成熟の型に「はめこまれる」か、未成熟のまま摘まれるか 『芽むしり仔撃ち』読書会 【闇の自己啓発】文学編

1月31日、Discord上で大江健三郎『芽むしり仔撃ち』の読書会を行いました。

参加者紹介

・【Taku】
主催者。学生。カフェイン中毒をなおしたい。TwitterID:@taku_baruch
・【あかふし】
Takuさんがノリで立ち上げた読書会に便乗する形で参加したら、いつの間にかもう一人の主催者扱いされていた。講談社文芸文庫から出版されている『戦後文学を読む』で合評されていたのをきっかけに『芽むしり仔撃ち』を知ったため、同書の合評と自分で考えたことの区別が付いていない。TwitterID:@akahushi
・【メルキド】
失業者。押井守や北野武、ゴダールに刺激され映画監督を志すも上京して挫折。帰郷後、文芸同人誌制作に精を出す。好きな作家は大江健三郎、村上春樹、多和田葉子、阿部和重。TwitterID:@ngz55
・【瀬希瑞世季子】
学生。ワナビ。最近全然本を読めていない。もう終わりかもしれない。TwitterID:@sekizui_chaaaan
・【N】
ゲスト。大江健三郎と同じ四国出身。

見出し一覧

◆あらすじ
◆導入
◆構成について
◆舞台について
◆閉鎖性について
◆一章と二章について(弟の描き方と田舎における「諦め」の不在)
◆三章について(南との関係性)
◆タイトルについて
◆恥とニヒリズムについて
◆政治的人間と性的人間について
◆ふたたびタイトルについて/村と国家の関係性
◆まとめ
◆一年間やってきた読書会のふりかえり
◆終わりに

あらすじ(wikipedia『芽むしり仔撃ち』の「あらすじ」から引用)

 太平洋戦争の末期、感化院の少年たちは山奥の村に集団疎開する。その村で少年たちは強制労働を強いられるが、疫病が発生した為に村人たちは他の村に避難し、唯一の出入り口であったトロッコは封鎖され、少年たちは村に閉じ込められてしまった。見棄てられたという事実、目に見えぬ疫病に対する不安、突然顕われた自由に対して途方に暮れた時を越えて、子供たちは、自然の中で生を得て祭を催すにいたる。

 少年たちは閉ざされた村の中で自由を謳歌するが、やがて村人たちが戻って来て、少年たちは座敷牢に閉じ込められる。村長は村での少年たちの狼藉行為を教官に通知しない替わりに、村人たちはいつも通りの生活を送っていて、疫病も流行していなかった事にしろという取引を強要してくる。少年たちは当初は反発したが、やがて次々と村長に屈服してゆく。そして最後まで村長に抵抗する意志を捨てなかった「僕」は村から追放される。
(閲覧2021年2月4日)

導入

【Taku】みなさんは、読後感どうでしたか?
【世季子】初期大江作品って感じ。
【あかふし】冒頭はとにかく読み辛かったのが、途中から読み易くなった。自分が慣れただけなのか、単純に文章が読み易く変化しているのか。
【メルキド】非現実な設定と、日常言語とは遊離した文体がマッチしているのでは。
【世季子】設定が、当時の実際の時代に即していない。ファンタジー的。
【Taku】感化院の疎開は、当時実際あったんですかね?
【メルキド】こんな徒歩での長距離のはなかったのでは。
【世季子】疎開のときは、感化院をだされて家族の元に戻されることもあったとききますね。
【あかふし】「疎開 感化院」でしらべても『芽むしり仔撃ち』の話しかでてこないですね。
【世季子】蠅の王みたいですよね。
【メルキド】世界各国の名作をめちゃくちゃ読んでかきました、みたいな。
【あかふし】めちゃくちゃハードモードな『十五少年漂流記』。
【メルキド】文体さえ普通だったら、今風のアニメやラノベにも通用するのでは。佐藤友哉の『デンデラ』は好例かも。

構成について

【世季子】章がこまかいですよね。
【Taku】大まかにいうと三幕構成になってますよね。村について、子供たちだけでなんとかやっていける、という感じになるが、うまくいかなくて、ダメになってしまうという。
【メルキド】最後、たたみかけるような展開になってますよね。犬が原因で、少女が死んだり、弟も失踪し、兵士も……。

