ読めばいいと思うと気が楽になった。本を買うようになった。買うだけで読めていない本もあるが、読書を継続したい。

Cさん
●12月からお金の本を読んでいる。もう20歳になるので、お金のこと考え始めた。FP技能検定(ファイナンシャルプランナー)も受けてみようかなと思う。今月は5冊ぐらい読んでいる。経済以外には、心理学が気になる。
毎日、マイブックの記録を始めた(思考の記録をつける)。紙に起こすことで、考えがまとまってきたので習慣化した。

Dさん
●地政学に興味が出てきて、本を読んでいる。

Eさん
●本を手に取るようになった。以前は、本を読む習慣が無かったが、授業後はオススメの本を出合った人に聞くようにして、買うようにしている。関心分野の本は入り込める。

F君
●読書量は増えたが、いまは就活が忙しくて、生活の一部になっていない。今後、読書が生活の一部になるように努力したい。

以上
次回は、7限目です。See you soon.



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