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⑭東南アジアから見る日本の侵略史(タイのカンチャナブリ)

懐かしい2017年6月の記事です。

5月10 日のフレッチャー(アメリカのボストンにある大学院)期末試験終了後から1日3時間以上コンスタントに歩いているため体力に自信がついてきました。

近況になりますが、6月14 日にハーバードのアジアリーダーシップトレックがシンガポールで終了しました。

その後、シンガポールの友人の家に1泊して、バンコクのフレッチャースクールの親友のタイ人の家に 4 泊して、今はカンチャナブリという「戦場にかける橋」で有名なタイ西部、ミャンマーとの国境近くの町に来ています。

この町には日本が第2次世界大戦中にビルマに軍需物資を輸送するための、多くの現地人や連合軍捕虜 (現地人の数が圧倒的に多い)を使って建設した鉄道、その痕跡を残した跡地、博物館があります。

フレッチャーで韓国人と仲良くなり建設的な議論をしたり、トレック中に日本の歴史教育についてシンガポール人、オーストラリア人に質問を受け続けたため、日本の侵略に関する疑問が膨らんできました。

大きな気づきが1点あります。それは「日本と侵略されたアジア諸国の歴史認識の非対称性」です。

歴史認識となると、南京大虐殺や従軍慰安婦等、中国•韓国と論争になり、その解釈には感情や文化の違いが入ることが多かったために、 1人の日本人としてこれに真摯に向き合う(歴史を学び自分の頭で考える )ことを避けてきました。

しかし、今回取り上げるのは、日本人の落とし穴となっている東南アジア侵略に関するものです。学校教科書にほとんど記述が無いのです。前回紹介したフレッチャー入学前おすすめ書籍の英語で読む高校世界史(高校世界史B教科書)から引用します。

The Asia-Pacific War
Japan became bogged down in a war of attrition with China and invaded Southeast Asia to get strategic materials such as petroleum and rubber.
(中略)
Japan occupied the Malay peninsula, Hong Kong, Singapore, Java, Sumatra, the Philippines, Burma and most of Southeast Asia.
Japan claimed that the purpose of the war was to liberate Asian ethnics from colonial rule by Western countries and to build a "Greater East Asia Co-Prosperity Sphere".

英語で読む高校世界史

このように非常に簡潔な記述が一般的です(簡潔過ぎてオーストラリアへの攻撃やタイの蹂躙が抜け落ちています)。

香港のHong Kong Museum of History

例えば、トレックで訪れた香港のHong Kong Museum of Historyの歴史展示は秀逸でした。 1階は香港の文化、古代史、地理を扱っていますが、3階が現代史を扱っています (2階はカフェ)。そして、3 階フロアの一角を占めるのが、日本による侵略でした。

ここには、日本による爆撃や侵略や文化の強制の歴史だけでなく、私が最近知った軍票という戦時中に日本が普及させようとした通貨の展示もありました。

香港にとって日本人の侵略は、ナショナルアイデンティティが高まった近代史の重要な転換点になっています。

別の例としては、フレッチャーで後期に受講したGreater Chinaの授業で扱ったシンガポール建国の父の Lee Kwan Yee自伝であるSingapore Storyがあります。ここには、 Leeが受けた日本軍の残虐な仕打ちが克明に記載されています。

そして、今回紹介したかったのが、いま滞在しているタイのカンチャナブリです。

タイのカンチャナブリ

泰緬鉄道博物館をどうしても見学してみたく居ても立っても居られない気持ちになったため、バンコクから2時間バスに揺られて (たったの100バーツ=320 円)来ましたが、十分な成果がありました。

(カンチャナブリの中心地の雰囲気)

1日目(6/19)は泰緬 (タイ•ミャンマー) 鉄道博物館(連合軍共同墓地が隣接)とクウェー川鉄橋、2日目はヘルファイアー • パス•メモリアル(カンチャナブリから北西に 80キロ、バスで2時間、 50バーツ)を見学しました。

泰緬鉄道博物館は、元々オーストラリア軍に従軍していて土木工学のバックグラウンドを持つRod Beattieさんが 20年かけて泰緬鉄道の実態を明らかにした成果を展示しているものです。

研究に生涯をかける彼のプロフェショナリズムが展示から伝わってきました。そもそもオーストラリア人と日本とタイの関係が全くわかっていませんでした。

オーストラリアについての唯一の知識はダーウィン爆撃のみでした。ところが、展示物を見ていて知ったのが、日本が鉄道を敷くために捕虜 (POW)を大量にこの地に連行して苦役を強いたことでした。

Beattieさんは日本が戦時中に実施した捕虜に対する被人道的な仕打ちや鉄道の歴史を元捕虜や現地人に丹念にヒアリングをしたり、眠っていた歴史書を紐解くことで全容を明らかにしています。同じ研究者( ?)として研究にかける情熱を見習いたいと思いました。

早速、彼の功績の本Death Railway(590バーツ (2000円)で当博物館でのみ入手可能 )を購入しました♪

(連合軍共同墓地)

はじめに戻って「日本と侵略されたアジア諸国の歴史認識の非対称性」はどこからくるのでしょうか?