舞台について 

【メルキド】舞台はどこなの? 寒いってかいてあるけど。
【世季子】季節が冬なので、どこでも寒いとおもうんですけど。
【あかふし】村に雪が降った時に、主人公が雪を見るのは初めてだと言ってましたよね。
【Taku】どのぐらいの距離移動してきたんでしょうね。一週間でいく予定だったが三週間かかっちゃったって書いてありますね。
【N】大江健三郎の出身地である愛媛の村のあたりって、四国山地のなかあたりで、山ばかりで、道も整っていないので、四国のなかでも三週間かかるのはありえるのかな。令和でもだれも住んでないようなところだから。
【あかふし】四国というのは、雪が降る土地なんですか?
【N】瀬戸内海をこえてなさそうだから、四国内での移動っぽい。山のほうが雪がふるので、四国山地のほうにちかづいていったのかなと。

【あかふし】舞台で使われていたトロッコがどういう感じなのかいまいちイメージできなかったですね。毎回命がけみたいになってるけど。
【メルキド】芥川の『トロッコ』みたいな感じじゃないの?
【N】芥川の『トロッコ』は高いところから低いところにおりるやつですよね。だから困っちゃったっていう。往復してるから確かに。どうやって動いているのかなと。
【あかふし】(Wikipedia「トロッコ」の項目に掲載されていた、奥多摩のトロッコの画像を貼る)

画像1


【Taku】読んでいるとまさにこんな感じのイメージでした。この下を通ると、逃げた村人たちにたぶんみつかるから、ダメだっていう話もありましたよね
【あかふし】枕木の間隔もこんな感じだと、歩いて渡るのはかなりしんどいですね。

閉鎖性について

【メルキド】発表は1958年。結構学生運動のこと書いているところあるのでは? 閉鎖された空間で、ユートピアを築くが、挫折するという、予見的なところもある……。
【Taku】60年安保がどのぐらいのあたりから盛り上がっていたのかわからないから、何とも言い難いですよね。
【メルキド】これが58年で、『砂の女』が62年だよね。『砂の女』は最後とどまるが、『芽むしり仔撃ち』は追放されるよね。対照的だとおもう。
【メルキド】大江健三郎ってけっこう外に出るよね。『万延元年のフットボール』は、最後アフリカにいく。『個人的な体験』も最後、アフリカを想う。外にでるのが大江だよね。
【Taku】外に出ざるを得なくなる、という感じが強いですよね。
【メルキド】四国出身ていうのが影響してるかもしれないね。上京して東京へ、というのが。
【N】四国の山らへん、ってかなり鬱屈しているというか、私も実家がすごい山のほうの村なんですけど、今は大阪にすんでるんですが、大阪に出てきてからのほうが外が広くて、都会のほうが解放感あって、びっくりしましたね。
【メルキド】『芽むしり仔撃ち』も確かに村の感じがかなり鬱屈していますよね。

【あかふし】人狼ゲームってあるじゃないですか。今まで僕は人狼に殺される村人の方を一方的に被害者だと思っていたんですけど、『芽むしり仔撃ち』を読んだ後では、人狼を吊るし上げる村人の存在もまた恐怖に感じるようになりました。人狼ゲームでやっているのはよく考えたら魔女狩りのようなもので、村人たちはヒステリーに陥ってますよね。
【メルキド】確かに逆転してるよね。最初、感化院の少年たちは荒くれものって感じだったけど、最後のほうになると村人たちのほうがやばくなるよね。

一章と二章について(弟の描き方、田舎における「諦め」の不在)

【あかふし】脱走した二人を連れ戻したので、一時は中断された疎開を再開するという。とにかくこのへんは読みづらかった。
【メルキド】最後も兄弟が脱走というかたちになるよね。
【Taku】脱走にはじまり、脱走におわる話になってますね。
【あかふし】ここで登場する弟は、この小説唯一の良心って感じですよね。
【世季子】 無垢な存在としての弟の役割が、飼育に登場する弟と似ているなって感じがしましたね。
【あかふし】『飼育』も兵士を匿うみたいな話ですよね。弟は純真そのものであるからこそ、複雑な立ち位置だなと思いました。映画とかで子どもが余計なことをした結果、致命的な状況に陥るみたいな場面を見ていると、腹が立つけど子どもがやったことだから責められもしないのでやきもきするんですけど、それと同じようなことを作中で弟もやらかす。
【メルキド】感情表現が複雑だよね。
【メルキド】主人公の「僕」が微妙に性的対象とした人が、みんな消えて行ってるよね。弟、李と少女……。
【あかふし】女の子を埋葬した後のシーンで、脱走兵ともそういうことがありましたね。
【あかふし】脱走した二人の南じゃないほう、腹痛で死んだ少年、その人に対する視線が結構冷徹なんですよね。主人公も他の仲間も、特に同情の余地がないというスタンスを取っている。
【メルキド】だんだん「僕」が理想主義的な感じに変化していくよね。
【あかふし】どちらかといえばそういう風に変化していったというより、初めから並列した感情を抱いていたのだと思います。主人公たちは腹痛で死んだ少年に対して冷酷なのかと思わせておいて、けれど村人たちが彼の死体を検分する姿に怒りを覚える。「どうしようもない」という言葉が多用されるように、少年が腹痛になってしまったことはどうすることもできない現実として受け入れているから同情を寄せることもないけれど、しかし同じ感化院の仲間としてシンパシーは抱いていた。だからこそ、彼の死体を踏みにじる村人たちに対して怒りを感じるし、少年が死んだ際には涙を流す。シビアな現実の中にある、冷徹な共感が描かれていると思いました。
【メルキド】犬とか雉とかでてきたのが、なんか桃太郎みたいだよね。
【N】「どうしようもない」っていうのが多用されているって話だったと思うんですけど、諦めとは違うかなと。四国っていう話になるんですが、田舎でせまいから、住むところとか、自分の行動に対しての選択肢があまりにも少なくて、腹痛で訴えていることが邪魔だったり足手まといだったりしたとしても、ただそこにいるというか、それ以外のことがない、みたいな。
【あかふし】所与のものとして当たり前にあるような。
【N】共同体のあり方が、特殊というか、あまりにも選択肢がないなかで暮らしているというのが印象にのこりましたね。
【あかふし】諦めるというと、いくつか選択肢があるなかで、けれどそれを選べないという状況だと思うんですけど、『芽むしり仔撃ち』の場合、選択肢が一つしかないので、それを受け入れる以外にない。だから諦めるという境地に辿り着く余地がないですよね。
【メルキド】そこで、違う共同体のひとたちとあうよね。李とか。まったく違う人たちと出会うことで、交流が開けていく。

三章について(南との関係性)

【あかふし】疫病の蔓延が発覚したことで、村人たちが別の村へ避難して、主人公たちが残される。この辺りから読み易くなってきて、以降の描写は全てに気合が入っているように感じました。
【あかふし】主人公と南の距離感が絶妙でしたね。彼らは特段親密であるとか仲が良いわけではないんですけど、二人とも子どもたちの中では年長者である自覚をぼんやりと持っていて、その自覚の下で二人は連帯している。そんな二人が外に逃げようとする村人たちを見つけて、絶望を共有する場面がとても良かった。
【あかふし】移動する村人の足音に気付くシーンにもそれが現れている気がしました。まず主人公が真っ先に気が付いて、南の方を見る。そしたら南も主人公の方を見ていて、二人は額を突き合わせるほど近くで目を見つめ合うことになる。彼らの信頼関係が端的に表現されている良い描写だと思います。
【メルキド】鍛冶屋が不気味だったな。

タイトルについて

【N】『芽むしり仔撃ち』というタイトルはいったいなんだったんですかね?
【世季子】村長の、悪い芽は摘むみたいなやつ、ありますよね。
【N】『芽むしり仔撃ち』って私は読んだときに、物語全部ひっくるめて、少年が大人になるという精神の過程、戦いをあらわしているかな、と思ったんですよね。
【あかふし】終盤に村人たちが子どもを懐柔しようとする場面は、南の成熟を感じる瞬間でしたね。子どもたちは「はめこまれている」と分かっていながらそれに従うしかない。そのような状況下で他の仲間たちが次々に壁際に移動して服従の意を示すのに対して、南は李と主人公と一緒に最後まで残っている。けれどそんな南がとうとう降伏するときに、「南の切れた脣の端からゆっくり血が流れ、そして無関心で冷淡なせせら笑いが彼の青ざめて小さい顔をうずめ歪ませた」という地の文が挟まるんですよね。南が大人になることを受け入れた瞬間の、何か悲哀のようなものを痛切に感じました。
【メルキド】南と主人公、どっちが大人なのかね、っていうのもあるよね。
【あかふし】主人公は懐柔を受け入れられなかったという点で、最後まで子供であろうとしたのかな、という。
【メルキド】やけに「脣」とか、「嗄れた」っていう表現がでてくるよね。