それは、暫定的な解ではありますが、
①日本の教科書で侵略史(特に東南アジア )の記述がない
②国際法に反する行為を日本軍部が隠蔽しようとした
③東南アジアとの戦後和解が比較的早い段階に行われて、日本側も戦時中の行為を歴史に残そうとしなかった

以上が挙げられると思います(自信はありませんが) 。

そもそも、ドイツにはホロコーストミュージアムがありますが、日本には自国の侵略を描いた展示物があるのか不明です。

以上がカンチャナブリ1日目に考えたことです。

2日目はヘルファイアー• パス•メモリアルを見学しました。

戦争をもって戦争を養う

さて、突然ですが、石原莞爾の「戦争をもって戦争を養う」という思想を御存知でしょうか?

戦争に必要な資金や物資を、戦争によって自ら賄っていくというものです。

NHKスペシャル『圓の戦争』で私は知りました。戦場の戦費は現地で貨幣を発行することによって調達するという文脈でした。

しかし、その発想は貨幣の発行だけではなく泰緬鉄道建設にも見ることができます。

泰緬鉄道はなぜ必要とされたのか?

そもそも泰緬鉄道はなぜ必要とされたのか?
建設時期、手法、費用、効果はどのようなものだったのでしょうか?

必要性

1942年の半ばに日本軍はインドの防御を最終目的とする英軍とビルマで戦っていました。

ビルマでの軍隊を維持するために、シンガポール南の脆弱な海路(マラッカ海峡) の他に、安全性の高い供給経路が必要でした。

そこで、日本軍はタイのバンポン(バンコクの西)からビルマのタンビュザヤまでジャングルと山を通過する長さ 415キロ(タイ側304 キロ、ビルマ側 111キロ)の鉄道建設を決定しました。

建設時期

1942年南ビルマとタイの両国で同時に建設を開始。1943年からは、 8月完成の命令により工事のスピードが一気に速められ1日18 時間労働になる。
1943年10月 16 日、ビルマとタイの線路がタイのコンコイタで連結。

建設手法

鉄道建設のために日本軍は約25万人のアジア人労働者と、6万人を超えるオーストラリア人、イギリス人、オランダ人、アメリカ人の戦争捕虜からなる多国籍の労働力を集めました。最新機器は利用できなかったため、土と岩をシャベル、つるはし、くわで崩し、バスケットやサックで運びました。

建設費用

6万人の戦争捕虜のうち、20%の12,399 人が死亡。7万~9万人の市民労働者も死亡したと考えられています。この死亡率の高さの原因はまともな食物の不足と不十分な医療施設以外に、近衛と鉄道監督者による情け容赦ない扱いによるものでした。

(このウジ虫みたいなものが食事です。衝撃的です)

建設効果

1943年12月から1945 年8月の間に220,000トンの軍需品が運搬。連合軍の空襲が鉄道の運行を妨げたが、日本軍はこのルート沿いで軍需品の運搬を続けました。

戦争終了後

鉄道の完成後、戦争捕虜はタイに残されたか、シンガポールに送り返されました。
戦争が終わると、戦争捕虜の生存者は本国に送還されました。

そうです。日本軍の力だけでは到底無理な鉄道建設をシンガポールに連行した捕虜を充てがうことで実行しました。
「戦争を持って戦争を養う」ことによる日本国本国とは離れた場所で自国民の手を汚すことが無く、更には捕虜に人道的な処遇をおこなっていなかったために現地で起こった事も歴史の闇に葬り去られていました。

私は日本がオーストラリアのダーウィンを爆撃したことは知っていましたが、13004人のオーストラリア人をシンガポールの収容所から捕虜として連行して強制労働させたことには無知でした。

やはり、日本はアメリカに対して戦後からの脱却を図っていると言われていますが、今の加計学園問題と一緒で、戦争の痕跡を消して自国に残さず、闇に葬り去ろうとしてしまう態度は今も変わらないようです。

歴史を残さないということは、歴史に学ばない(学べない)ということですからね …

フレッチャーでもアメリカでも、いまだに日本が暴走して次の戦争を起こす可能性があると信じている人がいました。

全く信じられないと思っていましたが、前回触れた「日本と侵略されたアジア諸国の歴史認識の非対称性」がいまだに根深く残っていることからしても、日本の戦争の可能性を予期する人がいるのも頷けます。

次回は2日目(2017/6/20)に見学したヘルファイアー •パス•メモリアルを紹介します。

See you soon.

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