恥とニヒリズムについて

【Taku】僕がお椀とか握り飯を払いのけたときの描写で、僕の仲間たちが僕に背をむけて恥じている様子をみて、その恥の様子に共感したからこそというか、「僕の震える腕がそれをはらい落としたのもおそらくはその胸をしめつける恥のためだったのだ」という。まさにはめ込まれていく過程をみながら、反発的にふるまったんだ、ということがわかる描写がよかったですね。
【あかふし】仲間たちはみんな「僕」を裏切ったことで恥を感じているのに対して、「僕」は目の前に差し出された食事に、身体が生理的に反応してしまうことを恥じている。理性ではどうすることもできない領域にすら恥を覚えるところに、主人公の周囲とはまた異なる強さを感じます。
【メルキド】少女がおなかを見てもいいよ、といったときに、すぐ出て行ったのも「身体が生理的に反応してしまうことの恥」だよね。どこか不幸であろうとした、とこもあるような気がする。
【あかふし】僕は少年たちが不幸だという感覚はあまりなかったですね。彼らの方も、自分が不幸だとアピールすることはない。
【メルキド】なんかニヒルというか、皮肉っぽいところあるよね。
【Taku】洪水の比喩が使われてたと思うんですけど、現実を、抵抗のしようのない力の奔流として考える捉え方をしているような気がします。だからといって諦めてるわけではなくて、はめこまれないように抵抗しているわけじゃないですか。そこが面白いです。
【あかふし】現実を受け入れないニヒリズムと、現実を受け入れた上でのニヒリズムがあるんだと思います。前者は単なる嫌味な奴に過ぎないが、後者を貫徹する姿には強さがある。『芽むしり仔撃ち』は後者の小説ですよね。
【Taku】前者は現実主義に対する逆張り(?)ですよね。後者こそが真の現実主義だと思います。
【メルキド】カミュ『異邦人』の一般的なムルソー像とは反対で熱血漢になったみたいな。なんかずれてる。普通の人とは違う。批評家的な感じがする。
【あかふし】最も失われたものが多いから、主人公はそう見えるのかな。関係の強い人が、次々と失われていく。犬が殺され、弟が失踪し、愛人であった少女が死んじゃって、脱走兵も村人の手にかかる。南と李という信頼関係にあった同年代の仲間にも、彼らの立場を思うと仕方がないが、それでもやはり見捨てられてしまうという。
【メルキド】「僕」にとっては、そのように人間関係がばらばらになっていくことが、「芽むしり仔撃ち」なのかもしれないね。すべてがはぎとられてしまったという。
【あかふし】そういう状況だと、ニヒルにもなるのも当然かなと。客観性なしに主観だけで受け止めるには、余りにも彼の現実は厳しすぎる。
【Taku】でも、朗らかな感じしますけどね。ニヒリズムといっても。『死者の奢り』とかよりも明るい感じがします。

政治的人間と性的人間について

【あかふし】先日別の場所での会話で、Takuさんが政治的人間/性的人間の区別について語っていたと思うんですけど、その話を聞かせてもらえますか?
【メルキド】それはスガ秀実の?
【Taku】いや、特にちゃんとした話ではないんですけど。まず、『性的人間』を読んでないので厳密に大江作品に基づいた読解とかではないんですが、『死者の奢り』で死体が物としてある、みたいな話があるとおもうんですけど、つまり他者を、ナルシシスティックな自己の投影としてしか理解できないありようが性的人間、それに対して、そうではない他者との関係の構築を政治的人間と考えるとしたなら、政治的人間のありようは難しいよなあ……みたいな。そんな感じでしたっけ?
【メルキド】大江健三郎もそうなんじゃないの。性的人間からはじまって政治的人間になろうとしてもがいているのが大江健三郎なんじゃない。
【あかふし】現代における「政治的」なものとか、「政治的」な話題で盛り上がる人々って、その定義で言えば性的人間ばかりですよね。自らと異なる意見を、無機質にしか捉えられていない。
【Taku】 例えば、ネトウヨが、パヨクが、ツイフェミが、というような紋切り型の物言いのありようが、まさにそうなんじゃないか、と思いますね。本当は右翼にも左翼にもフェミニストにも様々な系譜とタイプがあり、それらは区別されて然るべきなのに、戦略的/無意識的の違いはあるにしろ、そうしたレッテルを貼りつけることで議論を有利に進めようとするやりかたを、インターネット上の随所でみかける気がします。
【あかふし】昨年公開された、『三島由紀夫vs東大全共闘』という映画で、三島由紀夫が語っていたことを思い出します。サルトルの『存在と無』によれば、世の中で一番ワイセツなものとは縛られた女の肉体であると。我々は他者、すなわち意志を封鎖され、行動を制限された状態の相手にこそ、エロティシズムを感じる。つまりエロティシズムというのは「関係」ではなく、オブジェに触発された性欲でしかないんですね。三島はそこで自らの初期作をエロティックにのみ世界と関わろうとしている、そして大江健三郎の小説も同様だと評しています。『死者の奢り』なんかはまさに世界を他者視して生きようとする主人公が描かれているけど、『芽むしり仔撃ち』はそれとは対照的ですよね。(注釈.角川文庫『美と共同体と東大闘争』)
【Taku】『芽むしり仔撃ち』には女の子だったり朝鮮人だったり、三島がいうような通常の場合オブジェとされがちな「他者」たちと、「関係としての他者」として出会えそうな契機がちりばめられていますよね。脱走兵も、大人になりかけの者、みたいな言われ方がされてたとおもいますが、完成された、それこそ鍛冶屋や教官のような大人よりも、「大人になりかけの者」の方が、子供にとっては「他者」にあたる存在なのではないか。
単に現実を知らない無垢な存在である子供と、現実主義的な大人とのよくしられた二項対立に収まらないという意味で、脱走兵との遭遇は、「他者」(現実を知った上での理想主義)との遭遇と言えるんじゃないかと思います。もちろん、主人公や南は、脱走兵を卑怯で情けないやつと考えるので、そこでは出会い損なっているのですが。
【Taku】また、『芽むしり仔撃ち』では、子供を単に無垢な存在としてや、あるいは単に反対のものとしての「早熟さ」(子供─大人の二項対立の同一性の再生産でしかない)を強調して描くような陥穽を回避してるように思えます。
【あかふし】自分の仲間たちが「僕」を裏切ったことを恥じていることに、主人公が共感を寄せているのも、裏切り者の仲間を他者視しないことの現れですよね。そこに「性的」な「政治性」を乗り越える、真の政治的な有り様を見ることができる。

【あかふし】昔、『死者の奢り』や『奇妙な仕事』、『他人の足』なんかを読んだ時に、大江健三郎は政治運動に冷めた目線を向けている作家だという印象を受けたので、実際は具体的な政治運動を起こしていると知って驚きました。
【あかふし】『他人の足』なんかはそれが顕著な短編です。サナトリウムのような場所に、ある日意識の高い少年が加わることで、みんな一時的に政治に目覚めるのだけど、彼がいなくなった途端にその熱は冷める。運動の挫折が描かれている作品だと感じました。
【世季子】若いころから、大江は政治活動してますからね。石原慎太郎とかと。
【メルキド】「若い日本の会」
【世季子】だからあとから考えかわって政治活動するようになったわけじゃなく。
【あかふし】ニヒリズムを持ったまま政治活動を続けているのがすごいですよね。まさに現実を受け入れるニヒリズムを貫徹しているのかな。
【メルキド】スガ秀実とか外山恒一とか革命は成功だったという立場だけど、大江は革命は失敗だったという立場なのでは。

ふたたびタイトルについて/村と国家の関係性

【N】『芽むしり仔撃ち』という作品自体が、一人の少年であって、登場人物全員が人間のなかひとつひとつの内部の要素という感じで、「芽むしり仔撃ち」という少年が大人になる過程で、悪い芽たちはどんどんつぶされていくというのを、病気の仔牛が殺されるとか、百姓が悪い芽は子供のうちに潰すという、小さい構造でみせてるというのが、作品全体の流れかな、と思いました。
【あかふし】「僕」は主人公ではあるけれど、小説全体を主人公と見てみたら、単に大人になる過程で摘まれた芽の一つに過ぎない、みたいな。
【N】そうだと思いました。だから、最後のシーンも、まだ戦いはつづくっていう予感はありつつ、でも最後は負けるしかない、摘まれるしかないという確信もありつつ、終わるっていう感じだったので。「はめこまれる」っていうのも、「芽むしり仔撃ち」という一人の少年がいて、その少年が大人になっていく時に、ひとつの統合された、大人になっていく過程に「はめこまれる」という、大きい視点でもみれるかな、と思いました。芽っていう表現が作中で何度かでてきたときに、若いとか、形になりはじめたばかり、未成熟とかそういうイメージで使われてたと思うので、そういう流れの作品なのかな、って感じました。
【あかふし】そういう意味では、弟の生死がわからないっていうのが面白いですよね。弟は摘まれたのか摘まれてないのか曖昧なまま、『芽むしり仔撃ち』という小説が終わっていく。彼はまだ残っているかもしれない、という留保がありますよね。
【N】 そうですね。
【メルキド】袋と猫の死体は?
【あかふし】ああ、言ってましたね。李が。
【N】 芽むしり仔撃ちの「仔」が、動物の仔の「仔」になっていて、人間の子供の「子」は人偏のない「子」で作中出ていたとおもうので、人として成立してない動物っていうことも、あるのかなって思って、猫とかもそういう風に考えれなくもないかな。
【あかふし】作中に仔羊って言葉がでてきましたよね。「仔」という漢字を使って「仔羊」と書くと、飼育・管理された存在という意味合いが含まれる。作中の少年たちと大人の関係を暗示されているような。
【メルキド】家畜みたいな。鳥も大量に殺したでしょ。平野謙の解説によれば、大江の初期はそのほとんどが未成年者を主人公にしているって。
【メルキド】あの袋のなかには何が入っているの?
【N】食器とかじゃなかったですか。
【メルキド】少年たちが村を好き放題やるじゃないですか。鳥をうったり、食べ物をつまみぐいしたりする行為が、「芽むしり仔撃ち」であるようにみえて、実は自分たち自身が大人たちにむしられる存在になるという、それもまた逆転してるよね。
【あかふし】更に言えば、村人たちもまた空から降り注ぐ飛行機の空襲に脅える仔羊でしかない。
【あかふし】だから村人に対しても共感のまなざしがある。村人たちは主人公に酷い仕打ちを加えるが、戦時下という状況にあって、しかも疫病という現代ですら苦戦する災厄まで生じるのだから、彼らの反応もやむなしというか。一方的に彼らが理不尽を加えるのではなく、彼らがそうせざるを得ない存在であるところに、不条理を描いていると感じる。
【N】村はいくつか断られた末に受け入れてくれたところだったので、もともとは、優しいというか、寛容なところからスタートしていったので、一方的に悪いばかりじゃない、というのは思いました。
【メルキド】一種のヒステリーを起こしているよね、村長は。
【あかふし】そういう意味で『火垂るの墓』みたいなところありますよね。子供の頃は、親戚の叔母さんに対して冷たい人という印象を抱いたのが、大人になってから見ると、むしろ主人公たちのほうに腹が立ってくる。
【あかふし】直接的な戦争っていうものがあまり描かれていないですよね。行軍する兵隊の隊列とか、そこから脱走した兵士が描かれることはあっても、それらはあくまで間接的な戦争の描写なんですよね。それにも拘わらず子供たちは悲惨な目にあっている。我々が「戦争」と聞いてイメージする空襲や原爆ももちろん凄惨ではあるけれど、そればかりが戦争ではない。むしろ戦争状態というのは、何気ない日常に影を差す脅威としてつねに背後にある、という恐ろしさを感じます。
【メルキド】ちょっとホロコーストっぽいところもあるよね。移送されて、そこで立ち往生して、隔離されて。
【Taku】隔離というか、閉鎖されたところという意味で、日本列島自体もそういう感じはしますよね。まあ、朝鮮とか満州は行っているけど。
【メルキド】名づけが特徴的。数少ない固有名では李もあるけど、南という名前のつけかたが、土地というか場所というかを反映している。
【Taku】実際には日本軍が南洋諸島を侵略していったにもかかわらず、南は単に南に行くことを夢みているだけというところがありますよね。戦争がなければ南に行けたのに、というけど、たぶん戦争がなかったら南には行けないし、南の場所もまた変わるとおもうんですけど。*1
【あかふし】そこが脱走兵との立場の違いでしたよね。「僕」と南は、脱走兵を戦争から逃げた情けない奴だと思っているけど、脱走兵は「人を殺したくない、その気持ちは君らもそのうちわかるようになるはずだ」と言う。
【N】脱走兵が戦争は恐ろしいみたいな話をしているときに、南と主人公が「別に」というか、あまりピンと来てない様子でしたよね。
【メルキド】「祭り」のあとの会話ですよね。
【あかふし】彼らは、戦争は怖くないというようなことを言っているけども、勇敢な大人として発言しているのではなく、何も知らない少年がヒロイズムで言っているだけなので、むしろそれは子供としての態度の表出ですよね。

【Taku】第一回で読んだ『砂糖菓子の弾丸は撃ち抜けない』で、主人公のなぎさが中学校卒業して自衛隊に入るという「実弾主義」を掲げますが、それもまた戦争を知らないで戦争を怖くないと言う南と同様の言動であって、リアリズムの欠如でしかないと思います。*2

【Taku】あてはめ的な読み方をすれば、朝鮮という話と南という話と女の子がああいう風に見捨てられちゃうという、ある意味マイノリティを描いたという小説ということをいえますよね。
【メルキド】教官の存在がものすごく希薄だよね。まったく忘れられているというか。
【あかふし】いたら子供だけの世界にならないですもんね。
【メルキド】教官不在の世界っていうのがまた日本的というか。
【Taku】教官は国家の権力の代行してる存在ってことじゃないですか。感化院ってのはつまり。
【メルキド】教官は天皇の無責任で、村長が東条英機みたいな。
【世季子】村=国家みたいな。
【メルキド】「村=国家=小宇宙」(『同時代ゲーム』)
【Taku】しかし、村は村で、国家の意思とは関係なく、勝手に主人公たちと対立していて、それをばれたくないという行動をとっているので、村=国家にはならない気がしますね。
【あかふし】村と国家で上下関係がある気がしますね。村人たちは憲兵の登場によって態度を変えたのだろうと仄めかされているので。
【メルキド】国家=憲兵
【Taku】国家=憲兵で、村長が村の考えを代表しているという感じになりそうです。
【メルキド】国家=憲兵で、村長が軍部的な?(暴走するという意味で)
【あかふし】日本史で習った張作霖爆殺事件を思い出しますね。たしか軍部が勝手に暴走して、時の内閣総理大臣である田中義一が昭和天皇の叱責を受けるという顛末だったので。村長が恐れているのも、自分たちの暴走が憲兵に発覚する事なので、そこには明確な上下関係がある。
【Taku】『万延元年のフットボール』で「スーパーマーケットの天皇」という登場人物が出てきて、たしか朝鮮系の人が成り上がってという話だったとおもうんですが、村の顔役とか代表的・象徴的人物が権力を持っているというよりも、実はその外部に力があったりする、という構造がある気がします。まあそれは『万延元年』の話ですが。
【メルキド】『芽むしり仔撃ち』にもそれがあるかもしれない?
【Taku】『芽むしり仔撃ち』だとしたら、さっき言及された国家の代行である憲兵の存在ですよね。村だからといって、村長という代表的人物が必ずしも完全な権力として存在しているわけではなくて。
【あかふし】水戸黄門みたいなところがありますよね。悪代官がその土地で好き勝手やってたら、もっと偉い存在にお叱りを受ける、みたいな。

*1小森陽一『小説と批評』参照

*2『Rhetorica #04 特集:棲家 ver. 0.0』(2018.11.25発行)江永泉「少女、ノーフューチャー──桜庭一樹『砂糖菓子の弾丸は撃ち抜けない』論」参照

まとめ

【メルキド】そろそろまとめに入りますか?
【あかふし】初めは、舞台設定、時代設定について話しましたね。その後は、第一章から順に振り返る感じでしたっけ。結局それは途中から忘れてしまったけど。
【世季子】弟を軸に『飼育』との共通点をみたりしましたね
【メルキド】主人公の人間性とかね。
【あかふし】ニヒリズムの話と、政治的人間/性的人間の話。あとは、『芽むしり仔撃ち』のタイトルの意味とかですね。
【世季子】捨てられた者同士の、同じ属性であるというだけの連帯、みたいな。
【あかふし】その話で一つ付け加えておきたいのが、主人公と李が取っ組み合いをする場面ですね。なんとか喧嘩に勝った主人公が、弟に向かって「あいつほんとうに強かったな。朝鮮人にはなかなか強い奴がいるから喧嘩の時は長びいてしまう」と言う。そこで相手の強さを認めているところに、感化院の少年と朝鮮人の少年との間に、はぐれ者どうしの敬意と共感が生じていると思いました。
【Taku】 Dragon Ashの「東京生まれHIPHOP育ち 悪そうな奴は大体友達」的な感じのノリを感じますね。
【世季子】あの辺はだいぶ「路地裏」してますもんね。
【あかふし】見棄てられた者たちの共感というのは生温いものではなくて。意見はバラバラだし、病気になってしまった少年に対してはどうすることもできない。シビアな世界の中で、一枚岩でなくとも連帯せざるを得ないという状況でそれは生じるので、ソリッドな関係性だなと。
【メルキド】決して内ゲバ的じゃないもんね。
【あかふし】それから、主人公や村人とかを対比して、成熟というのがどういうものか。『芽むしり仔撃ち』自体が成熟の過程だったんじゃないか、みたいな話をして。
【メルキド】最後が、権力の話だよね。
【Taku】天皇を直接書いていないっていうところがポイントな気がしますね。
【メルキド】戦中を描くのであれば、何らかのそういう象徴がでてきてもいい気がするよね。天皇不在の王国なのかな。
【あかふし】主人公たちのユートピアは共和的ですよね。

【あかふし】僕と少女の関係についてはあまり触れられなかったかな。
【メルキド】少女のおなかの話はしたよね。
【あかふし】少女がおなかを見せてもいいよって言った時に逃げだしたのが、性的な段階での発達を主人公が拒んだと言えるのかな。
【メルキド】おなかといえば、妊娠のイメージもあるよね。
【あかふし】少女については、犬の名前を弟があっさりと「レオ」に変えてしまったところは読者としても少しショックだったので、主人公の心情がそれとシンクロしているのが良かったです。主人公と少女の関係が構築された象徴として「クマ」という名前があったと思うので、それが簡単に上書きされてしまうのは悲しい。
【メルキド】だから、少女と弟がある種ライバル関係になりつつあったところがあったけど。弟が嫉妬するようになったというか。
【あかふし】弟がイノセントな存在で、だからこそ彼に対しては複雑な気持ちを向けてしまうというのは初めの方に言ったと思うんですけど、このシーンもまさにアンビバレントな感情が描かれている。
【あかふし】後は、諦めの話とかしましたよね。そもそも選択肢がないから、どうしようもないっていうこと。捨てられた者同士の連帯っていうのも、そういうことだったのかなと。

一年間やってきた読書会のふりかえり

読んできた本のリスト
・砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない(桜庭一樹)
・ある島の可能性(ミシェル・ウエルベック)
・クォンタム・ファミリーズ(東浩紀)
・恐るべき子供たち(ジャン・コクトー)
・グランド・フィナーレ(阿部和重)
・十九歳の地図(中上健次)
・いのちの初夜(北条民雄)
・タイムスリップ・コンビナート(笙野頼子)


【世季子】『砂糖菓子の弾丸は撃ち抜けない』にはじまって、『芽むしり仔撃ち』でおわったの、テーマが共通していてよかったですね。
【あかふし】途中で取り上げた本も、『恐るべき子供たち』とか『グランド・フィナーレ』とか。
【Taku】テーマ、子供でしたかね。
【メルキド】幼児性ですかね。
【Taku】成熟というテーマ。
【世季子】成熟関係ないのもわりと読んでたけど。
【Taku】ウエルベックとかは、成熟っていうより中年の問題ですからね。
【世季子】東浩紀とウエルベック、途中、中年パートありましたよね。
【メルキド】笙野頼子は中年っていうより引きこもりか。
【あかふし】引きこもりの話だと、成熟の文脈で語れないこともないですけど。
【世季子】『いのちの初夜』は、成熟とか気にしてらんないぐらい、壮絶でした。
【あかふし】 『十九歳の地図』もテーマの一つに成熟はありましたよね。



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